チベット高原 - みる会図書館


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1. チベットの聖なる山へ

関野吉晴 ( せきのよしはる ) 1 9 年東京に生まれる。一橋大学法学部、 横浜市立大学医学部卒業一橋大鞣学中 ロ矣部を殿、アマゾン川の流を下る。 医師としてはたらくかたわら、南米各地を 訪れ、写真家、映像プロテューサーとして も活躍している。主な写真集に、「ギアナ 高地」 ( 講談社 ) 、「南米大陸」 ( 朝日新聞社 ) などがある。 人◇ 0 0 円年 ~ 2000 年 ; 冫コル糸従断 グレートジャー 人類 5 万キロの旅 は ] 嵐の大地バタゴニア [ 2 ] チチカカ湖めざして [ 3 ] はるかインカを訪ねて [ 4 ] 失われた世界をいく [ 5 ] 中央アメリカをかける [ 6 ] ナバホの国へ [ 7 ] ヘーリンク海峡をわたる [ 8 ] 北の狩猟民とともに [ 9 ] 道なきツンドラをゆく トナカイ遊牧民とくらす 第 ] バイカル湖への道 [ 囘草原と砂漠のモンコル チヘットの聖なる山へ 2000 年 ラヤ糸従断公 2 剛 0 日 。ラエトリ到着 表紙リ真 聖地カイラス山。 裏表紙写真 カドマントウのヒンズー教寺院のサル。 カハーー袖写真 チベット高原のナキウサギ。 扉写真 北ドルボの巡礼祭の踊り。

2. チベットの聖なる山へ

国境 サ冫タンフー ま 0 ウ , 0 チ △△バリクン 天山山月 自転車 タクラマカン少三 救粛 新疆ウイクル自治区 ゴ ) レムド チベット高原 チベット自治区 、一・、、タンクラ △カイラス山 アムド△ ( カーン・リン山 ) ナクチュカ 0 ラサ ロシア カザフスタン、、 - 、 モンコルに・ ネル」 : 罸い インド トウトウ遡 アラビア べンル・ 、山脈 リクンから西に向かい、カザフスタンを経由 して中東に向かうのが最短のル 1 トです。け れども今回は南に向かい、チベット高原とヒ 、。、ールまでい 2 、とい一つ日取大 マラヤを越えて、イノ の寄り道をすることにしました。いままでの 寄り道は人力にこだわらずにきましたが、今 回は自転車でいきます。 まず、 パリクンから中国・モンゴル国境に 向かいます。およそ一七〇キロメートルの道 のり、自転車を車につんで国境までいき、国 境からハリクンまでもどってくることにしま ひつよう とくべつきよか した。国境までは中国政府の特別許可が必要 けいびたい でした。許可はもらえたものの、国境警備隊 いんがいむしよう 員と外務省の係官が同行するといいます。 さっえい やまだかずや 山田和也さんたち四人のビデオ撮影チーム さいたん せいふ さいだい 7 は ] モンゴル国境からシルクロードへ

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キ 4000 メートル以上のチベット高原 にゆういききよかしよう 入域許可証を持っていない外国人旅行者は、 きんし ここから先は通行禁止です。 ちゅうかじんみんきようわ チベットは、一九四九年、中華人民共和 こくせんりよう 国に占領され、人口の五分の一である一二 うしな 〇万人が命を失い、六〇〇〇以上の貴重な げんざい 力し ぶつきよう 仏教寺院が破壊されました。現在も、中 ぼうめい 国の政権下にあり、インドに亡命している しゅうきようてきしどうしゃ 宗教的指導者、ダライ・ラマの写真やチ きんし こっき べット国旗を持っことも禁止されています。 どくりつ チベット自治区では、中国からの独立運動 そうらん か根強く、騒乱もたびたび起きています。 いつばん そのため、一般旅行者がチベットに入るの むずか は難しくなっています。 つうか それなのに、ばくらは問題なく通過でき ました。許可証を見せろともいわれません せいけんか きちょう は ] モンゴル国境からシルクロードへ

4. チベットの聖なる山へ

◆クンガ・ウセル和尚の五体投地 へいきん カイラス山は標高六六五六メ 1 トル。「世界の屋根」とばれる平均標高四五〇〇メ 」、つほ、つ ぶつきよう ートルのチベット高原を代表する高峰です。チベット仏教ではこのカイラス山を「カー A 」、つ A 」 しん、」、フ うちゅうかん ン・リンポチェ ( 尊い雪山 ) 」と呼んで、仏教の宇宙観をあらわす山として昔から信仰 してきました。 しやか ぶつきようと カ 1 ン・リンポチェは、チベット仏教徒にとってお釈迦さまそのものであり、まわり の山々はお釈迦さまにつきしたがう仏たちなのだとされています。仏教が伝来する以前 しんこう 力いそ からチベットで信仰されていたポン教では、開祖のシェンラップ・ミョが空からカイラ はっしようち ス山に降りたった、ポン教の発祥地だとしています。また、ジャイナ教ではカイラス山 さと しゅうきよう せいち で開祖が悟りを開いたと説いています。宗教ごとに理由はちがいますが、共通の聖地と してカイラス山をあがめています。 ヤ」、つ、んき チベット人は「旅する文明人」と呼ばれます。巡礼と交易のために、しばしば旅に出 癶い 小さ おしようごたいとうち 57 [ 幻カイラス山の巡礼祭

5. チベットの聖なる山へ

をみ第を・第”。ーをラ づ , 、、ラうを一 0 第 , 第ア 1 ◆巡礼祭にむかう ジョムソンを出てから八日目、ティンキ ュー村に着きました。村の人り口にテント が張ってあります。テントの住人たちはチ みんぞくいしよう べットの民族衣装を着ています。北ドルポ ふくそう でもチベットの人たちと同じ服装をしてい ちかよ るのかなと思ったのですが、近寄ってみる ちが 々 とどうも違うようです。この人たちは国 人 境を越えて中国のチャンタン高原にくらす 県チベット人たちでした。巡礼祭のためには るばるやってきたのだといい ます。「はる ポ ちゅう ばる」といっても、ここから二日歩一けば中 きようこ にネ。、 1 ル人スタッフといっしょに、ジョ ムソンを馬で出発しました。 こっ 93 [ 3 ] ドルボの巡礼祭

6. チベットの聖なる山へ

ムスタンジョムソン ドル アンナレナ山 地方 工べレスト山 ラギリ山 0 カラ 0 カトマンドゥ ネール シー又ン村ス ーチベット自治区 ナテ 、中国 ノ 村 ネー e—ル コマ村 ロシア . ・・謇モ〉ゴル 中国 カザラスダゾ、、 ド・タラ、リザ村ツアルカ シェイ・コンヾ エーリ・リオックタ山 レ・ドルポ地方 インド べンガル インド洋 ジョムソン ◆チベット・ネパール友好道路 ナクチュカにもどったのは六月二八日で 癶」し、力し した。チベット高原の自転車旅行を再開し、 、ヾレ 中国と、イノ 、ヾ 1 ルの国境を越えて、、イノ 1 の首都カトマンドウまで向かいます。 六月二九日、午前一〇時半にナクチュカ しせんしようあまでら を出発。とちゅう、四川省の尼寺からきた ごたいとう じゅんれいしゃ という三人の巡礼者と会いました。五体投 ち 地をしながら、数か月かけてここまでたど しいます。 りつき、ラサをめざしていると ) 一キロメートルほど進んでは、休んでいま す。サポ 1 トのリャカーは先にいっている の ん れ 癶い 不さ ヤ」っ * 一よ、つ学」 ゅうこう 85 [ 3 ] ドルボの巡礼祭

7. チベットの聖なる山へ

うようになると、風を横から受けるようになったので、すこし楽になりました。くもり かた 空で、風が冷たく、気温も上がりません。ちょっと急な上り坂でも肩で息をするような こともなく、気持ちよく前進できます。 さい」 標高が上がってきました。チベット高原に人るのです。最後の二五キロメートルは、 標高一六〇〇メ 1 トルから二四〇〇メ 1 トルまで、高低差にして八〇〇メ 1 トルを、ゆ つくり三時間かけて上りました。高山病をおそれたのです。 うで あまつぶ 最後の一〇キロメートルで小雨が降りだしました。日にやけて皮のむけた腕に、雨粒 かしみて、ちくちくします。 アクサイの町を二五キロメ 1 トルほどすぎたところに宿がありました。ここに泊まる ことにしました。気温は一〇度以下です。きのうまでの四〇度の気温がうそのようです。 宿では石炭ストープをたいていました。ストープのおかげであたたかく、やかんのお 湯も飲み放題なので、お茶を飲みすぎて、下痢ぎみになってしまいました。 この日は朝から標高差一三〇〇メ 1 トルを上ったことになります。それでもあまり疲 げんいん れていません。おしつこも出るようになりました。きのうまでのひどい疲れの原因は、 もうれつ だっすい 猛烈な暑さと、それによる脱水のせいだったのです。すこし安心しました。 つか

8. チベットの聖なる山へ

すなやま 二〇キロメートル、高さ一〇メ 1 トルほどの砂山です。風にふかれてくすれるたびに音 がする、鳴き砂の山として知られています。 モンゴルでは荷物を積むために鞍をつけたラクダたちが、ここでは観光用に使われて いました。観光客を鳴沙山に乗せていくのです。 ラクダたちの鞍にはきれいな布がかけられていました。鞍や布はきれいですが、毛は くびすじ ごそっとぬけ落ちています。ヒッジやアルバカの毛を刈ったあともそうですが、首筋は ちぢ 細くて、やせています。こぶも縮んでしまって、貧相です。モンゴルで乗りついだラク ダたちも、春になって冬毛がぬけて貧相になっているのかもしれません。この日は風が ぎんねん なく、残念ながら鳴き砂の音は聞くことができませんでした。 鳴沙山からホテルに帰り、夕食の時間になっても、まだ食欲がありません。あまりの ひろう 疲労に、不安がつのります。 ◆チベット高原の旅 五月二四日。六時半から開いている食堂で、牛肉入りのラーメンを食べてから出発し ました。風速一〇メ 1 トルほどのやや強い向かい風がふいていました。道が南東に向か ′、ら ひんそう 25 [ 1 ] モンゴル国境からシルクロードへ

9. チベットの聖なる山へ

◆高原の嵐 翌朝、出発しようとすると、風向きが変わっていました。追い風は追い風ですが、右 ななめうしろからの強い追い風です。自転車が風に流されて、なかなか調子よくべダル えいきよ、つ をこげません。自転車という乗り物がこれほどまでに風の影響を受けるものかと、あら ためて実感しながら進みました。 アルタオコウ もくてきち この日の目的地は、風火峠の向こうにある二道溝です。およそ七〇キロメートルある と、五道梁の村人が教えてくれました。 さいしょ 最初は下り坂でしたが、だんだん上りがきつくなってきました。風火峠の上り坂はか なりきっかったのですが、なんとか上りきり、一気に標高四五二〇メートルの二道溝ま きより . けい で下りました。二道溝に着いて距離計を確かめると、七〇キロメ 1 トルどころか八二キ ロメ 1 トルありました。やはり高山病の症状は出ていません。高地の旅を無事に終えら れそうです。 チンツアンコンルー 青蔵公路という道路から二〇キロメ 1 トル離れた小さな湖の近くにある、チベット たず 遊牧民ラルゴさんのテントを訪ねました。 ゅうふく ラルゴさんは、ヤクをおよそ二〇〇頭、ヒッジおよそ一〇〇〇頭も飼っている裕福な よくあさ あらし はな カ 41 [ 1 ] モンゴル国境からシルクロードへ

10. チベットの聖なる山へ

だん ◆グレートジャーニーとは じんるい いどう グレートジャーニー。大いなる旅。人類が地球上を移動していった旅路を、イギリスの考 古学者、プライアン・フェイガンは、こう名づけました。 たんじよう 人類は、約五百万年前に、東アフリカで誕生したといわれています。そして百数十万年前 たいりく にアフリカ大陸から、ヨーロッパやアジアを経て、南北アメリカ大陸へと広がっていきまし さいなんたん た。アフリカ大陸からもっとも遠い南アメリカ大陸最南端にたどりついたのは、一万数千年 きより 前。その移動距離は五万キロにもおよびます。 ぎやく ばくは、この人類の旅路、グレートジャーニ 1 を逆ルートで、徒歩、カヤック、自転車と きやくりよくわんりよく いう、自分の脚力と腕力だけでたどりました。 一九九三年一二月、チリのナバリーノ島を出発、一九九七年には、南北アメリカ大陸縦 力いきよ、つ 断を終え、べ ーリング海峡をカヤックでわたり、ユ 1 ラシア大陸にたどりつきました。 がわ ロシア、モンゴルを横断し、今回は、まず中国側のシルクロ 1 ドに入り、そこから世界の じゅんれいさい 屋根といわれるチベット高原を自転車で走り、聖なる山カイラスの巡礼祭、さらにネパール おくち 奥地にある北ドルボの巡礼祭へと、三四〇〇メートルにおよぶ壮大な寄り道をはじめました。 そうだいよ じゅう