鉄条網 - みる会図書館


検索対象: チベットの聖なる山へ
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1. チベットの聖なる山へ

きんし さっえい もいっしょでしたが、とちゅうで撮影を禁止されました。 がわ てつじようもうは 国境の中国側には、モンゴル側よりもしつかりとした鉄条網が張られていました。け れどもこの鉄条網は国境ではありません。本当の国境はこの鉄条網の向こう、およそ二 〇キロメートル先です。そこに、モンゴル側から見た国境の石碑があるはずです。 こっきようけいびたいいん ところが、国境警備隊員がどうしても鉄条網の向こうへいくのを許してくれません。 モンゴルまでつないできた旅のルートを完成させたいのだと、何度もたのみましたが、 とくべつきよか 「鉄条網を越えたければ、国境の開く八月に特別許可を取ってからにしてください」と、 ことわ そっけなく断られました。一時的に国境が開く八月にあらためて許可をとって、出直す ことになりました。くやしいけれど、しかたありません。 鉄条網の手前から自転車で、国境にいちばん近いサンタンフーの町に向かいます。国 きんし 境地帯で警戒がきびしいため、とちゅうでテントを張って泊まるのは禁止されています。 サンタンフ 1 までの八五キロメ 1 トルを今日中に走らなければなりません。風の強い砂 漠の道を自転車で進むのは時間がかかります。サンタンフ 1 に着いたときは日もくれて、 真っ暗になっていました。 サンタンフーの町には食堂も宿もありました。国境が開く八月には、中国人とモンゴ こっきよう せきひ ゆる

2. チベットの聖なる山へ

◆中国とモンゴルの国境を越える 中国とモンゴルの国境に引き返しました。五月に越えられなかった国境を越えるため とくべつきよか です。八月一〇日から二〇日間にわたって国境が開き、特別許可をもらった車と人だけ が国境を越えられます。 幸いばくもモンゴルまでいく許可を取ることができました。日程は決められていまし 「許可の期間は八月一〇日と一一日の二日間だけ。道路からはずれてはいけない けいびたい っ 国境警備隊に告げられました。そして、モンゴルに入国したら、すぐに帰ってこなけれ ばなりません。また、「中国の出国手続きをしたら、モンゴルの出入国のスタンプを押 さいにゆ、フこく がわ じむしょ してこないと再入国はできない」ともいいます。モンゴル側の出入国管理事務所は国境 から二五キロメートルのプルガスタイにあります。 てつじようもう 国境を越えて、鉄条網にそって三〇キロメ 1 トル移動して、ラクダの旅のゴ 1 ル地点 にたどりつきました。ここからプルガスタイまで二五キロメ 1 トル進んで、出人国のス おおいかくすばくたちの社会よりも、このほうが自然なのではないかと感じました。 いどう こっきようこ につてい 0 9.

3. チベットの聖なる山へ

かんよう に寛容なんです。もちろんいくつか条件はありますが、それさえ守れば異教徒でもモス クに入れます。 まず、身体を清めます。ただ身体を洗うのではなく、順番が決まっています。それに、 すみずみまで洗わなければなりません。耳の中まで洗うんですよ。身体を洗ったあとは、 モスクを出るまで、トイレにいくこともオナラをすることも許されません」 マハムトさんによると、モスクに人るにはイスラム教徒用の帽子も必要だそうです。 きしん ) といいます。そこで、 また、敬意をしめすために、モスクへなにか寄進したほうがいし ぼくし モスクのイマムに小さなじゅうたんを寄進しました。イマムとは、キリスト教の牧師の ぐうぞうすうはいしんじゃ みと ような役目の人です。とはいえ、イスラム教は偶像崇拝や信者の上下の差を認めていな せいてん いので、イマムはあくまでもイスラム教の聖典、コーランの伝え手にすぎないとされて います。じゅうたんを寄進すると、イマムはこころよく見学を許してくれました。 たず 金曜日は、週に一度の聖なる日です。この日にハミにあるモスクを訪ねると、一〇〇 〇人近い信者が集まっていました。モスクの正面にイマムがいます。けれども、イマム に向かって祈るのではなく、信者はイスラム教の聖地であるサウジアラビアのメッカが れいはいしゃ ある西の方角に向かって、一日に五回、祈りをささげます。礼拝者にはお年寄りが多く、 いの じようけん あら ゆる ぼうし いきよ、つと としょ

4. チベットの聖なる山へ

こうえきろ 中央アジアを横断し、東西の文化を結んだ交易路であったシルクロード。その名残り をとどめるのはバザール ( 市場 ) です。 ハミのバザールで目をひかれたのは四〇〇種類もの薬をならべている露店でした。漢 ぼうやく やくそうるい こうっ 方薬の本場、中国だけに、多くは薬草類ですが、ヘビなどの動物や、鉱物も薬として売 っています。二五年もここで露店をやっているというおばさんに聞くと、中国だけでな く、パキスタンやインドから国境を越えて運ばれてきたものも多いそうです。 しようじよう おばさんは、客の症状に合わせて薬も調合するといいます。ばくもいざというときの ふくつう ために、腹痛の薬を調合してもらいました。 やくわり 中国の漢方薬は、病気になったときの医薬品の役割だけではなく、料理に使われるこ こ、つ 0 えいようがく ともあります。日本もそうですが、西洋式の大学の医学部には、栄養学の講座がありま せん。西洋医学は栄養学を重視していないのです。これでは人間の健康を生活全体から かくぶんや 見ることはできません。それどころか、各分野の細分化が進み、ますますその傾向が強 くなっています。 ちが 露店にならぶさまざまな薬に、ばくが学んだ西洋医学と、東洋医学との違いをあらた めて感じました。 おうだん じゅうし こっきようこ けんこう ろてん 一け・いヤ」、つ かん 0

5. チベットの聖なる山へ

◆シルクロードの名残り よくじっ 翌日はサンタンフ 1 からパリクンへともど / りノ パリクンでマハムトさんの家に泊めても てんざんさんみやくとうたん らいました。翌一八日、天山山脈の東端、標 とうげ・ ど高二六〇〇メ 1 トルの峠を越えて ちが かいました。風景がゴビ砂漠とまったく違い なみき ます。ポプラ並木をくぐりぬけるような道を 走っていると、シルクロードに入ったと実感 ンします。 こうえき ル人の交易でにぎわうといいますが、いまは かんさん シ 1 ズンオフなので閑散としています。モン ゴル人以外の外国人などめったにやってこな けいさつかん いためか、宿に警察官がやってきて、しつこ しよくむしつもん く職務質問をしていきました。 9 は ] モンゴル国境からシルクロードへ

6. チベットの聖なる山へ

国境 サ冫タンフー ま 0 ウ , 0 チ △△バリクン 天山山月 自転車 タクラマカン少三 救粛 新疆ウイクル自治区 ゴ ) レムド チベット高原 チベット自治区 、一・、、タンクラ △カイラス山 アムド△ ( カーン・リン山 ) ナクチュカ 0 ラサ ロシア カザフスタン、、 - 、 モンコルに・ ネル」 : 罸い インド トウトウ遡 アラビア べンル・ 、山脈 リクンから西に向かい、カザフスタンを経由 して中東に向かうのが最短のル 1 トです。け れども今回は南に向かい、チベット高原とヒ 、。、ールまでい 2 、とい一つ日取大 マラヤを越えて、イノ の寄り道をすることにしました。いままでの 寄り道は人力にこだわらずにきましたが、今 回は自転車でいきます。 まず、 パリクンから中国・モンゴル国境に 向かいます。およそ一七〇キロメートルの道 のり、自転車を車につんで国境までいき、国 境からハリクンまでもどってくることにしま ひつよう とくべつきよか した。国境までは中国政府の特別許可が必要 けいびたい でした。許可はもらえたものの、国境警備隊 いんがいむしよう 員と外務省の係官が同行するといいます。 さっえい やまだかずや 山田和也さんたち四人のビデオ撮影チーム さいたん せいふ さいだい 7 は ] モンゴル国境からシルクロードへ

7. チベットの聖なる山へ

◆モンゴル・中国国境へ がわ 二〇〇〇年五月六日、モンゴルと中国の国境の、モンゴル側に立ちました。けれども ゆる ここで国境を越えることは許されませんでした。モンゴルと中国の国境を通行できるの は八月だけなのです。しかたなく、モンゴルの首都ウランバ 1 トルまでもどり、飛行機 で中国に人りました。 ベキン しんきよう けいゅ 北京から新彊ウイグル自治区のウルムチを経由して、モンゴル国境に近い町パリクン に着いたのは五月一五日でした。 ばんそうしゃ パリクンで自転車の旅の伴走者ふたりと合流しました。自転車が大好きな青年マ・ジ ドンさん ( 二七歳 ) と、ウイグル自治区にあるハミ出身のマハムト・ ハリクさん ( 四〇 どうぶっせいたいがく 歳 ) です。少数民族ウイグル人のマハムトさんは北海道大学大学院で動物生態学を学ぶ りゅうがくせい 留学生です。日本で同行者をさがしていて出会いました。 モンゴルと中国の国境からは、大きな寄り道をします。ゴ 1 ルのアフリカ大陸へはパ こ ツ」っ多ごレ小、つ モンゴル国境からシルクロードへ たいりく

8. チベットの聖なる山へ

人類がたどちた ・リング滝 イルクーック ロシア 人類の 生まれた ところ ウランにトル モンコ、、ル アルノヘール 乙△△ ハルン・ハキン・ウラー ゴ、ビる少道 中国 カサフスタン アしマトイ 0 ラルムチ ル ハミ バリクン、 国画画国。 タクラマカンる少 △圍圄ロ チベット高源 カイラス山 ャエベ、レスト山一ナクチュカ 0 ラサ .0 コルムド インタ″ / アリー ドル地方 ジョムソン、カトマンドヶ ガンジスノ〃 ネ / ヾール ~ ~ ~ ~ ・今回のルート ー回まあルート

9. チベットの聖なる山へ

だん ◆グレートジャーニーとは じんるい いどう グレートジャーニー。大いなる旅。人類が地球上を移動していった旅路を、イギリスの考 古学者、プライアン・フェイガンは、こう名づけました。 たんじよう 人類は、約五百万年前に、東アフリカで誕生したといわれています。そして百数十万年前 たいりく にアフリカ大陸から、ヨーロッパやアジアを経て、南北アメリカ大陸へと広がっていきまし さいなんたん た。アフリカ大陸からもっとも遠い南アメリカ大陸最南端にたどりついたのは、一万数千年 きより 前。その移動距離は五万キロにもおよびます。 ぎやく ばくは、この人類の旅路、グレートジャーニ 1 を逆ルートで、徒歩、カヤック、自転車と きやくりよくわんりよく いう、自分の脚力と腕力だけでたどりました。 一九九三年一二月、チリのナバリーノ島を出発、一九九七年には、南北アメリカ大陸縦 力いきよ、つ 断を終え、べ ーリング海峡をカヤックでわたり、ユ 1 ラシア大陸にたどりつきました。 がわ ロシア、モンゴルを横断し、今回は、まず中国側のシルクロ 1 ドに入り、そこから世界の じゅんれいさい 屋根といわれるチベット高原を自転車で走り、聖なる山カイラスの巡礼祭、さらにネパール おくち 奥地にある北ドルボの巡礼祭へと、三四〇〇メートルにおよぶ壮大な寄り道をはじめました。 そうだいよ じゅう

10. チベットの聖なる山へ

チ [ 3 ] ネ 、巛 カ サ マ ょ山ん フ ダ ポ う を と のう フ ル ト の 山 フ め ル ゑ ス ワ モ ン へ 祭 、巛 6 る 地 か ツ の ハ く 僧ぅ あとがき ゅ -2 」う