み、ツアンパを食べます。写真を撮ろうと近 寄ると、バター茶やツアンパをごちそうして くれました。 その近くでは、みんな、地面にころがって いる石を積みあげて、おもちゃの家のような ものを作っています。子どもの遊びではない ようで、大人も作っています。 「なにをしているんですか」とたずねると、 らいせ れ「来世にいったときのための家を作っている がんだよ」といいます。 こうけい ク同じような光景を南米ベルー・アンデスの さんぶくれいはい 巡礼祭で見ました。巡礼者たちが山腹の礼拝 どうしゅうへん 堂の周辺で野宿し、標高五〇〇〇メートルの ひょ、つが じゅうじか 一広氷河の上に立てられた大きな十字架に祈りを ささげるコイユリティ、「星と雪の巡礼祭」 、一て第 ちか 103 [ 3 ] ドルボの巡礼祭
◆カイラス巡礼 さんか 巡礼者たちはサカダワ祭に参加するだけ ではありません。巡礼のいちばん大きな目 ごたいとうち 、つ的はカイラス山を徒歩、あるいは五体投地 で何度もまわることにあるのです。カイラ いっしゅう ス山を一周する巡礼路はおよそ五二キロメ 1 トル。チベット人はこの巡礼路を一日で まわりますが、五体投地でまわると二週間 から三週間はかかります。一般の人の回数 としては一三回がふつうですが、多い人は 」守りになるのです。みんなが持ちさ「たあ とだったので、残っているのはばろばろの 布きればかりでしたが、ばくも旅の安全の ためにと小さなタルチョーを拾いました。 ー 0 のこ いつばん 69 [ 2 ] カイラス山の巡礼祭
ポ 教 は 歩 き シ も け ス ろ 徒 3 〇 ン れ 山 巡 ま き わ 0 ま い ん ひ ヤ は 礼 く 教 イ 甲 し く け と ど や と も 孤路 ら 徒 ヒ 回 つ す わ た に カ り ナ ず 回らを も ン も で 教 は も イ い 0 よ サ 左 ズ 徒 手 北 ま を ま フ 巡 い の の 保 わ 滝をで を 側 ス 礼 わ ま カ ま か わ 教 ダ 山 で あ が す な る っ る す 0 よ り 徒 わ 息 流 カゞ ワ そ る も て い に つ 0 ) 祭 向 者 せ を そ ち れ で 0 よ が た 飲 落 両で び の す カ で か は に 側ネ ち え く む にわヤ 日 な を な と ほ て カ て フ ク 後 く 耳叫る い イ ス ま い は ち ど 地ちほ 壮豸 ま 肌だに る ゆ フ す 色荷 ど 大をも 巡 を と ほ っ ス の 物 礼 の 山 と し の で で 刀ヾう を 路 手 教 石 旅 ん た す と の は お 山 積つを ち そ で ど の 見 も 仏 そ 巡 ん ま よ 知 が が ゆ の 屏望で か 礼 っ な、 グ 納教 姿 わ り つ で 侍き徒 で 者 を い る が て ロ ル 巡 ら を 変 す の き だ で っ 1 時 礼究 た プ 五 な よ ま と え き け 計 路 て イ本 っ す で ば に と で る ま を し す 雄な く ま い しゝ 地 そ 巡 わ ま 大く ま せ き の つ そ 礼 グ 家 し る ま で な よ 進 り 路 た ル 族 お す っ 示 ヒ 連 立 は ン に 上 徒と や 南 巡 っ プ で ズ わ き ふ れ り 歩ほ 礼 か 側 て ま も や す い 下 村 教 や ま ち じ さ か 五ご り 人 徒 た ま ま が ら め も 体を あ 見 す な ち 少 投与 ポ 仏 を り た カ な 地ち す ン 教 石 ま は 教 徒 い 肌 く す イ と ろ 五 も が 仏豸 ち 徒 体 に て で ぬ しゝ フ すがた 70
投地をする熱心な巡礼者は家族や仲間がサ ポートしています。 巡礼路のとちゅうに、仏足石がありまし あくま た。昔、悪魔がカイラス山をスリランカに 運ばうとしたことがありました。それをお せっとく 釈迦さまが説得してやめさせました。その あしあとのこ ときのお釈迦さまの足跡が残っているとい よこすじ う石です。カイラス山の北面には白い横筋 がたくさん見えますが、これは悪魔が縄を かけて運ばうとした跡だといいます。 すいげん インダス川の水源の流れを左に見ながら 日ぞいに高度をあげていきます。カイラス 一フ たいカ カ山は大河の水源です。インダス川のほかに、 サトレジ川、カルナリ日 プラフマプトラ 川の水源ともなっています。 ツ要 , = を しやか ぶっそくせき なかま なわ 71 [ 2 ] カイラス山の巡礼祭
さと さまが誕生して、悟りをひらき、そして亡 くなった三つが重なる、チベット仏教にと じゅうよう かくち ってもっとも重要な日です。チベット各地 きよう せいち の聖地や僧院に人々が集まってお経を読み、 おど 「チャム」と呼ばれる踊りを舞います。 この日をめざして、聖なる山カイラスに じゅんれいしゃ も巡礼者たちがたくさん集まってきます。 そして、カイラス山のふもとのタルチェン 村ではサカダワ祭がおこなわれるのです。 サカダワ祭は、「タルチョー」というお ン経や馬の絵が描かれた白色または五色の旗 うす 物、 ? チや、「カタ」という薄いスカーフのような きぬぬのむす 絹布が結びつけられた、高さ一三メ 1 トル の大きな柱を年に一回新しいものに立てか ぎようじ える行事です。 トを たんじよう そういん 63 [ 2 ] カイラス山の巡礼祭
う小さな山を聖山としたんだ」 ぶつきようと どうも仏教徒につごうのいい伝説です。ポン教徒はまたちがった伝説を持っているの かもしれません。 じゅんれい ◆巡礼する家族 ごたいとうち ズトウ・プク・ゴンパ僧院を出て先に進むと、五体投地をしている男の人と出会いま むし した。あいさっしましたが無視されました。これまで出会った五体投地をする巡礼者は、 あいさっすると五体投地のとちゅうでもあいさつを返してくれました。けれどもこの男 しんけん の人は真剣そのもの、あいさつなんてしているひまはないというきびしい顔をしていま と した。それに、かなり疲れているようです。写真を撮ろうとすると、うるさそうに追い はらわれてしまいました。 ゅうぼくみん 男の人を追いぬいてしばらく進むと、きのうの夜、ばくらのテントの横にいた遊牧民 の女の子と出会いました。お母さんと小さな弟もいっしょです。お母さんは重そうな荷 物をせおっています。お母さんと子どもたちだけなのに、どうしてそんなにたくさんの ひつよう 荷物が必要なのかと声をかけたら、さっきのきびしい顔つきで五体投地をしていた男の せいざん つか 79 [ 2 ] カイラス山の巡礼祭
ひょ、フ う、痛いだろうと思って声をかけてみると、みんななにかに酔いしれているような表 じよう こうふん せいち 情をしています。きっと聖地をめぐることに興奮しているのでしよう。 ばくらを日本人と知ると、少女たちは、「ダライ・ラマ一四世の写真はありませんか」 しいます。持っていないというと、がっかりしたようすです。写真を撮らせてくれな じゅんれいしゃ いかと頼むと、断られました。とちゅうで出会った巡礼者たちにも断られることが多か けいさつかん ったのですが、どうやら警察官の目をおそれているようです。 暗くなってきたので、川原にテントを張りました。ばくたちのテントの横に遊牧民が こうき 使うテントがありました。テントのそばで八歳くらいの女の子が遊んでいました。好奇 しん おどろ 心の強いかわいい女の子です。こんな高地にも遊牧民がいるのかと驚きました。けれど じさん よくあさ も、翌朝になると遊牧民のテントは消えていました。テント持参で巡礼にやってきた家 族だったのかもしれません。 ◆巡礼路のカップラーメン しゆくぼ、つ 巡礼路を進んで三日目。ズトウ・プク・ゴンパ僧院に着きました。僧院のそばに宿坊 さぼう や茶房がありました。巡礼路のあちこちにこのような茶房があり、お茶や食事を出して たの ことわ そ、ついん ゅうぼくみん
かんよう に寛容なんです。もちろんいくつか条件はありますが、それさえ守れば異教徒でもモス クに入れます。 まず、身体を清めます。ただ身体を洗うのではなく、順番が決まっています。それに、 すみずみまで洗わなければなりません。耳の中まで洗うんですよ。身体を洗ったあとは、 モスクを出るまで、トイレにいくこともオナラをすることも許されません」 マハムトさんによると、モスクに人るにはイスラム教徒用の帽子も必要だそうです。 きしん ) といいます。そこで、 また、敬意をしめすために、モスクへなにか寄進したほうがいし ぼくし モスクのイマムに小さなじゅうたんを寄進しました。イマムとは、キリスト教の牧師の ぐうぞうすうはいしんじゃ みと ような役目の人です。とはいえ、イスラム教は偶像崇拝や信者の上下の差を認めていな せいてん いので、イマムはあくまでもイスラム教の聖典、コーランの伝え手にすぎないとされて います。じゅうたんを寄進すると、イマムはこころよく見学を許してくれました。 たず 金曜日は、週に一度の聖なる日です。この日にハミにあるモスクを訪ねると、一〇〇 〇人近い信者が集まっていました。モスクの正面にイマムがいます。けれども、イマム に向かって祈るのではなく、信者はイスラム教の聖地であるサウジアラビアのメッカが れいはいしゃ ある西の方角に向かって、一日に五回、祈りをささげます。礼拝者にはお年寄りが多く、 いの じようけん あら ゆる ぼうし いきよ、つと としょ
ムスタンジョムソン ドル アンナレナ山 地方 工べレスト山 ラギリ山 0 カラ 0 カトマンドゥ ネール シー又ン村ス ーチベット自治区 ナテ 、中国 ノ 村 ネー e—ル コマ村 ロシア . ・・謇モ〉ゴル 中国 カザラスダゾ、、 ド・タラ、リザ村ツアルカ シェイ・コンヾ エーリ・リオックタ山 レ・ドルポ地方 インド べンガル インド洋 ジョムソン ◆チベット・ネパール友好道路 ナクチュカにもどったのは六月二八日で 癶」し、力し した。チベット高原の自転車旅行を再開し、 、ヾレ 中国と、イノ 、ヾ 1 ルの国境を越えて、、イノ 1 の首都カトマンドウまで向かいます。 六月二九日、午前一〇時半にナクチュカ しせんしようあまでら を出発。とちゅう、四川省の尼寺からきた ごたいとう じゅんれいしゃ という三人の巡礼者と会いました。五体投 ち 地をしながら、数か月かけてここまでたど しいます。 りつき、ラサをめざしていると ) 一キロメートルほど進んでは、休んでいま す。サポ 1 トのリャカーは先にいっている の ん れ 癶い 不さ ヤ」っ * 一よ、つ学」 ゅうこう 85 [ 3 ] ドルボの巡礼祭
ゆた 見もあります。ばくは、もともと裕福だった者は豊かさを知り、物質的欲望が強いので、 きんろ、フいよく そのぶん、勤労意欲が高いせいではないかと考えます。 いじゅう ちいきかくさん じんるい なぜ、人類が今ほどに地球上のあらゆる地域に拡散・移住できたのでしようか ? がわ くはやはり、「よりよい暮らしを求めての欲望」と「向こう側にはなにがあるかを知り こうきしん こんなん たいという好奇心」が困難を乗り越えさせ、未知の土地へ進出していった動機ではない かと思います。 すくなくとも太古の時代、おそらく文明が始まるまでは、欲望のおもむくままに行動 くらで するのはけっして悪いことではありませんでした。しかし文明が起こって、「い も富を欲しい」と思い、それをかかえこむ人間が出てくると、欲望は地球と人間にさま はかいあつれき ざまな破壊と軋轢をもたらしました。 かん しようひ しげんゅうげん 二〇世紀のなかば、地球の資源は有限であり、欲望のままに消費をすれば地球の環 境にダメージをあたえ続け、取り返しのつかないことになることがわかりました。ばく てんかんき しんけん たちはどうすればいいのか、真剣に考えなければいけない転換期にいるのです。 関野吉晴 二〇〇三年七月 きよう たいこ こ ぶっしってきよくぼう 119 あとがき