だから、羽月は気持ちを飲み込むのだ。いい や、と。自分が我慢すればい、 しや、と。 それは、つねに母や兄の顔色をうかがって暮らしてきたせいなのかもしれない。これ以上富 とうの 貴子が冷たくならないように。これ以上、塔埜に嫌われないように。と 目を伏せる羽月の側に、由和がやってきた。彼はテープルをはさんで彼女の向かいに座り、 話し始めた。 「片付けなければならない問題というのは、あなたのシシンのことなのです」 「あたしのシシン じこけんお 思いがけない言葉を聞き、羽月は目を丸くした。それから、自己嫌悪の情けなさを押し込め て、気持ちを切り替える。 シシンというのは、ククリと呼ばれる能力者と対になる能力者のことだったはずだ。 天望の一族には、思春期を過ぎる頃から〈香り〉をまとう者が現れるのだという。香り ひ 〈香気〉は潜在的な能力者の証で、惹きあう者に巡りあえた場合だけ、その者たちは〈ククリ とシシン〉という形を取ることが出来るのだ。 ( たしか、そんな話だった ) 羽月は前に受けた説明を思い出した。ククリを人形師、シシンを人形と考えると、その仕組 みはわかりやすいという。二人は一組となり、自我を失ったシシンがククリに操られ、力を振 るうのだ。 がまん
「この形でシシンを手放すことが危険なのはおわかりのはずです。だから、眠らせます。それ がシシンに対する、ククリの義務です」 つな シシンにとって、自分をこの世に繋ぐのは、ククリの声と〈香気〉のみなのだ。ククリがそ のシシンを必要ではないというのならば、その手で幕を引かなければならない。 ( ナナちゃんを殺す ? ) 悪い冗談にしか聞こえない。 どっちも選べない。 . だめ 「どうしても駄目と言うなら仕方がありません。あなたのお気持ちが決まるまで、ナナ工さん はこのままです」 由和はそう言って息をつき、メガネを外した。疲れているのだろう。目を拳で押した。 「紫子、馨を起こしてくれないか。このあとすぐに出かけたい」 頼まれた紫子は、「なんであたしが」と不服そうな顔をする。眼鏡をかけなおした由和は、 すました顔で言った。 「効果の問題だ」 影 つまり、由和が起こすよりも紫子の叱責の方が早いと言いたいのだ。 人 紫子は横を向き、鼻を鳴らした。抗議しないということは、仕方なしに引き受けようという のだろう。 しっせき
「そう : : なの。、じゃあ、もうひとつ。どっちも、怖かったからそうしたの」 ナナ工の時は殺されると感じて。 生駒の時は、彼を殺されると感じて。何とか助けたくて。 「それはそうでしようね。感情の爆発が、〈香気〉を、銀の爪を呼び覚ましますから」 羽月は黙ってうなずいた。そこは、よくわかっている。 イレギュラー 「でも。 どうしてナナ工なの ? 〈若桜木〉はあたしのことを計算外って言ったけど「そ れでも、、ナナはただのクラスメイトなのに。生駒みたいに、たとえ半分でも桜間の血を引いて いるのとは、違うでしよう ? 」 火事の瞬間は、事情がよく呑み込めないままにも、一刻を争って動いた。けれど、冷静に考 えれば、それはおかしい気がする。 由和は、彼女の問いにしばらく答えなかった。様々な可能性を考えているのだろうか。 紫子は、腕組みをしたままじっとしている。今回は、話の行く末を見極めるまでは、ロを出 さないつもりなのかもしれない。 み 「一般的なククリとシシンですと、シシンとなるべき者は「ククリの〈香気〉の前にひれ伏し の あらが はます。わたし自身はククリですから、理解るとは言い難いのですが、シシンにとっては抗えな おば 人 いものになるようです。溺れる、というのが近いでしようか」 「馨なら、猫とマタタビというでしようよ」 がた
一族はそのカで、人知れず殺しをしてきた。影の中で、標的さえ、自分が殺されるのだと気 づかないほど、ひそやかに。 なが 羽月は自分の右手を眺めた。右手の爪が銀色に変わるのは、ククリのしるしだという。 彼女はククリだ。だから当然、対になるべきシシンがいるのだと、今更ながらに気づいた。 「羽月さまは 0 ご自分のシシンがどなただかご存知ですか ? 」 「 ! それは、、、 訊ねられ、生駒だ、と答えようとして羽月は言葉に詰まった。それは違う。たしかに彼はシ シンとして死んだのだけれど、それはあの時彼女がねじ伏せたからだ。 ~ ククリになるということは、同時に、シシンを持っということだった。つまり、羽月はあの銀 の爪を手に入れた日に、シシンを持ったはずなのだ。 ( あたしの右手は、ずっと小さな頃から、銀色に変わっていた : : : ) だから、生駒はシシンではなかった。もし彼がシシンだったならば、幼い頃に自我をなくし 夢ていただろう。羽月しか見ず、羽月の言葉でしか動かない人形になっていたはず。 みならばと考えて、とたんに途方にくれた。記憶は、真っ白だった。 膨・「ーーー誰、ですか ? 」 あき 人 おそるおそる羽月は訊いた。呆れられるだろうと思い、案の定、由和はため息をついた。 「わかれば世話がない、というのが本音です「同時に、それが問題なんですよ」
「では羽月さまは、その時すでにククリだったのか」 由和の質問の意味を悟り、羽月も馨もはっとした。 銀の爪を羽月が持ったその日まで、紫子は彼女を連れてゆくはずだったのだ。そして、一一歳 までさかのばっても、まだその旅は終わらなかった。 途中で失敗しなければ、羽月はもっとさかのばったはずだった。もう一日か、一月か、一年 かはわからないけれど。 そうよ」 答えた紫子は、事実を認めたくないような、複雑な顔をしていた。 「発露だゅじゃなかったのよ。崖から落ちたこの子の爪は銀色だったわ。だから、助かったの でしようけれど」 「その時は、シシンが機能していたというのか ? 」 夢「と思うわ。これは推測だけれど。わたしは最後まで見なかったし、羽月が助かったことから 判断しているにすぎないけれど」 マジ ? 」 膨「二歳でククリ。 人馨がつぶやく。 はつろ 「発露だけだって、普通じゃないってのに ? 俺、そんなの聞いたことないそ」
「どうして ? 」 「どうして」 おうむ 由和が鸚鵡返しにする。彼は苦笑し、説明する道筋を見つけようとするかのように、間を置 「そう、ですね。結論から言えば、このままだと羽月さまのシシンは暴走する危険性があるか らです」 「そうなの ? 」 何を言われてもびんとこない。対になるべきシシンがいる、というのは理解できても、どう も実感として迫ってこないのだ。見たことも、使ったこともないものの話をしているのだか ら、無理もなかった。 「大事なんですよ」 一族の中で育った由和は、淡々としている羽月がもどかしいようだった。ため息をつく。 「羽月さま。シシンは自我をなくすと、前にお話したことがありますよね」 「それで、自分のククリの声しか聞かなくなるんでしょ ? 」 「じゃあ、質問ね。そういう性格の〈シシン〉が、誰がククリかよくわからないまま、自我を 手放していたとしたら、どういうことになると思う ? 」 半開きだったドアの向こうからそんな声がし、部屋に行っていた紫子が現れた。何をしてい おおごと
わたしはわたしだと。 あなたはわたしの影だと。 あなたはわたしの中に棲むものなのだと。 『可能だと思うことです』 簡単に出来るものではなかった。羽月は、自分の中にあるいくつかの枠を取り払わなければ ならない。 意識すればするほど、体に力が入る。 眉根を寄せた気配が伝わるのか、ため息が聞こえた。これは恐らく遠王だ。同じククリだか つまず らこそ、彼女が何に躓いているのかを理解できるのだ。 かさっと、下草が鳴った。足音が羽月に近づいてくる。 ( 塔埜 ? ) ほとんど無意識にその名を浮かべ、すぐに違うと知った。わずかな風が〈香気〉を運ぶ。 呼応を起こさない程度のかすかなそれは、夏の嵐だった。遠王。 かんしよう 「塔埜、少し離れてろ。どのくらいで自分の干渉がなくなるか、わかるだろ ? ぎりぎりを保 て。迫の犬どもこ、、 冫しま嗅ぎ付けられたくない」 「わかった」 塔埜の気配が遠ざかる。十五年間羽月にしたがっていた彼だからこそ、ククリたちの能力に
たのか、ひどく疲れた顔をしている。 「結界をはっていたのよ。念には念をいれてね。迫、こちらはいいわ。いつでもどうぞ」 「わかった」 由和のうなずきに軽く仕草で返した紫子は、羽月に向き直った。 「どう ? 答えは ? 」 「ーーその、子供に教えるみたいなの、やめてください。イライラする」 顔を覗き込まれて、羽月は不機嫌に返した。いくら彼女が一族の外で育った無知な者だから といって、馬鹿にしてほしくない。 、、まうがいいかと思ったのだけれど」 「あら、ごめんなさい。少しでも、わかりしし。 「猫なで声だったら、理解できるってものじゃないでしよう」 「そうね。それで質問には ? 答えられないの ? 」 こ、り 夢カッとした羽月は顔を赤らめて、紫子をみあげた。 み「シシンが、自分のククリをよくわかってなかったらって言うんでしょ ? そうしたら」 膨そこまで言って、すっと背筋が冷えた。赤らんだ頬から、血の気が引く。 人「シシンが : ・ : ・ククリをわかってなかったら : : : 」 「わかった ? 」 か ほお
「やつは家系的にもそうだからな」 「家系 ? 」 「迫の家系は、意図的にシシンが多く生まれるようにされてるって、あんた知らないか。あそ あもう こは天望家のみに仕えるために、天望家から出るククリのシシンに、かなりの確率でなるね。 普通の適合者は遺伝子の似てる家族から出るもんだけど、やつらは、使われることを初めから 計算してるからな。進んでヘりくだりに行きたがる家系は、マゾだろ ? 」 「でも、由和さんはククリだけど : : : 」 迫の家が特定の能力を定着させるための交配を繰り返していたとしても、由和自身は、シシ ンではない。 羽月がそう言うと、遠王はロをつぐんだ。 そうか、おまえは知らないのか。というように。 「ヤツは狂ってる」 言い切る遠王に、羽月は眉根を寄せた。彼女にとっての由和は、決して狂人などではない。 み 不愉快さが伝わったのか、遠王が両眉を蠢かせた。それから、面白い遊びを提案するような の 影 顔つきになる。 人 「ヒントをやろうか ? 」 、うん」 う′」め
「シシンは自分を『人だと思わない』ので、人間には出来ないと思われている『限界』を超え ることができる。そんな〈カ〉としての『思うこと』は、自我を壊します」 「だから。だからシシンは : 「自我は力を制限します。無限の力を手に入れるために、引き換えにするんです」 やっと、羽月にはわかった。ククリとシシンがなぜ組になるのかを。 限界を超え意識の枠を外したシシンに、意志はない。力を使うには、何かをしようと『思わ かたまり なければ』ならない。力の塊であるシシンには、命令を与えなければならない。 ククリが、シシンの〈鎖〉となるのだ。この世につなぎとめ、暴走させて全てを無にするこ となく、目的にのみ、その力を使うために。 「われわれは〈香気〉にその鍵を求めました。それが長い時間を経て定着し、一族特有の力と なっただけです。もっと身近な、夢をかなえようと念じることと、はじまりは同じなんです」 ただ、その力があまりにも強大であるだけで。 み 「わかったーー」 の 影 羽月は上の空にうなずいた。震えが来ていた。 とら 人 「だから、シシンとして捉えることの出来たナナ工は、儀式を介せば一族のシシンのようにな れるって言うのね : : : 」 わく