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検索対象: アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官
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1. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

び ふしみ にちせいれきがつよっか けいおうねんがっ 慶応四年一月十一日 ( 西暦二月四日 ) といえば、鳥羽・伏見の戦いがはじまってすぐのこ こうべ 力いこくじん びぜんじけん じけんお こうべじけん やっかい ろだが、神戸で厄介な事件が起きた。神戸事件、または備前事件ともいう。神戸の外国人 じけん しようとつはっぽう 力いこ / 、へい にしのみやけいびおかやまはんびぜんはん きよりゅうちふきん 居留地付近で、西宮警備の岡山藩 ( 備前藩 ) の兵士と外国兵が衝突発砲した事件である。 きようと たたか こ、フしん そうちょうびぜんへい その日は早朝から備前兵が神戸を行進していた。京都では戦いがはじまっていたので警 備のためである。 なまむぎ しやさっ びぜんへい ぎようれつ 午後二時ごろ、行列のまえを横ぎった一名のアメリカ水兵を、備前兵が射殺した。生麦 こ、つい ころ れい しかた にほんじんかんがかた にじようきよう 事件にも似た状況で、日本人の考え方からすれば、殺されても仕方がない無礼な行為だっ たのである。 さっ力い であ こうふん びぜんへい しかしこれで興奮した備前兵たちは、あとで出会った外国人を片つばしから殺害しよう しようじゅうう 力いこくじん と、小銃を撃ちまくった。外国人はあわてて逃げて行く。さいわい大事にはいたらなかっ けいびたいしゆっどう かいへいたいしゆっどう たが憤激したアメリカ海兵隊が出動、またイギリス警備隊も出動した。イギリス軍の半数 じけん ふんげき ハラキリ こうべ こうべ よこ と 、、ば 力いこくじんかた たたか だいじ ぐんはんすう 137

2. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

あし たず つうやく よこはま こうしかん ぐんかん力いよ、つ 力いこくじんきよ、つかん の軍艦「開陽」の外国人教官のことで、横浜の公使館にパークスを訪ねたとき、通訳した のがサトウだった。それ以来のつきあいである。 ちょうしゅうきなし あ きよ、つ ークスさんと長州の木梨さんが会いました」 「ムフ日、 ちょうしゅうはんし きなし とうかいどうせいとうぐんさんぼう しんせいふ サトウがいった。木梨とは新政府の東海道征討軍参謀などをつとめた長州藩士である。 ちょうしゅうきなしあ 「ほう、長州の木梨が会いに行ったのですか」 よこはまかれよ 「いや、 ノ 1 クスさんが、横浜に彼を呼んだのです」 はなし 「どんな話をしておりましたか」 かいしゅうみ 海舟が身をのり出した。 きよう 「パークスさんが、勝さんに知らせておけといいましたので、今日やってきたのです。あ はなし なたたちにとって、わるい話ではありません」 にほんじんがわ えどそうこうげきえんき サトウは笑いながら江戸総攻撃が延期になるかもしれないので、日本人の側もしつかり こうし ことば った 足がためをしてもらいたいというパークス公使の言葉を伝えた。 よこはまきよりゅうちあんぜんおびや ヤ」、つ・け・き ークスは政府軍が江戸を攻撃して戦争になったとき、横浜居留地の安全が脅かされる とくがわよしのぶきようじゅんたいど けねんきなしった のではないかという懸念を木梨に伝え、徳川慶喜が恭順の態度を見せているのに、これを ばんこくこうほう とうばっ 討伐するのは『万国公法』にもそむくことになるといっているという。 わら せいふぐんえど だ かっ し せんそう み 151

3. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

めん 、カ えいこくさくろん さつませんつみに よこはまお サトウが書いた『英国策論』は、まず薩摩船の積荷を、幕府が横浜に降ろさせないこと にほんしようにん こうしかんふまんうった で、日本商人がイギリス公使館に不満を訴えてきたことをとりあげている。 さつません にほんさんぶつ力いこくしようにんう ねが しか と、つ」、つかんり・ 「 ( 薩摩船は ) 日本産物ヲ外国商人へ売リ払フコトヲ願ヘリ。然ルニ当港官吏、ソノ艦長及 すいふ きょよう じようりくおよう ビ水夫ノ上陸及ビ売リ払ヒ一切ヲ許容 : : : 」 ばくふ はヂ . ひはん さっちょうりようはん さくろん 幕府を激しく批判し、やがて薩長両藩をけしかける過激な『策論』となるが、そんな文 こうごん 面だから、ロ語文にして、すこし長くなるが要約してみよう。 ちほ、つだいみようじゅう 力いこくじんとりひ 国内物資を横浜港に荷揚げさせないのは、地方の大名が自由に外国人と取引きするの ぼうがい にほんじんよこはまきよじゅうく を幕府が妨害しているようなものだが、「もともと日本人を横浜の居住区にいれないよ がいこくじん ばくふ せ うにと幕府に頼んだのは、外国人たるわれわれだから、幕府を責めることはできない」 とする。 イングリッシュポリシイ English P01icy ばくふ こくないぶっし ばくふ よこはま」、つ たの はら にあ いっさい なが はら よ、つやく ばくふ かんちょうおよ ぶん 106

4. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

かまくらじけん っ ( 鎌倉事件 ) が終了したのである。 あんさっしやにく にほんじんたちば この暗殺者を憎まずにはおれないが、しかし日本人の立場になってこの事件を見ると、 しようじき あき そこく えいゅうてききしつ おとこ 正直なところわたしはなんとしても、この明らかに英雄的な気質をもった男が、祖国を しゆだん しん しんねん こんな手段ですくうことができると信ずるまでにあやまった信念をいだくようになった いかん のを遺撼とせずにはいられなかった。 にほんあんさっしややいばたお 力いこくじんち ほ、つふ′、 しよけい ひとびと しかし日本の暗殺者の刃に仆れた外国人の血も、またその報復として処刑された人々 せいめい こうねん み じゅもくしよう だいち こっかさいせい ひょくちから の生命も、やがて後年その実をむすんで、国家再生の樹木を生ぜさせた大地に肥沃のカ をあたえたのであった。 ちょいちがいこうかんみ めいじ しんさかたせいいちゃく ( ア 1 ネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳 ) ことば かんどうてき ししん 力いこくじんたいざい サトウのこの言葉は感動的だ。幕末激動期の日本には多くの使臣をはじめ外国人が滞在 ことば して、ものも多く書きのこしているが、こんな言葉を吐いた外国人はいない。 きしどうせいしん ぶしどう きようかん しんにち 日本文化の理解者であり、ヨ 1 ロッパの騎士道精神につうずる武士道にも共感する親日 ヤ」と・は イギリス人サトウだからこそ発せられた言葉だった。 にほんぶんか じん おおか りかいしゃ しゅうりよ、つ はっ ばくまっげきどうき にほ , ル は おお 力いこくじん じけんみ

5. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

へいわ 平和なおとぎの国ではなく、 おそ がいこくじんねらあんさっしやおうこう 外国人を狙う暗殺者が横行する恐ろしい国だった。 くる あ せいじじようせいきけん 政治情勢は危険をはらんで荒れ狂い ふあんじだい けつぶうふ 血風吹きすさぶといった不安な時代にはいっている。 しそ、つも じよ、つい かいこく、じん、つ 外国人を撃ち払えという「攘夷」思想が燃えさかるさなかに 飛びこんできたようなものだった。 らくたん サトウはそれで落胆したかといえば、そうでもない。 ぼうけんしん せいねん 冒険心をたぎらせたイギリス青年、 力いヤ」、つかん じよお、つへいか 女王陛下の外交官、 こうしかんつうやくせい かいこ一つかん いやまだ外交官とはいえない、イギリス公使館の通訳生は、 鎖国から解きはなされたばかりの にほんじようりくだいいつぼ 日本上陸第一歩を踏みしめた。 AJ さこノ、 AJ はら ふ

6. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こうえきはんじよう じようきようへんか かいぜん しかし状況は変化してきている。「日本との交易を繁盛させる」ためには、改善するこ せいさく とが必要なのに、まったくその政策がみられない。 力いこくじんさっしよう ばくふ はたして幕府は日本を代表する政権なのか、なんの力もないではないか。外国人殺傷 ちょう はんぎやくしゃぞくしゆっ あんさっしやおおだ みとはんしっせき の暗殺者を多く出している水戸藩を叱責することもできず、反逆者を続出させている長 しよう しゅうはんたい 州藩に対しても、どんな手もうてないのは、すでに威令がおこなわれなくなっている証 けんい しつつい ばくふ 拠ではないか。幕府は権威を失墜しているのである。 とくがわしようぐん ばくふ 。にほ ~ ル いちだいみよう じじつものがた もはや幕府が日本の一大名にすぎないことを事実が物語っている。その徳川将軍が、 しようごうつか しよがいこくじようやく 「大君」の称号を使い、諸外国と条約をむすんでいる。 さしよう おも しよ、フぐんにほんしはいしゃ そもそも将軍が日本の支配者を意味する「大君」をとなえるのは思いあがった詐称と いわなければならない。 そ みかどひとり にほんたいくんな 「日本ニ大君ノ名ハ二ツナシ、其ノ名ヲ持チ得ルモノハタダ帝一人ノミ」 れきし みかど じっげんしゅ ア」ほ , ル′、に 日本の国には朝廷というものがあって、帝こそが実の元首であることは厳然たる歴史 しようぐんれんごうだいみようしゅせき がしめしており、将軍は連合大名の首席にすぎない。 しようぐんたいくんな じようやく てんのうちょっきょひつよう 外国との条約は、天皇の勅許が必要にもかかわらず、将軍は大君の名で勝手にむすん じようやくちょっきょ でいる。このごろになって、はじめて条約勅許ということがあらわれてきているが、こ たいくん 。力しラ」 / 、 ひつよう ちょうてい にほんだいひょう ふた て せいけん な にほん も たいくん ちから げんぜん かって 107

7. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

家が生まれかわろうとしているとき、外国の使臣としてそれに立ち会うということは一生 のうち何度もあることではない。そのつもりではげんでもらいたい」 きたい ォルコックは、サトウに期待しているようだった。 なんど 力いこくししん いっしよう

8. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

つつあるのだった。 かんもんかいきようがいこくしようせんぐんかんほうげき じよういじっこう 大勢としては、関門海峡で外国の商船や軍艦を砲撃して「攘夷実行」をやっている長州 はんせいきよくしゅどうけん 藩が政局の主導権をにぎっている。 い廿一い ちょうしゅう 4

9. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こくれんごうかんたいちょうしゅうはん せき しものせきせんそうさいご 十七隻の四カ国連合艦隊と長州藩とのあいだでおこなわれた、いわゆる下関戦争最後の みつかかん こうせん 交戦は八月五日から三日間にわたって展開された。 かんたいがわ ちょうしゅうぐんれつきようせんりよくたいこう 長州軍は列強の戦力に対抗すべくもなかった。しかし艦隊側にかなりの打撃をあたえ ている。 へいふたり へいふたり イギリス兵が八人、フランス兵二人、オランダ兵二人、計十二人の死者を数えた。 ごうかんちょ、つじゅうしょ一フお ししようしゃ にんたっ せんかん 戦艦ューリアラス号の艦長が重傷を負ったのをはじめ、死傷者は六十二人に達した。長 にんふしようしゃ しゅうがわせんししゃ 州側の戦死者十八人、負傷者は二十九人だった。 れんごうかんたい 力いこくぐんげいげきもくてきけっせい きへいたい こうせんきたい 外国軍迎撃の目的で結成された奇兵隊だが、連合艦隊との交戦で期待されたほどの威力 を発揮したわけではなかった。 と、つさい きんだいかき たいとうたたか なんといっても近代火器を搭載した軍艦や異人兵と対等に戦うだけの戦力を身につけて ざんばい ちょうしゅうはんこ、つふく いないときだ。惨敗して長州藩は降伏した。 しゅうけっちかせんじようもよ、つ こうねんちよしよいちがいこうかんみ さかたせいいちゃく 終結近い戦場の模様をサトウの後年の著書『一外交官の見た明治維新』 ( 坂田精一訳 ) で、 のぞ 覗いてみよう。 にほんじんがんきよ、フたたか みと にほんほうしゅ 日本人が頑強に戦ったことは、認めてやらなければならない。日本の砲手は、一回の はっき がついっか にん ぐんかん てんかい にん いじんへい にんししやかぞ しん せんりよくみ だ い . り・小′、 ちょう -4 6

10. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こ、つつ′」う かっこくちゅうりったちば このさいは各国が中立の立場をとってくれるのがイギリスとしては好都合だった。そう A 」′、い ゅうのうじよしゅ せいじこうさく した政治工作はパークスの得意とするところだが、そこはサトウという有能な助手がいて うまくはこんだのである。 かれりよ、つじしよくしようかく てもと つうやくかん 彼の領事職昇格をはばんで、いつまでも通訳官にしておくというのも、サトウを手許か かた らはなすまいとするパークスのずるいやり方だった。 ぜっみよう 力いこ、つかん ノ ークスとサトウは、いわば絶妙のコンビを組むイギリスの外交官として幕末の日本で かつやく にんげんかんけい 活躍したのだが、 ふたりの人間関係はしだいに冷えきったものになっていった。 ぼしんせんそう けいおうねんがっ にち にちせいれきがっ きようと物こしょてんのう 戊辰戦争たけなわのころの慶応四年二月三十日 ( 西暦三月二十三日 ) 、京都御所で天皇が りようこうし りようじえつけん イギリス・フランス両公使とオランダ領事と謁見しようという。 ていこ、フせいりよくさわ せいじたいせい 、力い」′、 抵抗勢力は騒いでいるが、新しい政治体制はととのっていることを外国にしめそうとい うのだろう。 ひ こ、つし にほんごしよきかん きよ、つと その日、例によってサトウは日本語書記官としてパークス公使に付添い、京都に行き宿 しゃちおんいん 舎の知恩院にはいっこ。 こうし がいこうじむかん いっこ、つ フランス公使のロッシュとオランダの外交事務官ポルスプルックの一行が皇居にむかっ こうし しゆっぱっさいご しゆっぱっ ひか あ てんのうめんぜんあんない て出発、最後にイギリス公使が出発した。控えの間でおち合い、天皇の面前に案内される あたら ひ ま つきそ ばくまっ こ、つきょ にほ・ん しゆく 144