こくれんごうかんたいちょうしゅうはん せき しものせきせんそうさいご 十七隻の四カ国連合艦隊と長州藩とのあいだでおこなわれた、いわゆる下関戦争最後の みつかかん こうせん 交戦は八月五日から三日間にわたって展開された。 かんたいがわ ちょうしゅうぐんれつきようせんりよくたいこう 長州軍は列強の戦力に対抗すべくもなかった。しかし艦隊側にかなりの打撃をあたえ ている。 へいふたり へいふたり イギリス兵が八人、フランス兵二人、オランダ兵二人、計十二人の死者を数えた。 ごうかんちょ、つじゅうしょ一フお ししようしゃ にんたっ せんかん 戦艦ューリアラス号の艦長が重傷を負ったのをはじめ、死傷者は六十二人に達した。長 にんふしようしゃ しゅうがわせんししゃ 州側の戦死者十八人、負傷者は二十九人だった。 れんごうかんたい 力いこくぐんげいげきもくてきけっせい きへいたい こうせんきたい 外国軍迎撃の目的で結成された奇兵隊だが、連合艦隊との交戦で期待されたほどの威力 を発揮したわけではなかった。 と、つさい きんだいかき たいとうたたか なんといっても近代火器を搭載した軍艦や異人兵と対等に戦うだけの戦力を身につけて ざんばい ちょうしゅうはんこ、つふく いないときだ。惨敗して長州藩は降伏した。 しゅうけっちかせんじようもよ、つ こうねんちよしよいちがいこうかんみ さかたせいいちゃく 終結近い戦場の模様をサトウの後年の著書『一外交官の見た明治維新』 ( 坂田精一訳 ) で、 のぞ 覗いてみよう。 にほんじんがんきよ、フたたか みと にほんほうしゅ 日本人が頑強に戦ったことは、認めてやらなければならない。日本の砲手は、一回の はっき がついっか にん ぐんかん てんかい にん いじんへい にんししやかぞ しん せんりよくみ だ い . り・小′、 ちょう -4 6
ごう ぐんかん じこくしようせんおそ がつついたちごぜんじ 六月一日午前十時。アメリカの軍艦ワイオミング号が、自国の商船を襲われたことへの よゝまく じよ、つい ちんぼっ ほうふくらいしゅう ちょうしゅうはんぐんかんせきたしー 報復に来襲した。この海戦では長州藩の軍艦三隻が大破、沈没という敗北をきっし、攘夷 こころざし せんようそう 戦の様相は、こと志とちがう方向にかわってきた。 力し 力いかん、つ 五月中におこなわれた三回にわたる外艦撃ち払いは、戦いというほどのものではなく、 に かれ 不意を襲われて彼らが逃げ去るというものでしかなかった。 ちょうしゅうぐんれっせいおお きゅうしきへいき ほんかくてきこうせん 本格的な交戦となると、旧式兵器しか持たない長州軍の劣勢は覆うべくもなかった。皮 てんの、つほうちよく ひちょうしゅうはんじよういじっこ、ったい 肉にも、この日は長州藩の攘夷実行に対する天皇の褒勅がくだり、意気がおおいにあがろ やさきはいせん うとする矢先の敗戦だった。 せきほうふくらいしゅうまえだほうだい がついっかそうちょう 六月五日早朝。フランスの軍艦セミラミス、タンクレードの二隻が報復来襲、前田砲台 おも ちんもく じようりくふきんむらせんりようや りくせんたい を沈黙させたうえで陸戦隊が上陸、付近の村を占領し焼き払ってひきあげるという思わぬ さんじよう れんごうかんたい ふうせっちょうしゅうはんおび 惨状となった。やがて連合艦隊が来襲するという風説が長州藩を脅えさせた。 ぐんじりよく ほ * よ、つ はんめい がつむいか たかすぎしんさく しものせきか 六月六日は高杉晋作が藩命によって下関に駆けつけ、正規の軍事力を補強する新しい民 れんごうかんたい こうせん ぺいそしき きへいたい けっせい 兵組織としての奇兵隊を結成。きたるべき連合艦隊との交戦にそなえて、フランス軍に破 しよう しゅうふく へいき 、力し ほうだい げいげきたいせい 壊された砲台の修復など迎撃態勢をととのえる。しかし使用する兵器は、いぜんとして貧 しんこくききかんたか じゃく 弱なものでしかなく、ようやく深刻な危機感が高まってきた。 ふ がっちゅう おそ かいせん さ ぐんかん ほ , っ」、つ らいしゅう も はら たたか せいき はら あたら ぐんは ひ みん ひん
がつようか たかすぎしんさくせいし ちょうしゅうはんこうわしせつきかん ごうおとずれんごう 八月八日、高杉晋作を正使とする長州藩の講和使節は旗艦ュ 1 リアラス号を訪れ、連合 かんたゝ しだいひょう ていとノ、 こうわだんばんかいし れんごうこくがわばいしようきん びやくまん 艦隊の代表ク 1 パ 1 提督と講和談判を開始、このとき連合国側は賠償金として三百万ドル ようきゅう くまんりよう かね やくびや きょカ′、 を要求した。日本のお金にして約八百七万両という巨額である。 ′」う こうわだんばんちょうしゅうはんがわぜんけん 講和談判の長州藩側全権としてユーリアラス号にあらわれた男は家老だと名のったが、 たかすぎしんさく 高杉晋作であることはあとでわかったことである。 いち力いこうかんみ しん たかすぎ いんしようつぎ サトウは『一外交官の見た明治維新』で、ユ 1 リアラスにあらわれた高杉の印象を次の かた ようにっている。 ししゃ かんじようあしふ あくま 「使者は、艦上に足を踏みいれたときには悪魔のように傲然としていたのだが、すべての ていあん はんたい しようにん おお えいきよう いとうしゅんすけひろぶみ 提案をなんの反対もなく承認してしまった。それには大いに伊藤 ( 俊輔・博文 ) の影響が あったようだ」 よ たかすぎすなおあいて よ、つきゅう びやくまん ばいしようきん ここだけ読むと、高杉が素直に相手の要求をのんだようだが、三百万ドルの賠償金は、 しじ だんこ ばいしようきん じよういせんかんこう 断固としてはねつけ、われわれは幕府の指示によって攘夷戦を敢行したのだから、賠償金 しゅちょう ばくふ は幕府からとってくれと主張した。 れんごうこくがわなんしよく ひとたびたたカ しいはなったので 連合国側が難色をしめすと、それがだめならもう一度戦うしかないと ) つぎ か ある。サトウは次のように書いている。 にほ・ん ばくふ ごうぜん おとこかろう 、な 6 6
れんごうかんたいしゆっどう 連合艦隊出動 じようきようきゅ、フそく ながさきぼうえきすいびき 長崎貿易の衰微に気づいたイギリスのおどろきによって、状況は急速にうごきはじめた。 もんだい せつきよくてきすいしん ちょうしゅうはんちょうばつれいたんたいど 長州藩懲罰に冷淡な態度を見せていたイギリスが、一転してこの問題を積極的に推進す たちば る立場をとったからだ。 こくぐんかんしゆっ ラ」、つし ふどうい イギリス公使ォルコックは、不同意のフランスをはずして英・米・蘭三カ国で軍艦の出 どうじゅんび 動準備にとりかかった。 せき せきかんたい いっせきけい せき せき イギリス九隻、オランダ四隻、アメリカ一隻の計十四隻の艦隊である。イギリスの九隻 おそ ひなん たんどくこうどう ごく じゅうぶん だけで充分なのだ。三国をさそったのはイギリスの単独行動では、あとで非難される恐れ があるので、それをまぬがれるためにすぎない。 せきたんうんばんせん ぐんかん アメリカの一隻などは軍艦ではなく、どこからかチャ 1 ターしてきた石炭の運搬船であ ぐたいか さんごくれんごう かんもんかいきようつ - フこうかくほ 関門海峡の通航を確保するための「三国連合」のうごきが具体化したのを見て、フラン る。 いっせき いってん らん み 9
とき じちょうしゅうせいばっ 第一次長州征伐 ちょうしゅうはんあたら はんろん そんのうとうばく そんのうじようい 「尊王攘夷」の藩論を「尊王討幕」にきりかえた長州藩の新しい敵は幕府となるのだが、 はんないこうそう ろせんかくてい その路線が確定するまでには、激しい藩内抗争をへなければならなかった。 つぎなんきよく ちょうしゅうはん れんごうかんたいざんばい 連合艦隊に惨敗したあと、長州藩ははやくも次の難局にさしかかっていた。追い打ちを ちょうしゅうおそ たいぐん ばくふ かける幕府の大軍が、長州に襲いかかろうとしているのだ。 れんごうかんたいしゅうらい ちょっきょ ちょうしゅうはんとうばっ ちょうてき きんもんへん 禁門の変で「朝敵」とされた長州藩を討伐する勅許はすでに出ており、連合艦隊襲来と ばくふしょだいみようちょうしゅうせいばっしゆっじんめい 時をおなじくして、幕府は諸大名に長州征伐の出陣を命じた。 ばくぐんしゅうけっ ひろしま さくせんた ちょうしゅうほうい ほんどがわきゅうしゅう 本土側と九州、そして海から長州を包囲する作戦を立て、広島には三万余の幕軍が集結 じちょうしゅうせいばっ そうこうげきたいせい して総攻撃の態勢をとりはじめた。第一次長州征伐である。 せいじどうはんしゅ にちゃまぐち げんじがんねんがっ 元治元年九月二十五日、山口では政事堂に藩主をはじめ重臣、政務座の者があつまり、 たいしょ くんぜんかいぎ じたい きゅつはく 急迫した事態にどう対処するかの君前会議がひらかれた。 ひょうめんしゃざい てっとうてつびしゃざい ばくふ 幕府に徹頭徹尾謝罪して危機をのがれるか、あるいは表面謝罪して、ひそかに武備をと うみ じゅうしんせいむざもの で てきばくふ まんよ お ぶび 、つ 8
せきこうげ・き さんか げんじがんねんがっ しいだしたのは、元治元年四月にはいってからだった。 スが参加するとゝ ちょうしゅうはん おも しゅどうけんどくせん ォルコックが思ったとおり、長州藩をたたいたあと、イギリスに主導権を独占されるの どうちょ、つ おそ を恐れての同調である。 こくれんごうかんたい がっ せき フランスの四隻がくわわり四カ国連合艦隊十七隻の編成を終わったのは、六月になって よこはましゆっこ、っちか ほん′」く からである。いよいよ横浜出航が近づいたころになって、オルコックのもとに本国から下 とど くんれい 関攻撃はやめるようにとの訓令が届いた。 りようかいないこうろじゅうつうこう むかし ふくざっこくさいもんだい げんざい 力いきよう 領海内航路の自由通航は、昔もいまも複雑な国際問題で、現在のマラッカ海峡なども、 うんが しぶつか せいか′、 その一例である。かなり性格はちがうが、スエズ運河にしても、一国が〃私物化〃してこ じようきようたい ふうさ ひはん れを封鎖している状況に対し、まったく批判がないわけではない。 なんたんとおまわ ちちゅうかい せんばく ようかくぜっ せかいじゅう 地中海とインド洋が隔絶され、世界中のおびただしい船舶がアフリカ南端を遠回りする せんそう という不便さをがまんできない。 一九五六年のスエズ戦争は、そのようにしてはじまった のだ。 しょゅうこくちからはいけい かいほう じこくべんえきりカい だからといって、自国の便益、利害のために、その運河の所有国に力を背景として開放 せいと , っヤ」 , つい をせまるようなことが正当な行為とはいえないだろう。 しゅしよう こっかい れんごうかんたい 十九世紀のイギリス国会でも、イギリスが主唱する連合艦隊が下関を攻撃するという新 いちれい せいき ふべん ねん せきへんせい うんが しものせきこ , っげ・き いっこく しもの しん 0 6
けんぶつ あんさっしゃ 暗殺者 しものせきせんそうお げんじがん ねんがっ 下関戦争が終わり、サトウらが横浜にひきあげてまもなくの元治元 ( 一八六四 ) 年十月二 にちかまくらカいこくじんさつがいじけんはっせい れんごうかんたいしものせきしゅうげきたい ほうふくあんさつおも 十二日、鎌倉で外国人殺害事件が発生した。連合艦隊の下関襲撃に対する報復の暗殺と思 われる。 しようさ その日、駐留イギリス軍第二十連隊のポールドウイン少佐とバ ード中尉が鎌倉の大仏を にほんと、フ しようさ ろうにんふうおとこすうめいおそ 見物していたとき、日本刀をふりかざす浪人風の男数名に襲われた。ポ 1 ルドウイン少佐 そくし すうじかんご は即死、バ ード中尉は重傷を負わされて数時間後に息をひきとった。 げしゅにん がっ にちしよけい たちあ 二名の下手人はほどなく捕まり、十一月十八日に処刑するので、立会ってもらいたいと ぶぎようしょ きこくちゅう しよけいじようい 奉行所から達しがあった。ォルコックが帰国中だったので、サトウが処刑場に行く。 がいこくじんにほんじんけんぶつにんおおぜい 外国人や日本人の見物人が大勢あつまっていた。三時すこし過ぎたころ、罪人がくる った めかく とびら おとこ というささやきが伝わった。扉がひらかれて、目隠しされ、縛られた男が、群衆のあい ひちゅうりゅう たっ ちゅういじゅうしようお ぐんだい つか よこはま れんたい じ す ちゅうい かまくらだいぶつ ぎいにん ぐんしゅう 8 6
あおめ 青い目の仕掛け人 ア 1 ネスト・サトウは ちよしょ めいじ いちかいこうかんみ 『一外交官の見た明治維新』の著書で、 にほんじんした おお 多くの日本人に親しまれている。 れんごうかんたいしものせきしゅうげき 連合艦隊の下関襲撃のときは、 ごうの せんじよう きかん 旗艦ュ 1 リアラス号に乗って戦場にあらわれ、 てい A 」′、 たかすぎしんさく ノー提督との 高杉晋作とク 1 こうわだんばんつうやく 講和談判を通訳した。 とうしゅんすけ 伊藤俊輔や しか にん しん 174
こうたい そうい 発射だけで、すぐに新手と交代すると聞いていたのが、事実はまったくこれと相違して いたからだ。 とど わが方の砲弾は、最初のうちはあまり届かなかったが、着弾距離がはっきりしてから た ほうだい めいちゅう あき は、絶えず砲台に命中していることが、打ちあげられる土煙を見ても明らかだった。 ごう ごう うかた しんごうで 撃ち方やめの信号が出てから、 ーシューズ号のキングストンとメズサ号のデ・カム りようかんちょうじようりく まえだむらほうだい もんてつくぎう はっしゃふのう セプロートの両艦長が上陸して、前田村砲台の砲十四門に鉄釘を打ちこみ、発射不能に してしまった。 くしざきみさきしようほうだい さんもんほう にもん ほうほうげ . きはかい たい にち 串崎岬の小砲台は、三門の砲のうち二門までをわが方の砲撃で破壊した。第一日にお とうほうししようしゃぜんぶ ほうか ごうかんじよう ける当方の死傷者は全部で六名だったが、これは砲火の的になったターター号の艦上で やられたのだ。 よくそうちょうまえだむらほうだいぐん ほうだい こうげき たのうらおきていはくちゅうかんたい 翌早朝、前田村砲台群の一砲台が、田野浦沖に碇泊中の艦隊にむかってふたたび攻撃 ちんもく おうせん をはじめたが、応戦して、これを沈黙させた。 はいご へいえい かさいお ごうししやめい ふしよう この背後にある兵営は火災を起こした。この砲戦でヂュプレスク号は死者二名、負傷 しやめいだ ごうかいぐんたいい きゅうけいだんでんぶ じゅうしようお 者二名を出し、ターター号の海軍大尉は球形弾に臀部をやられ、重傷を負った。軍医は あや もうだめだといったのだが、この大尉は危うく生命をとりとめた : はっしゃ ほうほうだん あらて さいしょ たいい き 、つ ほうせん じじっ っちけむりみ ちゃくだんきより 0 ぐんい 6
きようとしゆっぺい ちょうしゅうはんないききかんさいこうちょうたっ 京都出兵とあわせ、長州藩内の危機感は最高潮に達した。 きへいたし てきま きよ、つと しものせきほうだい しゆっぺいちょうしゅうへい 奇兵隊などが下関の砲台で、あらわれぬ敵を待っているうち、京都では出兵した長州兵 ぐんじこ、つどう かついに軍事行動をおこした。 はまぐりごもんへんきんもんへん ぼつばっ げんじがんねんがっ にちよる てきあいづ 蛤御門の変 ( 禁門の変 ) が勃発したのは、元治元年七月十九日の夜である。敵は会津 さつま さんせんちょうしゅうへいぎんばい くさかげんずいきじままたべえちょうしゅ、つかげきろんじゃ 兵だったが、薩摩の参戦で長州兵は惨敗し、久坂玄瑞、来島又兵衛ら長州の過激論者はこ たたか の戦いで討ち死にした。 ろうしたい くるめ しゆっぺい まきいずみおおさかてんのうざん 浪士隊をひきいて出兵にくわわった久留米の真木和泉は大阪天王山にしりぞき「外艦が しよくん きこく しものせきおそ ぼ , っえい じさっ 下関を襲おうとしている。諸君ははやく帰国して防衛にあたれ」といいのこして自殺した。 はまぐりごもんへん ちょうしゅうはんべいう だんがんごしよない ちょうていゆみ 蛤御門の変のとき、長州藩兵が撃った弾丸が御所内に飛びこんだことから、朝廷に弓 もの ちょうしゅう ちょうてき たちば あっか をひく者として、長州は〃朝敵〃となり、立場はますます悪化した。 ばくふ ちょうしゅうせいばっちよくめいて 幕府は朝廷に請い、 長州征伐の勅命を手にいれた。 きよ、つり・ かえ ちょうしゅうへいま がいこくれんごうかんたい ばくふちょう かろうじて郷里に逃げ帰った長州兵を待っていたのは外国連合艦隊の来襲と、幕府の長 しゅうせいばっ ない力してき ちょうしゅうもじ はんなんむか 正伐である。内外に敵をうけて長州は文字どおりの藩難を迎えようとしている。 え じよういせんきようとしゆっぺい は、っそ、つ ほうしゅ、つ それが、攘夷戦、京都出兵と、かさなる暴走によって得た、 。がい報酬であった。危機 てきじようきよ、フ ヤ」 / 、」くち・か 的状況は、刻々と近づいてきた。 ちょうていこ 、つ じ と らいしゅう 力い・かん