いや 馬鹿な子ね。そう言っているように聞こえた。塔埜は緋沙子の死に打ちのめされている。卑 おくびようもの しい臆病者だと、開き直ることが出来ずに。 「緋沙子と逃げて、連れ戻されて死んだ方が幸せだったという顔をしているわ、おまえ」 「そうかもしれません : ・・ : 」 ほほえ 塔埜は、みとめた。鶸子が微笑む。どこか聖母のように。 「いやな子」 くや くちびる 鶸子は、唇から笑みを消さずに言った。どこか悔しそうな、それでいて諦めたような声で。 「失礼します」 屋敷の女が、陶器でできたトレイをささげ持ってやって来た。トレイには茶器が載ってい る。鶸子が目で合図したのを見ると、彼がここへ来るまでに、持ってくるよう命じてあったよ にしきえ きん 女が腕を下げた。紫と黄金をふんだんに使い、錦絵のような細かな模様のかかれた、けれど きゅうす デザインはばってりと中国風の急須と茶碗が、用意されていた。トレイまで含めたセットなの だろう。模様が同じだ。 そそ 鶸子はトレイを彼女にささげ持たせたまま、茶碗をかえし、急須の茶を注いだ。後発酵の中 国茶に似た黒褐色のそれは、だがかすかに花のような甘い香りがした。 「落ち着くわ、おのみなさい」 ひさこ あきら の
( 〈若桜木〉、あたしの「封印」はシシンじゃないよ ) ゆかりこ 羽月は、駆けながら紫子に語りかけていた。 ( あたしの封印は「遠王」と「お母さん」だったんだよ ) 『あたしを過去に連れて行かないで ! お願い ! 』 きようと 京都のマンションで叫んだ一一 = ロ葉を、羽月は思い出す。当たり前だとつぶやいた。二つも封じ ていた記憶があれば、過去になんか遡りたくないに決まっている。 ともしびのような鶸子の〈香気〉が、羽月の記憶の蓋をこじ開ける。ふるい屋敷。あまり人 の出入りのない奥の院。天井のの絣。磨かれた、深い色の廊下。 ひとりでいる子供が見える。くすんだ色の服。まだ短い髪。子供は誰もいない部屋で、絶え ず誰かを探している。やがて足音がして現れる人は、彼女の求める人とは違う。 ぎけい あの子どもは羽月だ。探していたのは鶸子。儀恵ははじめからおまえを憎んでいたわけでは ないと言っていたけれど、半分しか正しくない。 憎まれてはいなかったけれど、愛されてもいなかった。それがーーー真実。 そうじ の鶸子にとって大事だったのは、兄。蒼司ただ一人。 ( お母さんは、蒼司を守ろうとする ) ひな 親鳥の巣から雛をかすめ取ろうとする狐か何かのように、羽月を扱うだろう。〈香気〉がそ う一一 = ロっている。 わかさき さかのば きつね ふた
かんしト - う も伝わった。特殊な力を諍り、ククリやシシンの力に決して干渉されないはずの〈桜間〉が、 髪をつかんでぐいと引かれるようなショックを覚えた。 たたみほこり ぐらついていた衝立がバタンと音を立てて倒れ、畳から埃が舞う。窓から差し込む血のよう うんも な赤いタ日が、それを雲母のようにきらめかせた。散って行くさまがよく見える。 儀恵は窓の外に目をやった。屋敷を囲む背の高い生け垣の上に、横長に切り取られた空があ る。雲は濃く赤く染められ、まるで炎になぶられているように見えた。 よちょうはら 予兆を孕むかのような、不思議な色だ。美しくもあった。 ( これが、最後の空だろうか ) 地震で崩れかけた部屋で、儀恵は思った。壊れたり倒れたりした調度品に囲まれ、何事もな かったように座っている儀恵は、髪一筋の乱れもない。何事もなかったような落ち着き払った くる 態度は、どこか異常だった。人が見れば「狂っている」と思うかもしれない。 儀恵は背筋を伸ばして正座していた。地上の混乱をよそにゆっくりと流れて形を変える雲 に、うずくような痛みを覚える。 ( 天よーー ) 彼女はロの中でつぶやく。時は満ちたのだ、と。 さくら′ぜ 「〈桜御前〉」 廊下に足音を響かせてやって来た世話係の女が、部屋をのぞくなりうわずった声を出す。儀
ひび 次の瞬間、凄まじい音が離空に響き渡った。蠢く森の北側から、光が吹きだし、里を囲むよ , つに走る。 窓から、輝きの輪が見えた。光は真昼のように森を照らし、地面に潜り込んだ。網の目のよ うに駆けめぐりながら、一点に集まってくる。 いただきいおり 中心にあるのは、奇岩だった。頂に庵が、離空院がある場所。 またた 岩の下に集まった光が、瞬く間に駆け上った。庵が粉々に砕け散り、それを追うように岩が 崩れ落ちる。 あとには光が残った。その光に答えるように、空から幾筋もの光がオーロラのように射し いなずま た。夜の闇を裂いて落ちた稲妻が、光のかたまりに突き刺さる。 キ一ギ」はし 夢 ぐん、と空気がゆがみ、光が解け合った。天に階がかかる み 巻き上げられた岩が、吸い込まれるように天に昇ってゆく。それを合図に、一枚、また一枚 の はと屋根がはがれはじめた。窓ガラスが抜け、壁が割れ、家具も人も浮かび上がる。 かわら 人 総領屋敷も例外ではなかった。ばらばらと瓦が取れる。本棚が倒れ、破れたページが舞い上 がる。一人、また一人とのばってゆく。 すさ 「空也 うごめ くだ もく
192 めずら 「権力は、一度握れば離したくないもんさ。わたしに言わせりや、おまえの父親の方が珍しい よ。生まれたときからかしすかれて育ったのに、可能ならばそれを放り出すつもりだったんだ からね」 儀恵はこともなげに説明してみせる。それは、鶸子は自分を押し通すためなら兄を殺すくら いやってのける、と言っているように羽月には聞こえた。きっと、その通りなのだろう。 わか 「とにかく。そんな時だったよ、おまえたちが空也かもしれないと判ったのは」 「正確には、おまえが二つになってすぐの時だ」 飛滝が初めて口を挟んだ。羽月が目を上げると、彼はうなずくような仕草をしてから話し始 めた。 「ある日、朝からおまえの姿が見えないことがあって。一人で遊んでいても、屋敷の敷地から さと いくにん 出るはすはないのに、どこにもいなくて、おれは幾人かに手伝わせて里へ下りた。あちこち探 つめ 銀色に」 して見つけたおまえは、あの森の側で倒れていた。抱き上げて、爪に気づいた。 「銀の爪はククリ。けれどおまえは二歳だよ。あんまりにも早すぎるんで、飛滝は驚いて、す 力いとう ぐにおまえをわたしのところへ連れてきた。それでシシンを探したんだが、該当者が出なくて ね。あの時飛滝には言わなかったが、びんときたよ。おまえが空也になるべき子なんだって」 めい 「その直後だった。姉上が、おまえを殺せとおれに命じたのは」 「それで、逃がしたの ? それであたしを逃がしたの ? 」
たく じったのだ。羽月の器にするために、体を奪われた高屋敷遠王。羽月を託され、捨てた一族の ために働かざるを得なくなった富貴子。その体に桜間の血が流れているため、羽月の影として とうの 暮らすことを命じられた塔埜。 そして何も知らずに育った羽月。自由を奪われた蒼司。彼らと関わったために、命を落とし た者たち。 彼らの苦しみを、儀恵は見ているだけだった。否、見て見ぬふりをしてきた。 それが〈桜御前〉のさだめなのだ。石のように感情を殺し、両目を見開き続ける。純潔と引 き換えに手に入れたカで結界を守り続け、恋をすることもなく、喜びも知らずひたすらに。 儀恵には出ていった富貴子の気持ちがわかる。次の〈桜御前〉になる者・〈若桜木〉として 育てられた富貴子は、幸せではなかった。地位を継ぐことは孤独と同じ意味を持つ。生まれて から死ぬまでの、長い長い孤独と。 誰も愛さず、誰にも触れず、自分の人生を他人事のように生き、見続けるのだ。〈時〉を。 夢「緋沙子に気を配ってあげるよう、みなに言っておくれ」 み長い沈黙のあと、儀恵は言った。たとえ一時でも、大切にしてやりたかった。おためごかし と言われても、それが彼女が緋沙子にしてやれるたったひとつのことだった。 : 、はあ」 女は消化不良の顔をして、それでもうなすいた。今の儀恵になにを訊ねても無駄だと判断し
り、一番つらかったのは 2 巻だったよなあ。はじめさ、背中が痛くなって「寝違え」だと思っ てたのさね。それとちょっと風邪気味だな、と。そしたらその痛みと熱はセットで、しかも昨 日の微熱は今日の℃ってくらい急上昇してくれて。 かんえん 余談ですが、わたくしこの時、瞬間的に肝炎系疑ってました。寄生虫とか。発病の直前に外 国の屋台で思い切りいろんなもんバクバク食ったから、なんかやばいことになったのかと。ぜ んぜん違ったけど。あ、今は普通に元気ですので、ご安心を。 さて。実はまだ脱稿直後でポーツとしてるんですが、中身のことにも少し触れましようか ね。「とある一族の、憎しみと憎しみと憎しみの物語」という設定のせいで、はじめから最後 はづき キャラ まで不幸続きだったヒロインの羽月嬢。うちの子で、ここまで徹底的にいじめられたヤツもい とうの あわ ないかも知れません。いじめ、といえばダブル主人公の塔埜もかーなーり哀れですが。たぶん がっしようぎみ 最後までヤなャツでしようと言ったとおりに、突っ走ったしな ( ちょっと合掌気味の「笑」 ) 。 最後なので明かすと、キャラ中最も書きやすかったのが塔埜くんです。逆にエラい大変だっ たのが、羽月。だって、この子モノローグ多いんだもん ! 悩まれると、話が進まないんだっ とてばさ。 あ あ、そうそうそう。シリ ーズを全部お読みの方で、章ごとのタイトルに気づいた方いらっし ゃいます ? デザインがもともと斜めでちょっと読みにくいでしようが、一文字ずつずらして きの