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検索対象: アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官
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1. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

《ぼ , っ あとがき ほんよ にほんしようかい しようねん イギリス人のアーネスト・サトウは少年のころ、日本を紹介する本を読んで、すっかり ゅめまも こころぎした にほんい 力いこうかん にほんす 日本が好きになり、外交官になって日本に行こうという志を立てました。ひとつの夢を守 どりよく じっげん そだ り育て、努力してそれを実現させたのです。第一に、そのことがすばらしいではありませ んか。 力いこうかんにほんちゃくにん ばくまっかいこくいらい 幕末、開国以来たくさんの国から、たくさんの外交官が日本に着任してきましたが、そ めい しよくぎようえら がいむしようやくにん 力いラ」、フかん ひとびと の人々のほとんどは、まず外交官という職業を選び、外務省の役人になり、命じられて、 とうようしまぐににほん たまたま東洋の島国日本にやってきたということでしよう。 力いこうかんこころざ さいしょ にほ , んい ぎやく ばあい サトウの場合は、逆なんですね。最初から日本に行きたくて、外交官を志し、日本を希 じよおうへい つうやくかんしよきかん したづ つうやくせい 望した。通訳生という下積みの仕事からはじめて、通訳官、書記官となり、やがて女王陛 さいしゅ、つもくひょうとうたっ にほんちゅうさっとくめいぜんけんこうし 力いこうかんしようしん 下の委任をうけた外交官に昇進、ついに日本駐箚特命全権公使という最終目標に到達し、 しよ、フ」う めいよ じんせい かんせ一 サーの称号をさずけられて名誉ある人生を完成させました。 にほんふにん せいじつがいこうかんしよくむ 日本に赴任してきて、誠実に外交官の職務をはたしているうちに、日本が好きになり日 にほんびいき すじがねい しようねん ほんびいき 本贔屓になるという人はいますが、サトウは少年のころからの筋金入りの日本贔屓です。 い一 , ル じん ひと し◆こと にほんす にほんき 182

2. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

かん ことをイギリス人のサトウは感じとった。 「しかし日本はちがう」 ちょっかん と、サトウは日本にやってきて、すぐにそう直観した。 力し せんきようし さいしよじんぶつ ヨーロッパから印本にやってきた最初の人物は、イエズス会の宣教師ザビエルだった。 でんどう じんかれ おうえんじよ スペイン人の彼はポルトガル王の援助により、東洋での伝道をはじめた。 しよくみんち にほんしよくみんちか したごころ ポルトガルの下心は、日本の植民地化ということをザビエルも知っていたが、「植民地に しよくみんち にほんけっ と、つよ、つ に・は′ル されている東洋のどの国とも日本はちがう。日本は決して植民地にはならないだろう」 さんびやくねん といいながらザビエルは去って行った。それは三百年ばかりまえのことだが、サトウはザ かん ビエルとおなじようなことを感じていたのである。 に一は , ん にほん じん こほん さ レ」、つよ、つ し 0 2

3. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

ちょいちがいこうかんみ いしんさかたせいいちゃく ( ア 1 ネスト・サトウ著『一外交官の見た明治維新』坂田精一訳 ) てっていてき かき ちゃゅ のう 徹底的に「日本」を知りたいと願っているサトウにとっては、歌舞伎も、茶の湯も能も、 らいさんよう よ にほん力いし けんがく にほんぶんか 頼山陽の『日本外史』を読むことも、そしてサムライの切腹を見学するのも日本文化の神 ずい 髄にアプローチすることだった。 にほんがく サトウはマルコボーロや、シーポルトを超え、世界一の「日本学」の大家となることを こころざ かれ に一はんヾか′、 ふか けいあいねん 志していた。彼はそのようにして「日本学」を深めるごとに、この国に対する敬愛の念を ふか 深めていった。 ものだ。 にほん し ねが こ せかいいち せつぶく たいか しん 142

4. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

かいわ もうひつまきがみか しよかん たっぴっ 会話はもちろん、毛筆で巻紙に書く書簡では、日本人顔負けの達筆だ。 ′、 ) に物尾い それだけではない。サトウは、すこしまえから日本という国に対するひとつの意見を胸 ちゅうそだ そ、つぞう にほんみらいぞう 中に育てていた。想像される日本の未来像であり、かくあるべきだという日本の国家像で あった。 にほんこくせい ぼうれい サトウは幕府というものは、日本の国政をになう資格をうしなった過去の亡霊のような かくうせいけん おも 力いこうかん にほんきんだいこっか 架空の政権でしかないと思っていた。イギリス外交官として、そんな日本を近代国家にみ ちびくために、なにをすべきかということを考えていた。 こうし せんえっ しかしパークス公使をさしおいて、僣越なことはいえないので、それは心に秘めておく ち おも き力い しかない。やがてしかるべき地位についてからのことと思っていたが、その機会は意外に はやくめぐってきた。 ばくふ かんが にほんじんかおま にほ , ル しかく かこ こころひ にほんこっかぞう いけんきよ、つ し力し 8

5. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

いのうえもんた 井上聞多と友だちづきあいをするようになった。 した かつらこ」ろ , っさい」 , ったかもり 桂小五郎や西郷隆盛や勝海舟とも親しくした。 そして日本の女性を奥さんにして 三人の子どもも生まれている。 とにかくア 1 ネスト・サトウは、 じゅう 自由に日本語をあやつり、 。カ かいしょ」よ、つしよそうしょ 漢字だって楷書も行書も草書まで美しく書けた。 りよこ、つ 日本のあちこちを旅行して、 にほんりよこ、つ すばらしい日本旅行ガイド・ブックだって 書いている。 にほんしゅうきようげいじゅっ 日本の宗教・芸術にもくわしく、 ほんだ 。かんけ・い その関係の本も出している。 かんじ 、カ にほ , ル にんこ にほんじよせいおく にほん」 とも かっかいしゅ、つ 175

6. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

きようだい 「サトウ」の姓は、 とうぶちい ドイツ東部の小さな村の名 Stow からきている。 はつおん 「サトウ」は日本の「佐藤」とほとんどおなじ発音だから、 日本人には親しみやすい サトウが日本にあこがれるようになったのは、 としよかん カ 兄弟のひとりが図書館から借りてきた ロ 1 レンス・オリファントという人が書いた 『一八五七年 5 五九年における にほんほ、つもんき はくしせつだんしんこく エルギン伯使節団の清国・日本訪問記』 ほんよ という本を読んだのがきっかけである。 A 」、つ「じ きよ、つ そ、つ A 」ノ、 エルギン卿は、当時のインド総督である。 ま にほんそら さお そこにある日本は空がいつも真っ青で、絵のように美しく、 にほんじん にほん ねん した にほ , ル ねん むらな さとう ひと え うつく 8

7. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こころ にほんあい わたしはこの本を書いていて、サトウほど日本および日本人が好きで、心から日本を愛し 力いこうかん おも た外交官が、ほかにいただろうかとっくづく思いました。 力い′」、つかん かつどう こじんてきはばひろにほんけんきゅうせいか のこ サトウは外交官としての活動のほか、個人的な幅広い日本研究の成果を遺しています。 か えいこくさくろん ほ、つ学」、フ ばくまっせいきよくにほんし またサトウが書いた『英国策論』がわすれられません。それは幕末の政局や日本史の方向 ふか ろんぶん じゅうよ、つめいじ しんしりよう じぶん えいこくさく に深くかかわる論文で、重要な明治維新資料とされています。サトウは自分でも『英国策 ろん ようい ひじようかげきろん 力いこうかん です 言』は「容易ならざる非常過激な論である」といっています。外交官としては、やや出過 にほんしんそこあい ゅうかん ろんぶん ぎたことでしたが、日本を心底愛したサトウだからこそ、勇敢なサムライ精神でこの論文 はっぴょう かれ かそうあいこくしん にほんきんみ 発表となったのです。いわば彼における《仮想「愛国心」》から生まれたのが、日本の近未 はっげん えいこくさくろん 来に発言した『英国策論』だったといえます。 えいこくさくろん し いつばん ほんよ サトウの『英国策論』は、一般にはあまり知られていません。この本を読んだ人は、そ きおく れだけでも記憶してほしいとわたしは願っています。 きげん 紀元一一〇〇五年初夏 ほんか ねんしよか ねが にほん にほんじんす せいしん 古川薫 る わ お る ひと 183

8. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こうえきはんじよう じようきようへんか かいぜん しかし状況は変化してきている。「日本との交易を繁盛させる」ためには、改善するこ せいさく とが必要なのに、まったくその政策がみられない。 力いこくじんさっしよう ばくふ はたして幕府は日本を代表する政権なのか、なんの力もないではないか。外国人殺傷 ちょう はんぎやくしゃぞくしゆっ あんさっしやおおだ みとはんしっせき の暗殺者を多く出している水戸藩を叱責することもできず、反逆者を続出させている長 しよう しゅうはんたい 州藩に対しても、どんな手もうてないのは、すでに威令がおこなわれなくなっている証 けんい しつつい ばくふ 拠ではないか。幕府は権威を失墜しているのである。 とくがわしようぐん ばくふ 。にほ ~ ル いちだいみよう じじつものがた もはや幕府が日本の一大名にすぎないことを事実が物語っている。その徳川将軍が、 しようごうつか しよがいこくじようやく 「大君」の称号を使い、諸外国と条約をむすんでいる。 さしよう おも しよ、フぐんにほんしはいしゃ そもそも将軍が日本の支配者を意味する「大君」をとなえるのは思いあがった詐称と いわなければならない。 そ みかどひとり にほんたいくんな 「日本ニ大君ノ名ハ二ツナシ、其ノ名ヲ持チ得ルモノハタダ帝一人ノミ」 れきし みかど じっげんしゅ ア」ほ , ル′、に 日本の国には朝廷というものがあって、帝こそが実の元首であることは厳然たる歴史 しようぐんれんごうだいみようしゅせき がしめしており、将軍は連合大名の首席にすぎない。 しようぐんたいくんな じようやく てんのうちょっきょひつよう 外国との条約は、天皇の勅許が必要にもかかわらず、将軍は大君の名で勝手にむすん じようやくちょっきょ でいる。このごろになって、はじめて条約勅許ということがあらわれてきているが、こ たいくん 。力しラ」 / 、 ひつよう ちょうてい にほんだいひょう ふた て せいけん な にほん も たいくん ちから げんぜん かって 107

9. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

ねんかんざいにん 日本には五年間在任して、 しんこくちゅうさっとくめいこうししょ , っしん 清国駐箚特命公使に昇進、 ベキンふにん 北京に赴任した。 ォルコックやパ 1 クスが、 しようしん 日本から昇進して しんこく 清国に行くコ 1 スをたどっている。 このときのサトウが五十二歳だった。 いんたい ねんご かいこうかんせいかっ 六年後、外交官生活から引退、 ほっかい かんぶうふ その後も北海の寒風吹きすさぶハ 1 グ市の こくさいちゅうさいさいはんしょ 国際仲裁裁判所の だいひょうひょうていいん イギリス代表評定員などっとめたが、 ししん にほ。ん じよおうへいか それは女王陛下の使臣として日本におもむき にほ , ん にほん さ し 180

10. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こうしかんきんむ にほんご ベキンちゅう 公使館勤務はまず日本語の勉強からはじまった。サトウは日本にはいるまえ、北京で中 ごくご かんじ かんじ か 国語の手ほどきをうけ、漢字を練習した。おかげで漢字だけは、すこし書けるようになっ かんじ にほん はつおん かな ているが、日本では漢字の発音がまるでちがう。それに日本には仮名という文字があって、 ひらがな それもカタカナと平仮名がある。 ちゅう・こく′」 やっかい べんり にほんじんちゅうごく ゅにゆう 厄介なようだが中国語にくらべると、便利なところもある。日本人は中国から輸入した かんじ ′」うりてきひょうきほうほう 漢字の合理的な表記の方法をつくり出しているのである。サトウは、そこからも日本人の かん ぶんか 持っている独特の文化を感じていた。 にほんごきようし しようかい ニール大佐は日本語教師として、ふたりのアメリカ人をサトウに紹介した。へボン博士 ごがくしゃ にほんじん せんきようし とプラウン博士である。宣教師・医師・語学者のヘポン博士は、日本人にとってわすれら れない人である。 にほん きようでんどう わかひときよういく にほんはっ 日本にきたのはキリスト教の伝道のためだが、若い人の教育にあたったほか、日本初の しき わえいじてん じ にほんご わえいごりんしゅうせい かんせい 和英辞典 ( 『和英語林集成』 ) を完成させ、ヘポン式といわれる日本語のローマ字つづりを ふきゅう 普及させた。 かいわたいにほんご せんきようし シャンハイいんさっ もうひとり宣教師プラウン博士は、『会話体日本語』を上海で印刷した。それをサトウに おく さいしょ はくし せんせいあ ぶんぼうかいわ も贈ってくれた。最初からよい先生に会えたものだった。ふたりの博士からは文法と会話 も ひと て たいさ はくし にほ・ん はくし べんきよう れんしゅう だ し じん はくし にほん にほんじん はくし 8