せいしん めたんだよ。回族はイスラム教徒だからね、プタ肉の入った料理は食べない。清真料理 というイスラム教徒向けの料理しか食べられないんだ。単にプタ肉を使わなければいい ほうちょう 力というと、そうではない。、 フタ肉を切った包丁で料理したものもだめだ。ヒッジ肉だ って、イスラム教徒の殺したヒッジでなければ食べてはいけない。だから、回族にとっ レ J 、フほ、フ けいえし ては、同じ回族が経営するレストランがいちばんなんだよ。同胞の回族の客のおかげで はんじよう このレストランも繁盛するようになったんだ。すこしずつレストランを建て増しして、 ごいり・よ、つ さいしょ いまでは最初の二倍くらいの広さだよ。夫婦ふたりで、すこしずつ材料を買い集めて、 ざいりようひ 手作りで建て増ししたんだ。材料費だけだから、安くできたよ」 みちすじ 自転車の旅のとちゅう、通ってきた道筋で、回族の商売人とよく出会いました。ムサ ねっしん さんと同じようにレストランを経営する人が多いようですが、みんな商売熱心です。ム かんそう のが サさんは「とにかく貧しさから逃れたかった」といいます。乾燥した土地では、いくら こんなん 努力しても多くの収穫は望めず、貧しさからぬけだすのは困難です。ムサさんのように、 土地を捨てて旅に出る回族はたくさんいます。 じようれんきやく ムサさんのレストランの常連客だった金掘りたちも、貧しさから逃れたくて旅に出た きんし 回族でした。けれども、可可西里は三年前に自然保護区に指定され、金掘りも禁止され しゅうかく ほ′」く たん た ま 弴は ] モンゴル国境からシルクロードへ
シーダタン村に着きました。道路ぞいにレストランがならんでいます。ちょうど昼食時 間だったので、トラックやバスがたくさん駐車しています。 すななべ なべや ばくらもレストランに入って、「砂鍋」という料理を食べました。日本でなら鍋焼き やさい うどんに使うような砂つばい土で作った鍋に、トリ肉、コンプ、春雨、野菜、そして香 しんりよう あわ 辛料を人れて火にかけます。しばらくすると煮たってばこばこと泡がたった鍋を、その ふっとう まま食卓に運んできます。標高が高いと気圧が低くなるために、水の沸騰温度が低くな ります。標高四〇〇〇メ 1 トルだと、七〇度で沸騰します。七〇度ではあまりよく煮え ないのではないかと不安でしたが、肉も野菜もおいしく煮えていました。 食事をしながらレストランの主人のムサさんに話を聞きました。ムサさんは少数民族 カンスーしようサンハイしようきようかい の回族で、イスラム教徒だといい ます。もともとは中国の甘粛省と青海省の境界あたり ちいき まず の地域で、農業をしていたそうです。そこは、貧しい土地でした。おまけに雨が降らな い年が続き、凶作にみまわれました。そこで七年前にシーダタン村に移住してきました。 「友だちから一万二千元を借りて、この小さなレストランを買ったんだ。ところが定期 ハスの客は昔からあるレストランにいってしまう。そこで、おれはこの奥の可可西里の こうざん 鉱山で金を掘っていた回族の人たちゃ、やはり回族のトラック運転手向けの料理をはじ かいぞく しよくたく きよ、つさく きよ、フと きあっ ちゅうしゃ いじゅ、つ ヤ」、つ
さく きんほ こっきよ、フ ました。そこで金堀りたちは、遠くインド国境に近いアリまで移動しました。そのため、 じようれんきやくうしな ムサさんは常連客を失ったのです。 ムサさんには三人の子どもがいます。中国は人口増加をおさえるためにひとりつ子政 かぎ 」 A っ力い 策をとっていますが、少数民族に限って、町に住む夫婦はふたり、郊外に住む夫婦は三 きよ、フりしんせき 人の子を持っことができます。一三歳の長男と一〇歳の次男は郷里の親戚のところにあ ずけています。七歳の長女はゴルムドに下宿して小学校に通っています。 まず 「おれは学校にいかなかったんだ。回族の子どもたちは貧しいから、学校をやめて働く ことが多いんだよ。だから漢字を読めない者もたくさんいるよ。おれたち夫婦も漢字が しようらいゅめ 読めないんだ。将来の夢は、そうだなあ、ゴルムドに家を建てて、レストランをやりた いね。もちろんそのときは家族全員がいっしょに住むんだ」 クンルンシャンコオ ムサさんのレストランをあとに、崑崙山口に着きました。 しようじよう じゅんのう 高山病の症状は出ていません。なんとか高度に順応できたようです。 よくあさ ◆世界一標高の高い自然保護区 翌朝、起きてみると小雪がちらついていました。やや強い風もふいていましたが、幸 ぞうか ふうふ
ターチャイタン 標高三一六〇メ 1 トルの大柴旦に着いたのは、午後七時のことでした。一日の移動距 さいちょう 離としては、今年に入って最長の一五五キロメートルを記録しました。 シーティエシャン 五月二七日。大柴旦から錫鉄山に向かいます。移動距離は約七〇キロメートルなの で、あわてずにゆっくりスタ 1 トしました。午前七時に宿で朝食を食べました。ワンタ ンを頼んだら、ギョーザみたいに大きなワンタンがてんこもりで出てきました。これを 食べて、七時四〇分に宿を出発しました。 こ、っていさ 前日に続いて、高低差のほとんどない道です。ふたつの小さな山を越えました。とち げんば きようみ ゅう、道路工事の現場を通りました。作業員たちは工事の手を止めて興味深そうにこち らを見ていましたが、声はかけてきません。道ばたに、「錫鉄山まで六キロメートル」 ひょうしき という道路標識がありました。 錫鉄山の町の人り口に宿と食堂がありました。ここに泊まろうと聞いてみると、満員 こうざん で部屋がないとゝ しいます。やや急な坂道を上ると、鉱山労働者たちのアパートが建ちな らんでいました。ちょっとした町です。小ぎれいな宿もあったので、泊まることにしま した。宿にはうまい料理を出すレストランもありました。レストランのおばさんに、 「あんたはチベット人みたいに顔が黒いねえ。チベットからきたんじゃないの」と、 たの ど、つきょ
一〇時ごろからは、気温も上がりはじめました。温度計は四二度をさしています。今 もくてきち なみき 日の目的地の敦煌まで、あと二〇キロメ 1 トルという地点からポプラ並木がはじまりま 」か、け・ した。とはいえ、太陽が天上にあるので、木陰はできません。もうちょっと日が傾けば、 暑さをさけて木陰でひと息つけそうです。上り坂と照りつける日差しのために、ばくは すでにばてはじめていました。 一三〇キロメートルを七時間で走って敦煌に着くと、すぐにホテルに入りました。シ あら ャワーを浴びて昼食を食べ、べッドに 横になります。水で顔を洗ったのに、身体はほて きんにく ったままです。筋肉がつるのも止まりません。いつもならひと休みすると疲れもとれて、 いよく なにかやろうという意欲がわきますが、今回はなかなか疲れがとれません。日記をつけ ても、本を読んでも、すぐにいやになってしまいます。集中力がありません。 かんこ、フ めいさぎん このままではいけないと、敦煌の観光名所、鳴沙山に出かけました。敦煌はシルクロ ードの古都として、観光客に人気が高い町です。日本からの団体観光客もあちこちにい たいわん ました。観光客でいちばん多いのが日本人で、日本食レストランもあるほどです。台湾 からの団体客もたくさんいました。 鳴沙山は敦煌の南五キロメートルほどのところにある、東西四〇キロメートル、南北 とんこ , っ だんたい つか かたむ