とうほ、つ 東方 六度十四分 りんぞう ウト一一、ンに あすけてあった ふね 船で きたむ 北へ向ガった 林蔵は むら リョナイの村で あたら 新しい従者を やと じゅうしゃ ぶん きより 六距 ちょう 気 J み りゅうひょう 流氷を・ さけな ガらの くる 苦しい たび 旅ガ 一一カ月 続いた 」ョサイ・ ォルチ三・ ラッカ・ ノ〒ト トルンヨカカ 一〇四
それどころガ せいようたんけんか 西洋の探検家 たちでさえ 日本ではまだ誰も もの 確ガめた者はいななった たし にほん だれ カラ ス 船が潮流と おさかいてい 浅い海底に はばまれ ちょうさ 調査しきれて いなガった : ふねちょうりゅう ラシ すいそく 推測に もとす < はんとうせつ 畢島説が とられて いた そして これは たぶん 多分 はんと、つ 半島で あろう カラフトは せかいちず 世界地図の なかさいご 中の最後の く、つは′、 「空白」 だったので ある / 七九 2
オロシアから にほんまも 日本を守る ためには・ この蝦夷を し ロるこ AJ か じゅうよう 重要た / 0 そ , った / りようない 領内を くまなく ちょうさ 調査する ようい 容易では ない ( 宅 /.
/ / リョナイの / ぞくちょう 族長 ウト一一、ンの」 / / 一 家に泊まり ここでは うみ 海も こお 凍るのか イ、 りんぞう 林蔵はフ リョナイまで もど 戻った ひどい ゆき 雪だ / うみ こお 凍るのを 待った こお うみ 凍った海は なみう うみ 波打っ海 わる よりも悪し かもしれぬぞ けつい あんたの決意 はわかる : ウトニシどの・ : / ある 行くなど とても
えぞち 蝦夷地の ちょうさ 調査は てんこうきおん 天候・気温などの しぜんじようけんくわ 自然条件に加えて ちけい 険しい地形など そうぞういじよう 想像以上の こんなん へ困難ガ 蝦つきまとった たいして 苦には ならな ガった むらかみ たガ村上に あしこし 足腰を きたえられた りんぞう 林蔵は / 彡第 2 分 / 四三
んしす んえい みぎ 右た / もっと みぎ 、 4 っ之ノ ) ・ こうした ちょうさ たび 調査の旅を 続けるうちに りんぞう 林蔵は ほんかくてきそくりよう 本格的な測量 ぎじゅっ 技術を まな 学んだ 寛政十一年 ( かんせい ねん 間竿 ( けんざお ) 竹製の竿の両端を銅でつつみ、一尺、 六尺の間に黒点をつけて標識とした検地用具。
ばくふ 幕府は まつまえ 松前に ぶぎようしょ 奉行所を 開き 蝦夷を 守ることに した まも ひら これは たいへん 大変な たび 旅では ある りんぞう 林蔵 行って くれる まつまえぶぎよう 松前奉行 ちよくせつ 直接の ことば 言葉である ははーっ ア第ゞ カラフト ちょうさ 調査の たび 旅には どうこうしゃ 同行者ガ いた この命 かえ ましても 必ず・ : りんぞう 林蔵 かなら
くわ ばくふ 江戸を出て しょこく 諸国をめぐった にほんかいぼう 日本の海防などについても ちょうさほうこく 詳しい調査報告をし こうけん 幕府に大きな貢献をする やガて みずかおんみつ 自ら隠密となり すがたか 姿を変えなガら ひそ 密ガに しょはんどうせい 諸藩の動静を さぐ 探ることもした おお ふかがわ 深川 この命つきるまで いのち トへ 隠密 ( おんみつ ) 江戸時代、幕府や大名の命により各地に潜人して必要な情報を収集した 下級武士。
△物 ムチャを ひと 言 , フ人 りんぞう 林蔵は こっきようむ 国境の向「 ( う がわ たいりく 大陸の内部を ちょうさ 調査ヴる けっしん 決をする ないぶ 7 ほんと、つ 本当に 行くのか だんな ( 旦那 ) これを わた 渡して ? て - フ。こ 0 第を。 りんぞう 林蔵がトコョに さしだしたのは 自分ガ生きて かえ 帰れなガった時の いしょ 遺書と「、れまでの / きろく 記録だった じぶん まんいちとき 万一の時に シラメシの かいしょ 会所に とど 届けてくれ とき し 死ぬな よ :
ニ町三間 すればチイ / ちょう りんぞう 林蔵は ふねたび 船の旅でも じしやくよ 磁石を読み一 きより 距離を ガきとめた これがのちに だいちず カラフト大地図 になる けん ラ - ・ルーレ ライカ マーイ 十イフツ ク三亠、一コタン・ そして とうとう コタン りんぞうかわ 林蔵は川を さなのばり 船をガつぎ : ふわ 一一プホーツワ 0 荒波ガ 激しくなり アイヌの まるきぶね 丸木船では もう : すす 進めな ノみ