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検索対象: アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官
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1. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こうしかんきんむ にほんご ベキンちゅう 公使館勤務はまず日本語の勉強からはじまった。サトウは日本にはいるまえ、北京で中 ごくご かんじ かんじ か 国語の手ほどきをうけ、漢字を練習した。おかげで漢字だけは、すこし書けるようになっ かんじ にほん はつおん かな ているが、日本では漢字の発音がまるでちがう。それに日本には仮名という文字があって、 ひらがな それもカタカナと平仮名がある。 ちゅう・こく′」 やっかい べんり にほんじんちゅうごく ゅにゆう 厄介なようだが中国語にくらべると、便利なところもある。日本人は中国から輸入した かんじ ′」うりてきひょうきほうほう 漢字の合理的な表記の方法をつくり出しているのである。サトウは、そこからも日本人の かん ぶんか 持っている独特の文化を感じていた。 にほんごきようし しようかい ニール大佐は日本語教師として、ふたりのアメリカ人をサトウに紹介した。へボン博士 ごがくしゃ にほんじん せんきようし とプラウン博士である。宣教師・医師・語学者のヘポン博士は、日本人にとってわすれら れない人である。 にほん きようでんどう わかひときよういく にほんはっ 日本にきたのはキリスト教の伝道のためだが、若い人の教育にあたったほか、日本初の しき わえいじてん じ にほんご わえいごりんしゅうせい かんせい 和英辞典 ( 『和英語林集成』 ) を完成させ、ヘポン式といわれる日本語のローマ字つづりを ふきゅう 普及させた。 かいわたいにほんご せんきようし シャンハイいんさっ もうひとり宣教師プラウン博士は、『会話体日本語』を上海で印刷した。それをサトウに おく さいしょ はくし せんせいあ ぶんぼうかいわ も贈ってくれた。最初からよい先生に会えたものだった。ふたりの博士からは文法と会話 も ひと て たいさ はくし にほ・ん はくし べんきよう れんしゅう だ し じん はくし にほん にほんじん はくし 8

2. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

げんがい こじんきようじゅ じかん を習った。サトウの上達ぶりはめざましかったが、やはり多くの時間がとれる個人教授で じっさい おも ちよくせつにほんじん ないと思うように勉強できない。それに直接日本人から教えてもらわなければ実際の役に た 立たないのだ。 やこ、り」、つし ようきゅう こうひ こじんにほんごきようし サトウは公費で個人の日本語教師につくことを要求したが、ニ 1 ル代理公使は自分の権 こうし こ、つし きぼうじっげん きにん 限外のことだから、オルコック公使が帰任するまで待てという。希望が実現したのは公使 きにん よくねんはるいご が帰任した翌年春以後である。 と、つ、じと、つきょ , っ しよか よ しゅうじゅく しゅ、フじ サトウは日本語の読み書きも習熟しようと、習字をはじめた。当時東京でも有名な書家 なら にほんりゅうてがみか かたそうしょ にほんじん しょたい として知られている日本人について美しい書体を習った。日本流の手紙の書き方や草書、 しょたい ならおぼ 楷書までさまざまな書体も習い覚えた。 きかい にほんれきし ′」がく にほんせいじ 語学だけでなく、日本の歴史、日本の政治、政局の現状まで、あらゆる機会をとらえて に・はんカ′、 「日本学」ととりくんだ。 しよくみんちも かいようこっか せんそう 海洋国家のイギリスは、世界いたるところに植民地を持っている。アヘン戦争によって しんこく ホンコンうば しんしゆっ 清国から香港を奪ったが、上海にも進出している。 す ふねにゆうこう ベキン 北京にはいるまえ、サトウは船が入港した上海でしばらく過ごしたが、この大都市を判 やしん しよくみんち きよくとうしんしゆっあしば 植民地として極東進出の足場とし、いずれ日本もという野心をひそかに抱いている母国の かいしょ なら し にほん′」 べんきよう じようたっ か せかい シャンハイ うつく 。にほん シャンハイ せいきよくげんじよう ま おし おお いた ) とし ゅうめい じぶんけん ん 9

3. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

十六世紀、 ・カし せんきようし イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、 日本にやってきたことを、 にほんじん 長いあいだ日本人はわすれていた。 きろくしようかい ョ 1 ロッパにのこる記録を紹介して、 やまぐちおおいたでんどう 山口・大分で伝道したサビエルのことを にほんじんおし 日本人に教えたのもサトウだった。 とざんかしよくぶつがくしゃ おぜあい 尾瀬を愛した登山家・植物学者として知られる たけだひさよしはかせ 武田久吉博士はサトウの子どもである。 サトウが日本にのこしたものは あまりにも多い ア 1 ネスト・サトウは、 なが にほん せいき にほん おお し 176

4. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

めいれい 大君政府の命令でわたしについてきてから、 けいび ずっとわたしの警備にあたっています。 しんせつ みなさんとも、親切です。 じぶんきぼう わたしは自分の希望どおり いいたちょういっか 飯田町に一家を構えたので、 日本語の勉強と にほんじん こ、つさい 日本人との親しい交際にうちこむことができました。 にほんじんしそう け・んかい おかげで日本人の思想や見解に せいつう 精通するようになってきたので、 ひじよ》っ たの 非常に楽しくなりました。 しんばしふきんさんくてい なかむらまたぞう 新橋付近の三汲亭で、中村又蔵と一緒に晩飯を食べ、 けいしやさけ もちろん芸者が酒のお酌をし、 たいくんせいふ にほんご べんきよう した かま しやく いっしよばんめした 6

5. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

日本人妻と子どもたち けっこん サトウが武田兼という日本女性と結婚したのは、明治四 ( 一八七一 ) 年ごろといわれてい る。サトウが二十八歳、兼が十八歳だった。 さいしよう げつし ちょうなんえいたろうめいじ 最初に生まれたのは、女の子だが、一年五カ月で死んだ。長男栄太郎が明治十三 ( 一八八 ねんじなんひさよしめいじ ねんう 〇 ) 年、次男久吉は明治十六 ( 一八八三 ) 年に生まれた。 かねえどう しゆっじ みた さしものし 兼は江戸生まれだが、出自はよくわからない。三田の指物師の娘といわれるが、イギリ こうしかんで ス公使館に出入りしていた庭木職の娘ともいわれている。 せいしきけっこん かね こうしかんつうやくかん こうしふじん サトウとは、正式の結婚ではない。兼は、イギリス公使館の通訳官、また公使夫人とし おもてで しようわ こほんじんづま て表に出ることのない内妻のままで、昭和七 ( 一九三一 l) 年、「印本人妻」としての生涯を終 えた。 ちちおや けっこん サトウはイギリスの父親から、結婚をうながすような手紙をうけとったこともあるが、 こた かねけっこん ほ、つ」′、 したが それには答えず、兼と結婚したこともついに報告しなかった。従って兼をイギリスにつれ にほんじんづまこ たけだかね さい ないさい おんなこ にほんじよせい かね にわきしよくむすめ ねん ねん てがみ むすめ かね ねん しよう力いお 165

6. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

きようだい 「サトウ」の姓は、 とうぶちい ドイツ東部の小さな村の名 Stow からきている。 はつおん 「サトウ」は日本の「佐藤」とほとんどおなじ発音だから、 日本人には親しみやすい サトウが日本にあこがれるようになったのは、 としよかん カ 兄弟のひとりが図書館から借りてきた ロ 1 レンス・オリファントという人が書いた 『一八五七年 5 五九年における にほんほ、つもんき はくしせつだんしんこく エルギン伯使節団の清国・日本訪問記』 ほんよ という本を読んだのがきっかけである。 A 」、つ「じ きよ、つ そ、つ A 」ノ、 エルギン卿は、当時のインド総督である。 ま にほんそら さお そこにある日本は空がいつも真っ青で、絵のように美しく、 にほんじん にほん ねん した にほ , ル ねん むらな さとう ひと え うつく 8

7. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

かいわ もうひつまきがみか しよかん たっぴっ 会話はもちろん、毛筆で巻紙に書く書簡では、日本人顔負けの達筆だ。 ′、 ) に物尾い それだけではない。サトウは、すこしまえから日本という国に対するひとつの意見を胸 ちゅうそだ そ、つぞう にほんみらいぞう 中に育てていた。想像される日本の未来像であり、かくあるべきだという日本の国家像で あった。 にほんこくせい ぼうれい サトウは幕府というものは、日本の国政をになう資格をうしなった過去の亡霊のような かくうせいけん おも 力いこうかん にほんきんだいこっか 架空の政権でしかないと思っていた。イギリス外交官として、そんな日本を近代国家にみ ちびくために、なにをすべきかということを考えていた。 こうし せんえっ しかしパークス公使をさしおいて、僣越なことはいえないので、それは心に秘めておく ち おも き力い しかない。やがてしかるべき地位についてからのことと思っていたが、その機会は意外に はやくめぐってきた。 ばくふ かんが にほんじんかおま にほ , ル しかく かこ こころひ にほんこっかぞう いけんきよ、つ し力し 8

8. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

りよこうき ろん か ひきうけて最初のころは日本国内の旅行記など書いていたが、そのうち政治を論じてみ よっきゅう おも たいと思うようになった。ほとんどおさえがたい欲求だった。 ゆる ふごうり ばくふ ろんぶん さんぶつ ふねよこはまこ、つ その論文は、産物を積んだ薩摩の船が横浜港にはいるのを幕府が許さないという不合理 カ にほんかくめい かたひはん なやり方を批判することから書き出しているが、ついに日本の革命をうながすほどの、き げきろん わどい激論となったのである。 つうやくかん ひはん こうしかんづ せいじろんぶんこうひょう こうぜんばくふ しかしイギリス公使館付き通訳官として、公然と幕府を批判する政治論文を公表するの もんだい とノ、めい ふくむきてい 」、つい は、むろん服務規定に反する行為である。匿名にしてもいずれは、ばれて問題になるかも しれない。 「そんなことは、ど一つでもよい」 はっぴょう おも おも と、サトウは思った。これを発表せずにいられようかと思った。 げ・んこう むだい むしよめい けいおうねんがっ せいれき サトウの原稿は、無題・無署名で慶応二年二月に ( 西暦一八六六年三月十六日から五月 にち ぶんさい 十九日にかけて三回 ) 「ジャパン・タイムス」に分載された。 。カ ひょう おも イギリス人のあいだでは「だれか知らぬが、よく思いきったことを書いたものだ」と評 よ ばん えいじしんぶん 判になったが、英字新聞なので日本人でそれを読める人はほとんどいない。 しようぐんばくふ ろうじゅう サトウは将軍や幕府の老中にこそ、そしてとくに薩摩、長州をはじめ日本人のすべてに じん さいしょ はん っ にほんこくない さつま にほんじん だ し さつまちょうしゅう ひと ねんがっ にほんじん せいじ にち がっ 103

9. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

こころ にほんあい わたしはこの本を書いていて、サトウほど日本および日本人が好きで、心から日本を愛し 力いこうかん おも た外交官が、ほかにいただろうかとっくづく思いました。 力い′」、つかん かつどう こじんてきはばひろにほんけんきゅうせいか のこ サトウは外交官としての活動のほか、個人的な幅広い日本研究の成果を遺しています。 か えいこくさくろん ほ、つ学」、フ ばくまっせいきよくにほんし またサトウが書いた『英国策論』がわすれられません。それは幕末の政局や日本史の方向 ふか ろんぶん じゅうよ、つめいじ しんしりよう じぶん えいこくさく に深くかかわる論文で、重要な明治維新資料とされています。サトウは自分でも『英国策 ろん ようい ひじようかげきろん 力いこうかん です 言』は「容易ならざる非常過激な論である」といっています。外交官としては、やや出過 にほんしんそこあい ゅうかん ろんぶん ぎたことでしたが、日本を心底愛したサトウだからこそ、勇敢なサムライ精神でこの論文 はっぴょう かれ かそうあいこくしん にほんきんみ 発表となったのです。いわば彼における《仮想「愛国心」》から生まれたのが、日本の近未 はっげん えいこくさくろん 来に発言した『英国策論』だったといえます。 えいこくさくろん し いつばん ほんよ サトウの『英国策論』は、一般にはあまり知られていません。この本を読んだ人は、そ きおく れだけでも記憶してほしいとわたしは願っています。 きげん 紀元一一〇〇五年初夏 ほんか ねんしよか ねが にほん にほんじんす せいしん 古川薫 る わ お る ひと 183

10. アーネスト・サトウ : 女王陛下の外交官

づま かねせいしきつま サトウがどうして兼を正式な妻としなかったのか。その理由はわからない。 そこく にほんぎいじゅ、つ力いこくじん 日本在住の外国人が、祖国に正妻がありながら、日本にいるあいだ、いわゆる「日本人 きこく じじつじようふうふせいかつおく 妻」と事実上の夫婦生活を送り、子どもまでもうけながら、それらの家族をすてて帰国す るという例はめずらしくない 長崎オランダ商館付きのドイツ人医師シーポルトがそうだった。しかし、サトウはイギ つま かれどくしん リスに正妻がいたわけではない。彼は独身であり、すくなくとも妻といえる女性は日本で て行くこともしなかった。 りよう サトウは膨大な量にのばる日記をのこしているが、兼のことには、なぜかあまり触れて いないばかりか「 O ・」 ( お兼さんの意味だろう ) とイニシアルで書いた。 ながさき きじゅっおお 」、つし サトウが公使として日本にもどってからは、とうぜん家族についての記述は多くなる と、つじよう かね つうじよ、つ えいたろうひさよしな が、栄太郎と久吉の名は登場する〔通常ととして〕ものの、兼については「 O ・」 カ つうじようふじみちょう りやく′」しよう かぞくぜんたい という略語が使用されるだけで、家族全体をさすときには通常「富士見町」と書かれた。 しよう力い ながおかしようぞうせきぐちひでおちょ ( 長岡祥三・関口英男著『ア 1 ネスト・サトウの生涯し りゆ、フ せいさい ぼうだい しようかんづ にほん につき かね せいさい じんいし み にほ′ル かね かぞく かぞく じよせい ふ にほんじん にほん 166