とがあるからな」 彼はその言葉が終わらないうちに、羽月を引き立てて歩き始めた。向かってくる遠王に かみなり 雷に打たれたように立ち尽くしていた桜間の女達がざわっいた。彼は屋敷へ上がろうとして 「遠王、まさか ! 」 「黙ってろ」 ふいに気づいて声を上げた羽月を、遠王は脅しつけた。顔色を変え、咄もうとする女達の前 に羽月を引きずり出す。 ヾアの大事な姫が死ぬそ」 「邪魔すると、バノ 彼女たちはいっせいに急をのんだ。だが、 翻。して駆け出した。 「動くんじゃねえ ! 」 遠王の一喝で、その場に縫い止められたように、彼女たちは止まった。振り向くことも出来 み ずにいる女達に、遠王は笑い声を上げた。 の 影 「本当に大事な姫らしいな、こいつは。そりゃあいし」 人 羽月はふたたび腕をきつく掴まれ、女たちを押しのける遠王に連れられて屋敷へ向かった。 すれ違うときに視線を走らせると、桜間の女たちは顔をこわばらせて彼らを見ていた。羽月と いっかっ おど うらはら おもわく 遠王の思惑とは裏腹に、道をあけることなく身を
背筋がそそけだった。なんだって ? 「おまえは、羽月の〈香気〉を、自分のものだと思いこみ、新しい体にしみこませた。だか ら、カが使える。ククリでもなく、シシンを持たずに」 飛滝が、カのゆるんだ遠王の腕を、背中に回した。 「空也でもないのに、シシンを持たず力を使う。それはなぜだ、遠王 ? 」 あり 彼は答えられなかった。蟻のようなちいさなざわめきが、足元からはいのばってくる。 「い , つな : : : 」 こんがん 遠王は懇願した。首をひねって、飛滝の顔を見上げた。 「それを一 = ロうな、言うな ! 」 「言うさ」 ちょうぜん 飛滝はにやりとした。この切り札があったからこそ、彼は超然としていたのだ。 「おまえの〈香気〉は羽月の残り香に過ぎない。おまえは影だ。十五年前に死ぬはずだった影 だ。俺は総領家の人間だ。影の還し方は知っている」 それがはったりなのか違うのか、考えるだけの余裕はなかった。遠王は、彼の中の恐怖を暴 かれ、それに捕らわれていた。 「遠王」 飛滝の声が響く。遠王の中の何かが、ざわりと動いた。命に従おうとするように。 かえ
「だから、それがまやかしだと言っている」 「なんだと ! 」 怒気のこもった声を上げると、飛滝ははっきりと笑った。 「おまえ。自分と羽月の〈香気〉が同質のものだと、思ったことはないか ? 」 「それが答えだ」 にわかに遠王は混乱した。たしかに〈香気〉は似ている。「夏の嵐」と「海を渡る風」。性質 ニュートラル のべクトルが反対を向いているが、もとはほば同じだ。いや、中性なものを、男生と女性に しいたろう。 振り分けたようだと言っても、 だが、それが ? それがなんたという ? げん 彼の混乱を見て取った飛滝が、言を継いだ。 「遠王。一つ訊きたい。おまえの〈香気〉は、はじめからそれか ? 」 「なんつ、 反射的に答えようとした遠王は、ハッと口をつぐんだ。何かが、記憶の中で引っかかった ( 俺の〈香気〉 ) うつわじま まだ遠王の体が遠王のものだった頃、現環島に暮らしていた頃。 こき メンズレディス
まわ 儀恵の顔の周りには、じわじわと血だまりが出来はじめていた。だが、激しい息づかいから も、即死するような致命傷は与えられていないとわかる。 「なぶり殺すつもりか」 飛滝の問いに、 遠王は片眉を上げることで答えた。動けない儀恵の上にかがみ込み、背中を 爪で刺し貫く。 その爪を突き立てたまま、彼は飛滝を見た。思わず飛滝は息をのむ。こんな遠王の表情は、 見たことがなかった。 「おまえは」 さつりく 彼を見据えた遠王が、ロを開いた。殺戮に酔うような、粘っく声色をしている。 「おまえは、羽月になってから切り刻んでやろう。その方が嬉しいだろう ? ん ? 」 遠王は言って、爪を一気に引き抜いた。アイスピックか何かのように、ふたたび突き刺すー 儀恵がのどを掻きむしる。三度目の腕が振り上げられたとき、飛滝はそれをつかんだ。ねじ 夢り上げる。 の手のひらにぬめりを感じ、本能的に吐き気がこみ上げた。こらえた飛滝は、遠王をねめつけ はる。見上げた遠王が、血まみれの飛滝の手に笑みを浮かべた。 「あんたも、これで終わりだ」 「そういうおまえは、ククリのままだな」
ても。 羽月の体は帰りたがっている。塗りかえた記憶の奥で、細胞がもとの主を呼んでいるのだ。 はが 飛滝が石段を駆け下りた。遠王が羽交い絞めにしている腕で、羽月ののどを絞め上げた。 「止まれよ。お姫さまの首を折るそ」 飛滝がたたらを踏む。その顔が悔しそうにゆがむのを見て、遠王は笑った。 「そうそう、いい子だ。しばらくそのままにしてろよ」 「羽月に少しでも傷をつけたら、おまえを殺す 怒気のこもった飛滝の低い声に、遠王は見下したような視線で答える。 「あんたが ? はつ」 あざけ 嘲りの声を上げ、遠王は羽月にだけ聞こえるように言った。 「そんな力もねえくせに。しかしご大層なことだ。俺がおまえとちょこっと喋ろうと思うだけ で、こおんなに人が出てきやがる」 : ここで、あたしを殺すつもりなの ? 」 「遠王、 み 羽月は訊いた。共鳴するように、庭木がざわりと揺れた。 の 影 「殺して欲しいか ? 」 人 耳たぶに、熱い息がかかる。遠王は油断なく飛滝たちに目を配りながら続けた。 「殺して、と言ったらそうしてやる」 たいそう しゃべ
210 羽月は青ざめた。彼は儀恵に復讐するつもりでいるー 「やめて、遠王 ! そんなことしたら ! 」 「黙ってろ ! 」 遠王を見上げた羽月は、胴を締め上げられて声を詰まらせた。逆上して飛びかかろうとする 飛滝に、遠王が銀の爪をちらっかせた。 おれ 「俺は別にいいんだぜ。羽月の顔に傷がっこうと、それが治らなかろうと」 「くつ」 飛滝が拳をさげた。彼の足を止めさせるには、それで充分だった。 遠王は羽月を横抱きにする形で石段を上がった。おうとした羽月は、足を滑らせて石段を 踏み外す。 「馬鹿が ! おとなしくしてろ ! 」 どなり飛ばした彼は、玉砂利を蹴散らして玄関にたどり着いた。わずかに開いていた格子戸 を腕で跳ねとばすように開けた。 「待っていたよ」 薄暗い上がりかまちに響いた声に、さすがの遠王もぎくりとして立ち止まった。白髪が目に 入り、羽月は思わず声をあげた。 さくら′ぜ 「〈桜御前〉Ⅱ」 ふくしゅう
羽月はのどを鳴らした。やはり、それが目的だった。遠王はそのために来たのだ。 「体を、取り戻したいのね」 「ああ。そのとおりだ。よくわかってらっしやる、お姫さま」 じゃま 現環島で、彼はあと少しというところで由和に邪魔された。だから、今度こそ。 胸元に焦げるようなうずきが生まれる。羽月はそれをやり過ごしながら、吐息を殺した。死 にたくないと思っているはずなのに、、いのどこかが歓迎している。いや、体がと言うべきだろ ( そんなこと考えてる場合じゃないのに、あたしーー ) 「おまえ、桜間で何やった ? こいつらに追われるなんて、あのババアでも殺したか ? 」 遠王のからかうようなささやきに、羽月は我に返った。殺す、という部分に反応すると、彼 はのどの奥で笑った。 「んなわけがねえわな。おまえにや、動機がねえ」 けれど俺にはある。そう一一 = ロうように、遠王は途中から口調を変えた。鼻の頭を羽月の頬に軽 くこすりつけ、彼女を離した。右手で羽月の二の腕を掴みなおす。 「 ! 遠王 ! 」 痛みに羽月が振り向くと、遠王はにやりとした。 「おまえとのお楽しみはあとだ。ちょうどいいチャンスだ。どのみち片づけるつもりだったこ つか ほお
あんど 女が安堵するのと同時に、遠王が激しく舌打ちした。 さくらま 「ちいつ。そうだよな、桜間のあんたにはククリの力は効かねえってわけか」 そう言うなり遠王が動いた。羽月を軽く突くようにして離れ、女に歩み寄ると首筋に手刀を 打ち込んだ。崩れる女に手を貸そうともせず、羽月のもとへ舞い戻る。 「ひっ」 「貴様 ! 」 みけん 羽月の小さな悲鳴を、屋敷から飛び出してきた女達の声がかき消す。眉間にしわを刻んだ遠 せつな のどもと 王が、刹那、羽月を羽交い絞めにした。銀の爪を、喉元に突きつける。 「うるさい」 おど ひたき 脅しに、女達がびたりと足を止めた。ようやく姿を現した飛滝が、門柱に手をかけて声を張 り上げた。 「高屋敷遠王 ! 」 羽月の頭にあごを置くようにして彼女を押さえている遠王が、舌を鳴らした。 「まあた、面倒なのが出てきやがった」 「何する気なの」 羽月は出来るだけのどを震わさないよう、ささやくように訊ねた。彼女はこの男を怖れてい る。けれど嫌いではない、嫌えない。幾度、引き出しをあけるように勝手に力を使われたとし
「穢したく、ねえしな」 よご ( 穢れ ? ) 死に立ち会わせること、だろうか。 遠王が、開け放したままの玄関から、羽月を外に追いやろうとした。 「おまえはちっと出てろ」 だめ、やめて。そんなことしないで ! 」 「ーー遠王 ! 「これは、おれのけじめだ。おまえとは関係ねえ」 「関係ある ! 関係あるでしようあたしはあんたの体を : : : 」 「奪われたのは俺だ。踏みにじられたのも俺だⅡ」 遠王は彼女を押し出そうとし、二人は玄関でもみあった。引き戸の桟に足をかけた羽月は、 儀恵に近づこうと必死だった。 「おばあちゃま ! 逃げて ! どうしてそこにいるのどうして黙って殺されようとしてる み 羽月にはわからない。理解できないー の 影 他人の体を取り上げてまで羽月を逃がそうと思った人が、なぜ自分を生かそうとしないのだ 人 ろう。遠王の怒りは当然だからその怒りを受けることが、罪の清算だと思っているから それとも岬 さん
だま 遠王は凍り付いた。必死に記憶をたどる。どうだっただろうか。いや、考えるな。騙される な。こいつは俺をはめようとしている。 「違っただろう ? 」 「おまえ : : : 」 遠王は声をかすれさせた。のどが干上がっている。 あせ 考えようとすればするほど焦り、記憶が遠くなってゆく。俺はどうだっただろう。何だった だろう。〈香気〉ははじめから「夏の嵐」か 「教えてやる」 飛滝はささやいた。 「おまえはあの時、殺される羽月の体に入ったな。あれのもとの体だ。その瞬間、腕を斬り落 きざ たましい とされ、魂に痛みを刻みつけた」 みずか そう。それは覚えている。だから遠王は、新しい体に移って、真っ先に自らの腕を傷つけた のだ。腕を斬り落とされた痛みと恐怖から、もう二度と、誰にもそんなことはさせないよう の 影 「わからないか、遠王。おまえは、おまえの魂に、羽月の体のパターンを刻んだのだ。羽月の 人 腕の痛み。羽月の〈香気〉」