もうたくとう ・か′、。めい じんみんぐん せんりよう 革命に成功した毛沢東の中国政府は人民軍を送り、チベットを占領しました。その後、 ぼうめい 当主のダライ・ラマ一四世もインドに亡命しました。文化大革命の余波がチベットにも やってきて、階級社会をこわしていきました。 後に、外国人としてはじめてこの地を長期にわたって調査した、アメリカ人人類学者 きようみぶかしてき ゴ 1 ルドスタインは、その調査記録『西チベットの遊牧民』の中で興味深い指摘をして います。 文化大革命期に強制的な平等化を進めた人民公社は、一九八一年に解体するにおよん ろうじん で、構成員のすべてに家畜を平等にわけました。赤ん坊から老人まで、ひとりにつきャ ク五頭、ヒッジ二五頭、ヤギ七頭の計一二七頭といった具合でした。しかし、ゴールドス ほ、つこく ひんぶ タインは、それからわずか五年の間に、再び大きな貧富の差が生まれていったと報告し ゅうふく れい力し ています。興味深いのは、 ) しくつかの例外をのぞいて、文化大革命前に裕福だった家は かそうみん 裕福になり、下層民だった家は再び家畜を失っている傾向が強いというのです。 かくさ まったく同じスタートラインから出発して、なせそんな格差ができたのでしようか。 けいえ かんり さまざまな理由が考えられます。経営あるいは管理能力の差、あるいは裕福な家族は かちく 大家族を形成していて、家族全体をあわせると多くの家畜が分配されたから、という意 こうせいいん せいふ ふたた け・い」、フ じんるいカくしゃ 1 18
あとがき サンハイしよ、フ 中国青海省の首都ゴルムドからチベット自治区の首都ラサに自転車で向かうとちゅう で、チベット遊牧民ラルゴさんのテントを訪ねました。 ゅうふく しよ、フかい 本文でも紹介したように、ラルゴさんは裕福な遊牧民です。いつもは家畜の世話はふ たりの労働者にまかせていますが、外国からの客人がきたというので、ラルゴさん夫妻 でんとうてき いしよ、つ がこの地方の伝統的な衣装を着て、作業を手伝うことになりました。着慣れない服は、 仕事がしづらそうです。とくに若い夫人は、日本と同じように中国でもはやっている厚 底の靴をはいていて、本当に動きにくそうでした。 きぞく 力いゅて、フ ぶんかだいかくめい 文化大革命以前のチベットは、貴族階級が支配する階層社会でした。貴族の下に平民 ( 農民、牧民 ) がいて、その下に下層労働者がいました。ラルゴさん一族は、文化大革 命前も裕福な遊牧民だったといいます げんざい ちんぎん 一方、賃金でやとわれているふたりの労働者は下層階級の出身だったそうです。現在 え の賃金もきわめて安く、住みこみなので住居費や食費はタダですが、数か月間働いて得 られるのは、労働用の衣服と一頭のヒッジだけだといいます わか かそ、フ 0 0 きな かちく ふさい 117 あとがき
んなと笑っているのが健康にいいのかもし れません。いつもみんなが集まってくるの しんぞう で、心臓によくないくらいなんですよ」と、 話してくれました。 でんとう ん食事が終わるころ、何百年も伝わる伝統 あてきおど 的な踊り「アシラップ」がはじまりました。 えんそう 歳伝統的な民族楽器の演奏に合わせて、子ど もたちもお年寄りも楽しそうに踊ります。 きよ、つと ばくがはじめて出会ったイスラム教徒、 たみ ハミのウイグル人は、シルクロードの民に どくじ ふさわしく、独自の文化を大切にしながら じゅうなん も外来の文化を柔軟におりまぜてくらして いました。 としょ けん」、つ 巧 [ 1 ] モンゴル国境からシルクロードへ
◆イスラム世界に入る シルクロードが運んだのは、モノだけでは ありません。さまざまな文化はもちろん、 しゅうきよう 宗教も運ばれました。 かんみんぞく シルクロードのオアシス、ハミは漢民族と ふんいき 少数民族ウイグル人が住む、宿場町の雰囲気 を残す町です。ウイグル人は、ほとんどがイ きよ、つと 気スラム教徒です。グレートジャーニーでイス ぶんかけんおとず 売 もラム文化圏を訪れるのははじめてなので、イ れいはい スラム教の寺院であるモスクでの礼拝を見た い * 、よ、つと いと思いました。けれども、異教徒をモスク 力に入れてくれるのかどうかかわかりません。 そうだん でそこで、イスラム教徒のマハムトさんに相談 しました。 「だいじようぶですよ。イスラム教は異教徒 11 は ] モンゴル国境からシルクロードへ
んいます。今回の巡礼祭では、台湾のみな るさんにたくさん寄付してもらいました」 ばくは巡礼祭の意味をたずねました。 「巡礼祭は、自分たちの文化の大切さを自 しんこうしん コ覚するためのものです。最近、信仰心がう すれ、若者たちはあまり祈らなくなってい でん ます。そんな若者たちも、祭りを通じて伝 統の大切さを知ることができるはずです。 いしよ、フ 祈りだけでなく、衣装や音楽など、祭り はさまざまな伝統があります。祭りに参加 することによって、そんな伝統を自覚する しんこう でん ことができます。祭りは信仰をふくめた伝 とうてきぶんかふつこううんどう 統的な文化復興運動なんです。台湾もふく きふきん めた信者からの寄付金は、荒れた僧院を立 て直すのにも使いますが、それだけでなく、 A 」、つ 111 [ 3 ] ドルボの巡礼祭
◆ネパール到着 ネパールに入りました。メキシコ以来、ア がっしゅうこく メリカ合衆国、カナダ、ロシア、モンゴル、 中国と大きな国ばかり旅してきました。五年 間で六か国しか通っていません。ひさしぶり に月さな国に入りました。 ( 。一一二一 ( 亜熱帯の国の雰囲気がただよいます。ヒマ ちが ラヤの北と南の違いか、人々の顔が変わり、 いなさくぶんかけん 食べ物が変わりました。はじめて稲作文化圏 とうちゃく 七月一〇日、国境の町ジャンムーに到着。 も騒がしいほど活気にあふれた町でした。ヒマ 緑ラヤの南と北でさまざまな物がいきかいます。 ここで、いままで旅をともにしてきたマ・ジ ドンくんともお別れです。 ラ さわ こっきよう 87 [ 3 ] ドルボの巡礼祭
こうえきろ 中央アジアを横断し、東西の文化を結んだ交易路であったシルクロード。その名残り をとどめるのはバザール ( 市場 ) です。 ハミのバザールで目をひかれたのは四〇〇種類もの薬をならべている露店でした。漢 ぼうやく やくそうるい こうっ 方薬の本場、中国だけに、多くは薬草類ですが、ヘビなどの動物や、鉱物も薬として売 っています。二五年もここで露店をやっているというおばさんに聞くと、中国だけでな く、パキスタンやインドから国境を越えて運ばれてきたものも多いそうです。 しようじよう おばさんは、客の症状に合わせて薬も調合するといいます。ばくもいざというときの ふくつう ために、腹痛の薬を調合してもらいました。 やくわり 中国の漢方薬は、病気になったときの医薬品の役割だけではなく、料理に使われるこ こ、つ 0 えいようがく ともあります。日本もそうですが、西洋式の大学の医学部には、栄養学の講座がありま せん。西洋医学は栄養学を重視していないのです。これでは人間の健康を生活全体から かくぶんや 見ることはできません。それどころか、各分野の細分化が進み、ますますその傾向が強 くなっています。 ちが 露店にならぶさまざまな薬に、ばくが学んだ西洋医学と、東洋医学との違いをあらた めて感じました。 おうだん じゅうし こっきようこ けんこう ろてん 一け・いヤ」、つ かん 0
′」くりよう 、ヾール国内の自動車道まで出るのに徒歩で一週間以上かかるのですから、 国領です。、イノ こうえき 中国のほうがずっと近いのです。チャンタン高原の人たちはチベットともさかんに交易 しているそうです。 じゅんれい じゅんび ティンキュー村では巡礼の旅に出かける準備をする村人たちがたくさんいました。 「この村から何人が巡礼祭にいくんですか」とたずねると、「村の半分以上の人間がいく よ」と教えてくれました。 ぶたい 次に立ち寄ったシ 1 メン村では、すでに数家族が巡礼祭のいちばんの舞台となるシェ イ・ゴンパ僧院に向けて出発していました。テントを張らせてもらった家も、おじいさ んを残してみんな出かけてしまっていました。おじいさんはシーメン村でもほとんどの しいます。ばくは、せいぜい百人か二百人くらいの村人が集 住民が巡礼祭に出かけるとゝ しようきぼ まる、もっと小規模な巡礼祭かと思っていましたが、予想以上に大きい祭りのようです。 聞けば、外国からの巡礼者もいるといいます。一二年ぶりの大祭のために、ニマ・ラ しきん せんでん マとサキャ・ラマというサルダン村のふたりの僧が中心となって、資金集めと宣伝をお 。北ドルボでは大きな村で、文化活 こないました。サルダン村の人口はおよそ六〇〇人 えんじよ しゅうきよう 動や宗教活動の中心地となっています。ドイツのボランティア団体の援助で小学校も のこ そういん
にゆ、つい * 」 ひかいほうちいき 年ほど前のことです。開放されたといっても基本的には非開放地域で、年間に入域でき せいげん る人数も制限されています。昔ながらのチベット文化が生きる、世界に残された数少な ひきよう い秘境のひとっといっていいでしよう。 じゅんれいさい ぶつきようと 八月の下旬、このドルボで一二年に一度のチベット仏教徒たちの巡礼祭があると聞き みどし ました。カイラス山でばくが見たような毎年おこなわれる巡礼祭ではなく、巳年はネパ うしどし 1 ルのムクチナート、午年はカイラス山、酉年はポダナートという具合に、一二年周期 とくべっ せいち でチベットと、イノ 、。、ールの聖地で、場所を移しておこなわれる特別な巡礼祭で、辰年の一一 しゅうきようぎようじ 、力し当」し しいます。四日間にわたって、宗教行事と、巡礼者 〇〇〇年はドルボで開催されるとゝ おど たちの歌や踊りが続くそうです。 ばくはぜひともその祭りが見たくなりました。巡礼祭のおこなわれるシェイ・ゴンパ おくち 僧院は、ドルボでももっとも奥地にあたる北ドルボにあります。 きよか 、ヾールの首都カトマンドウの 幸いネパール政府からドルボに入る許可が出ました。、イノ 北西にあるジョムソンまでは飛行機でいけます。ここからは車の通れる道はありません。 巡礼者たちとともに歩くしかないようです。 さだかねあやこ 八月一六日、チベット学研究者の貞金綾子さん、朝日新聞写真部の中田徹さん、それ そういん げじゅん うつ とりどし きほんてき なかたとおる のこ たつどし 2
体をこづいたり、かなり乱暴です。巡礼者 たちはタルチョーやカタを自分たちの村か らわざわざ持ってきています。それなのに 警察官にとめられたのではかないません。 のが 警察官の警戒の目から逃れて、なんとか結 ばうとします。 警察官が多いのは、チベットが中国から どくりつ 独立しようという運動がさかんだからです。 しゅうきようしどうしゃ この半年前には、チベットの宗教指導者カ ぼうめい ルマパ一七世が国外に亡命しています。サ ぼうどう カダワ祭のような宗教行事は暴動につなが りかねません。警察官はそれを警戒してい るのです。独立運動がはげしかった一〇年 さんか きんし 前のサカダワ祭は、外国人の参加が禁止さ サれました。そして三〇〇〇人の警察官がき らんぼう 6 ラ [ 2 ] カイラス山の巡礼祭