ゆっくりと、彼女の中で何かが動き始めているのかもしれない。失われたシシンが呼び覚ま されようとしているのか。それとも。 もっと悪い何かが起ころうとしているのか 「馨くう : : : 」 空也って誰、という質問を、羽月は途中で呑み込んだ。暴いてはいけない水底を明かすよう な、冷たいものを胸の奥に感じ、名前を口にするのが怖くなったのだ。 「くう ? 」 「くう、空気悪いね。窓開けて欲しいなって」 「ああ」 ごまかしは効いたようで、馨が立ち上がる。冷たい冬の空気が、開けた窓から流れ込んだ。 暮れかけた道を、観光客らしい三人連れが歩いてゆく。ここは裏通りだが、近くに有名な寺 昼間のうちは、。 カイドブックとカメラを手にした観光 院がいくつかあるため、人通りは多い。 客を、かなり見かける。 「このクソ寒いのに、よく見る気になる」 なが 窓枠に肘をついた馨が、呆れたように表を眺めて言った。盆地の京都の冬は厳しい 「俺なんか、買い物だけだってうんざりだってのに」 「ごめん。代わってあげられるといいのにね」 あき
た。目を閉じ、耳をふさぎ、心を締め出そう。 気持ちを切りかえられるものがほしい。 塔埜は視線を店内に移した。なんでもいし 年配の女性の二人連れが、彼と同じようにガイドブックを見ている。それほど席は近くない しゃべ が、声高な話し声がここまで聞こえた。午後から乗る予定の観光バスの巡る、名所について喋 り散らしている。 きよみず 「でもあれでしよう、清水の舞台って、それほど高くないって」 「写真で見ると、絶壁みたいなのにねえ」 ひょうしぬ 「そうなのよ。あなた、拍子抜けするわよお」 ( 清水ね ) 塔埜はこちら側で、自分のガイドブックをめくってみた。彼女たちは話しつづけている。 「そういえば昨日、お寺が全焼したでしよう。住宅街のど真ん中ですって」 「いやだ恐い。例の放火でしよう ? これじゃおちおち観光も出来ないじゃない」 しや、あんたは大丈夫と、塔埜は内心思って笑いをこらえる。 夢大げさに身をよじる女性に、、 み こういう人は大抵まきこまれないものだ。 の 影 「それで、そのお寺の場所は ? まさか今日行く所の近く ? 」 しせんどう 人 「詩仙堂の側だって話だから、大丈夫よ」 ( 詩仙堂 )
・あどカき わたくしの特技に「小説に書いたことが、あとで我が身に降りかかってくる」という、あん まりありがたくないものがあります。なんでかってゆーと、わたしの書いているものは、主人 公がとんでもない目に遭っているか、とんでもない事件が起きているから、なんですが。 過去に階段から落ちたと書いた直後に、足にアザの見本市を作るような羽目になったり、例 は色々あります。実は今回も、それがありました。わたくし、もう少しで崖から落ちるところ でございました。あと半歩くらい、でしようかねえあれは。といっても、登山じゃないです 0 ゝ 0 しめきり 締切です。ええ。「この日を過ぎたら本が出ない」という、おっそろしいその日まで、脱稿 こうしてあとがきをお読み することのなかった「ひとかげ」でございます。いやー、もー いただいているということは、セーフだったわけですけれど。関係者の皆様を、みち連れに地 こうむ 獄に叩きこんでしまいました。有形無形の迷惑を被った方々。この場でお詫びとお礼を申し上 げます。一一度としません。ええ決して。だ 0 て作家に「労災」なんておりないもん ( 笑 ) って、マジのお詫びにオチつけると誠意がなくなるよな。ええと。このままだと、短いあと がきが全部「ごめんなさい」で終わってしまいそうなので、先に行かさしてもらいます。
羽月は混乱して首を振った。 「あたしじゃない。知らない」 「だったら、ほかの誰にこんな真似が出来るというの」 「わか、わかんない、わかんない ! 」 「いま、そんなこといってる場合かよ」 かば 庇うように間に入った馨を、紫子ははじくように睨めつけた。 「場合よ。この子がしたものなら、この子のシシンでしよう抑えられるのはククリの羽月 しかいないのよ ! 」 その言葉で、暴走するシシンの話を羽月は思い出した。はっとして、とっさにこの言葉が出 「待って、すぐ考える」 わからないなどと、言っている場合ではなかった。 背筋を冷たくして、必死に記憶をたぐる。生駒をねじ伏せたのは、恐怖からだ。目の前に死 のを突きつけられ、そこから逃れるためにあれをした。 影 ならば。ほかに、そんなことはなかっただろうか。感情の揺れ、爆発、引き金となりうるも 人 のは ? よみがえ あの日のことが、フィルムのコマのようにばらばらと甦る。その前の日には、まだナナ工は っ ) 0
「わかっております」 「あれを殺せるの ? 」 「はい」 「なぜ ? 」 訊ねられ、言葉が滑り出す。 「わたしは母の手により、十五年、影として縛り付けられて参りました。その鎖を断ち切りた ふくしゅう この人生に、復讐をーー」 鶸子の目が底光りする。 「許しましよう。離空に留まる間は、遠王と同じよう、わたしの家に部屋を。塔埜、おまえは いまから一族の者。わたしの息子」 むせるような花の香り。塔埜は目を閉じた。その時。 「お待ちください ! 」 上ずった女性の声が、遮るように響いた。右の上座の女性が、体の向きを変え、立ち上がら んばかりになっている。 さき 「塔埜が前の〈桜御前〉の息子であるならば、彼は桜間方の者。桜間の血を引く者の身の振り 方は〈桜御前〉が決めるものと、お忘れでございますか ? 」 桜間の者を勝手に臣下には出来ないという彼女に、塔埜から離れた鶸子は笑んで返した。 くさり
紫子に、羽月はかすかにうなずいた。 ( 大変なことになるーー ) かたまり シシンは、いわば力の塊なのだ。もともとその素質がなかったはすの生駒だって、羽月にね じ伏せられて、圧倒的な力を見せつけた。五人の刺客をたやすく葬った。 あれは羽月の命令があったから、刺客たちに向かった。けれど、あれがもし勝手に暴れまわ ったら ? 誰の制止も効かなかったとしたら ? おそ シシンは、吹き荒れる嵐となる。無差別に襲いかかる、狂える、さまよえるものに。 「姫ィさん、お茶で、 キッチンから聞いた馨に、羽月は上の空に返す。 無意識に、右手を左手で握り締めていた。生駒をシシン化した時の手ごたえが、そこに感覚 として刻み込まれている。あれが野放しになるならば。 「そうなったら、どうなるの ? 」 「そうならないように、今からするのよ。もしなったら、一巻の終わりね。理屈では、そのシ シンより強いククリが押さえ込めばいいのだけれど、あなたのシシンでしょ ? 不可能よ」 お手上げ、と肩をすくめる紫子に、怖くなった羽月は言った。 「わ、わかんないじゃない、そんなの」
他人の欲望を、一族は責めない。兄が弟を殺そうと、夫が妻を殺そうと。 ふち なぜなら、一族もまた支配するのは欲望だからだ。母は息子を自分の道具とし、娘を死の淵 に追いやろうとした。 そんな総領の治める一族に、塔埜は連なろうとしている。 ふくしゅう ふさわしい気がした。彼は母に自由を奪われ、いま、その復讐を妹にしようとしている。 男の顔に表れたものを、塔埜は知っていた。あのどす黒いもの。 欲望と憎しみ。 あれは彼の中に潜む気持ちそのものだ。 どんなに平凡に見える者のなかにも、あれは存在する。・そして一族を動かす。 塔埜を動かす 「退屈だな。出るぞ、塔埜」 ささや あくびをした遠王が、囁いてきた。聞いていた鶸子が、軽く振り向いた。 「行っていいわよ、塔埜。裏から出なさい」 塔埜は正座を解き、遠王について座敷から抜けた。 廊下を歩きながら、遠王は首を鳴らしている。 「あの男の気にあてられたか ? 」 たず 黙っている塔埜に、彼はそう訊ねてきた。
由和は、ライターだけしまった。火のついていない煙草をくわえた彼に、紫子は顔をしかめ た。細かい葉が床にこばれるかもしれないと考えただけでも、イライラする。 「シシンを見つける方法は、基本的にあれしかないわよ。引きずり出して、おまえのククリは こいつだと、首根っこ掴んで突きつけてやるしかね」 さっさと彼を追い出そうと、紫子は質問に答えた。 「これでいいでしょ ? あなたの知りたいことは」 「まだだ。あれしか方法がないというなら、今の羽月さまの状態では ? 」 「あなた、わたしを殺す気 ? 」 紫子は片眉を跳ね上げた。彼女が危険にさらされたのは、彼だって見ているはずだ。 「無理なんだな」 サークル 「どうしてもと言うなら、桜間の人間を最低でも五人は連れてきてちょうだい。環陣の中にい れでもしなければ、出来ないわ。そうでないなら、あの子の中の障壁をとりのそかなければ」 夢「障壁 ? 」 「封印といってもし 、いけれど。見たでしよう、あの子が叫ぶのを」 从由和がため急と共にうなずいた。 「羽月さまがククリとわかったときに、これも予想しておくべきだったな」 つか
114 比良盛経四郎と呼ばれた穏やかな顔の青年が、さらに訊いた。 まみ 「ではおまえは、われわれが追うべきあの方ーーーと見えてはいないのか ? 」 あの方というのは、羽月のことだろう。鶸子をはばかって、彼らは直接その名を口にするの を控えているようだった。 「すべては、終わっておりましたので」 その答えに、塔埜はおやと思った。それは正しくはない。たしかに事件の後ではあったが、 さこよしかず 遠王は羽月と彼女を守る迫由和たちとも言葉をかわしているではないか。 彼は、説明が面倒で言わなかったのだろうか。 「遠王。では、犯人は ? 」 鶸子が訊ねた。 「あれはシシンの仕業よ。あの娘を助けた者がいるはずだわ」 塔埜は、その言葉にかすかに目を瞠った。 しかく かたまり いこま 銀座で、赤沢たち五人の刺客を血まみれの塊に変えたのは羽月だ。彼女が生駒をカでねじ伏 せてシシン化し、男たちに向かわせたのだ。 だが、一族はそれを知らない。遠王もあれを目の当たりにするまでは、羽月は〈香気〉をま はつろ とう発露のみだと思っていたという。それが、そのまま信じられているのだ。 当然といえば当然の話だった。羽月がククリであることを、身をもって知った赤沢たちは死 こき
「参ったわね。予想外の伏兵よ、これは」 ことは、もっと簡単に済むはずだったのだ。羽月のシシンを突き止め、暴走を防ぎ、形とし て安定させる。 ーくばい 桜間が触媒役を果たせば、難しいことではない。紫子は〈若桜木〉だ。たとえここが一族の 力の弱まる土地だったとしても、それほどはかからない。 「羽月。あなた、自分の記憶の中に、離空でのあれはあったの ? 」 「ーーない。あたしが、自分で思い出せるのは、四歳の春からだから」 馨をそっと押しのけるようにして、羽月は顔を上げた。もう涙はにじんでいない。 羽月の最初の記憶は塔埜だ。窓の外に桜の散る季節に、塔埜が泣いていた。誰にも見られな いように隠れて泣いている塔埜を、羽月は彼から隠れるようにして、覗き見ていた 今から思えば、あれは富貴子の命令で就学を遅らせなければならなかった塔埜だ。六歳の 春、彼は同級生になるはずだった友人たちを一人で見送った。見送って、羽月の影となった。 じゃあ、何が嫌で何が怖いの 夢「四歳からしか覚えていないのは、まあ、普通のことよね。 みか、わからないわよね ? 」 羽月は暗闇で振り返るように、ちらりと自分の過去を見た。黒いものが追いかけてくる気が 人して、すぐに目をそらす。 「・ : : ・わからない」 なか