いざ勝負になった場合、どちらのほうが胆力があるかな」ということになります。 朝鮮民主主義人民共和国 ( 北朝鮮 ) を巡る諸問題についても、もっと冷静に外交戦略を組み立て る必要がある一九六〇年代、日本政府は在日朝鮮人の北朝鮮への帰国に本格的に協力していまし た。その後も北朝鮮と日本の往来も結構あったんです。反北朝鮮感情が急速に勃興し、定着し、ナ ショナリズムがネックになって、政治工 リートの思惑通りに対北朝鮮外交が展開できないという現 実をアンダーソンの「想像の共同体 . 仮説では説得力をもって説明することができない。 白井アンダーソンのナショナリズム概念は、あまりに操作的な概念であると。 佐藤そうです。教科書的整理になりますが、ナ、ンヨナリズムに関しては、道具主義と原初主義と いう考え方がある、アンダーソンの「想像の共同体」仮説は、極端な道具主義に近いと思うんです リのモデルになるケードウー アンダーソンの仮説をもっと純化していくとエリ・ケードウー 『ナショナリズム』という本を書いた人で、シリアからアメリカに移住した学者です。この人の考 えは、マニュピュレートして人為的にナショナリズムができるという構成になります。こういう極 端な道具主義は、ナショナリズム神話を崩すときには大きな力を発揮するのだけれど、逆にナショ の操作によって崩すことがほば不可能であるということを ナリズムという創られた神話がエリト。 うまく説明できません。 丿かいう・よ、つな人為的にナショナリズムを創ることが可能 私自身は、アンダーソンやケードウー という仮説自体がほとんど成り立たないのではないかと考えているのですが、この点については印 184
して、フイヒテが、私は自分たちの民族が間違いを犯す場合には、自分だけ正しくあるよりも同胞 と過ちを犯すほうを選ぶと言いました。これは病理現象です。死者との連帯という発想も一種の病 理現象でしよう。結局、我々は何らかの病気にかかっているので、病気から完全に逃れることはで きないのだと思います。だからどういう病気になるかが問題なのだと思います。できるだけ他者に 危害を加えない比較的ましな病気になるしかない。それぐらいしかないと思う ( 笑 ) 。 私のかかっているキリスト教という病気は、他者に危害を加えることがときどきある。私がかか っているもう一つの病気であるナショナリズムも他者に危害を加える危険な病気です。だからその 危険性をできるだけ、自己の利害得失から切り離して認識しておくことが必要と考えています。 白井ナショナリズムとパトリオティズムを分ける必要があるということを議論されていますが、 ナショナリズムは他者に迷惑をかける蓋然性があるとおっしやってますよね 佐藤 パトリオティズムも他者に危害を加える蓋然性があるけど、ナショナリズムよりはその危険 性が低いと考えています。もっとも何をナショナリズムとして、何をパトリオティズムとするかは、 定義の問題なんで気をつけないと言葉の遊びになります。 白井この二つはどれぐらい概念的に分けられるんだろうと思うんですが 佐藤概念的には分けられます。ナショナリズムのほうが操作の度合いが大きいと思います。とく ハトリオティズムは、物質的エスノグラフ ( 民族誌 ) に教育による操作の度合いが大きいと思う。 と結びついている。例えば食い物です。私はモスクワに勤務していた時期にロシア科学アカデミー 226
る。政府によってこんな目に遭わされていても、政府のおかしいところはおかしいと一一一一口うけれど、 よくやっているところは、たとえマスコミが非難しても、フェアに評価する ナショナリズムは自分の命を提供する覚悟がいると書かれていますが 佐藤だから怖いのです。本来自分の命ほど大切なものはないはすですが、人間は思想をもっ動物 だから、命を放棄する気構えができるとそう行動しちゃうんですね。だから、私はナショナリズム を理解するためには、動物行動学 ( 工ソロジー ) の知識が必要だと思うんです。動物もある時点ま で自分の命を捨てる行動をとります。例えば母猫が子猫を守るために自分の身を犠牲にする。しか しある時点になると、子猫を近づけなくなる。ところが、人間は思想的な操作によって、自分の命 を自分以外の者のために投げ出すことがいつでもできるようになった。ここが私は人間の文化で一 番重要なところだと思うんですね。そこから宗教や哲学、文学も生まれるし、国家、人間の共同体 が生まれる。人間が自分の個体がすべてではないんだという意識をもっからです。 これ自体は良いことでも悪いことでもないと思うんですよ。人間の特徴ですよね。ある意味では、 はこれが原罪だと思います。命を投げ出す気構えがある人は人の命を奪うことに対する抵抗が非常に も少なくなる。これは時代によってかたちは変わり、ある時は宗教戦争で、それが今ナショナリズム れという形で表れていると思うんですね。だからナショナリズムの強さ弱さ、気高いところ、グロテ そ スクなところ、それを突き放して見なくてはならない。それは自分自身のナショナリズムを含めて です
象論ではなく実証研究の問題ですので、乱暴な物言いは差し控えます。 排外主義のシンポル「ゴーマニズム宣一 = 巳 白井九〇年代まで、ナショナリズムはアカデミズムのレベルでは徹底的に批判されました。 佐藤その少し前、七〇年代まで、植民地の民族解放というコンテキスト以外でナショナリズムを 扱うのはいかがわしいという雰囲気がアカデミズムで支配的だったと思います。ベトナム・カンポ ジア戦争、中越戦争後、欧米の講壇マルクス主義者がナショナリズムの問題に取り組み、それが日 本に輪入されて、いま白井さんがおっしやった批判的な研究が八〇ー九〇年代に行われたのだと思 います。 白井不思議なのは、九〇年代に行われた作業というのは、大衆レベルでは二〇〇〇年代から見る とまるで無効であったのではないかということです。今の若い世代の人たちの多くは、ナチュラル 嬢に右傾化しているというか、彼らにとってナショナリズムはごく自然なものであるような気がしま 名す。日本のナショナリズムは比較的に言ってファナティックなものであるとは思いませんが、少な くとも、そこから冷静な距離をどこかで取ることかできるのがまともな市民である、とい、つよ、フな 家感覚が失われたということなのかなと思います。そうすると、九〇年代に相当説得力のある形で議 論がされたことにはど、フい、フ意味があったのだろ、フと思ってしまいます すく 佐藤九〇年代に行われた作業が無効であったとは思いません。その議論で掬い切れなかった部分 185
もう一つはナショナリズムに関する基礎研究というのは国際的に相当なされているんだけれども、 狭いアカデミズム以外に通用する言語でのものが少ない。ナショナリズムという現象についていっ たい何が起きているんだろうということについて考えると、そこには潜在的に読者はたくさんいる のだと思う。だから、重要なことは書き手が何かやっていく時は、自らの表現をマーケットに適合 させていくことをちゃんと考えなきゃいけないと思うんですね マルクス主義哲学者の廣松渉さんが「本は読まれなければインクのシミに過ぎない」とすごくシ ビアなことを言っていました。だから、読まれるような本を作らなくてま ) ナよ ) 。 ーし ( オしこれは書く仕 事をする人間は肝に銘じないといけないと思うんですよ。いくら出版不況といえど、丁寧な本を作 って売れば読者に響くと思う。どういった言葉が読者に伝わるのか、編集者と作家がよく話し合っ て本を作ることです。そして、本の内容をちゃんと説明すれば、書店のほうも読者に伝えられるよ うなコーナーを作ってくれるなり、説明を書いてくれる。そうすれば本は売れると思うんです。 保守の立場からマルクスを読む 近代経済学とマルクス経済学を比較すると現代のシステムを説明できるのは、むしろマルク ス経済学しゃないかとお書きになっていますけれども 佐藤そう思いますよ。インテリジェンスの世界の人は基本的なフレームとしてマルクス経済学を 援用することが多いです。例えば、ナショナリズム論のベネディクト・アンダーソンにしても、ア
る必要ばな - い・・ ( 笑 ) 。しかし、市民社会に足を置いている限りは、あの世を基準に生きることは駄 目でしようね。市民社会に足をかけている限り、本格的なアナーキストは出てこないと思います。 ー世、一・〕・足を・価直、観な一置い、一をい・を印・テロリストは強いんです。ここには明らかにアナーキズムが ある。あれこそ新しいアソシェーション >•< です。死者との連帯が入っているんですよ。 一橋大学の著名な社会学者だった上原専祿さんは奧さんの末期を看取るなかで、社会学は生きて いる者しか対象にしていないが、実は死んだ者が多いんだということに気づき、歴史学の再構成を 考える。死者との連帯を考えます。その成果の一端が『生者・死者ー日蓮認識への発想と視点』 ( 未 來社 ) にまとめられています。その後、お遍路をするんです。その途中で死ぬんですね。この研究 を敷衍すれば、イスラームのシャヒード ( 殉教者 ) とか、オウム真理教のボアの内在的論理がわか ります。死者との連帯という形で、死者をどっちに味方させるかで革命の帰趨が決まるということ になります。市民社会の常識では理解されないので、当時、上原先生はいったいどうなってしまっ 怪 妖たんだと批判されましたけど、重大な問題提起だったと思います。上原史学をイスラーム革命観と 名つなげると非常に面白いですよね。死者との連帯は金がかからないでしよう ( 笑 ) 。そういうもの いが可能であると信しさせればよいのですから。 家白井ナショナリズムも死者との連帯を可能にするものですよね。だからナショナリズムとは違う 回路でその連帯を可能にする経路を見つけないといけない。 佐藤そういうことです。要するに見えない人々と連帯するという発想です。ナショナリズムに関 225
二〇〇七年三月に私は、雑誌の対談で堀江貴文氏と二回会った。堀江氏は拙著『国家の罠』 ( 新潮社、二〇〇五年 ) と私と魚住昭さんの共著『ナショナリズムという迷宮』 ( 朝日新聞社、二 〇〇六年 ) をよく読んでいたので、話が円滑に進んだ。 堀江氏は、自らの見解と異なる他者の言説に耳を傾け、その内在的論理を的確に把握するこ とのできる頭のよい人物である。同時に物事の本質を瞬時にとらえる洞察力ももっている。私 が本稿で予測した通り、堀江氏は市場原理主義者であるとともに共和制論者である。要は国家 とかナショナリズムという観念が、堀江氏の波長に合わないのである。この感覚は、過去に私 がモスクワで会ったべレゾフスキー ( イギリスに亡命中 ) やホドルコフスキー ( シベリアで収 監 ) などのロシアの新興財界人 ( オリガルヒャ ) に似ている。極端に目立った市場原理主義者 は国家から嫉妬され、悲劇的運命をたどるのである
ユダヤ教にも共通していると考えてよい。貨幣と国家というのは偶像なんです。ですから絶対に拝 んではいけない。拝んではいけないということは、貨幣や国家が作りだした価値観に動かされては いけないとい、フことになります どの国にも「国家の物語」がある 白井そういう考えからすると、靖国神社というのは非常にやばいということになりませんか ? 国家崇拝という論理をもってしまっていますよね 佐藤靖国神社が偶像になったら、少なくともキリスト教徒にとってはやばいです。ただ私は、日 よしていない。 本の国家が靖国神社を通して我々キリスト教徒に偶像崇拝を強要しているという認識ー 重要なのは、ナショナリズムという病理現象が産業社会の普遍的流行になっている事実です。なん でナショナリズムが怖いかというと、国家のため、民族のために自分の命を投げ出すことができる からです。その理念のために自らの命を捨てる気構えができる思想は、宗教でも、革命思想でもと ても危険な性格を帯びます。なぜなら、人間という動物は、自分の命は非常に大切にする。それを 投げ捨てる気構えができている人は、他人の命を何とも思わなくなるからです。 啓蒙主義時代以降、宗教は人間の生き死にの原理ではなくなりつつある。このような世俗化した 世の中では、かっての宗教が専管的に担っていた超越性が国家に吸収されやすくなる。事実、私は 外交という国家の利益を体現するとの建前で行う仕事をしていたから、その辺が皮膚感覚として染 210
その当時は国民国家論が流行っていました。。 へネディクト・アンダーソンの議論や彼から影響を受 けた議論が沢山あって、国民国家のからくりというものがかなり暴かれたと思うんですね。それま で自然なものとして意識さえされていなかったものが、実際は構築されたものであるということが どんどん見えてきた。 佐藤アンダーソンをどう思いますか 白井印刷メディアというものが及ばした絶大な影響をクローズアップしたのは全面的に正しいん ですが、「想像のーという言葉遣いが弓つかかるんですよ。 佐藤私も同し引っかかりをもっています。アンダーソンの言説は、欧米講壇マルクス主義の伝統 を継承したネオ・マルクス主義で括ることができると思います。民族とか、国民国家とかは、エリ ートが暖かい椅子を維持するためにつくっていると、一種記号的なものになっちゃう。となるとエ リートと大衆という形での分節化が前提とされ、大衆はエリートによってマニュピュレート ( 操 作 ) されて、民族はできるという・ことになる。とりあえすここまでは認めてもいいでしよ、つ。しか し、問題はエリートがナショナリズムをどこまで操作できるかということです。中世の神学という よりも悪魔学において、悪魔を呼び出すことは比較的簡単なんです。問題は呼び出した後に悪魔を どうやって消去するかです。これは至難の業なんです。 ナショナリズムは明治国家形成過程において、当時の国家エリートは、シャーマンの親玉を近代 的な皇帝にしなくてはいけないと考え、「天皇制」の組み立てを考えました。ちなみに私は天皇制 180
この >< がアソシェーションとして最初に現れたのは普遍宗教だと思いま 現実にある場所ではない。 す」三二〇頁 ) 。より目に見える概念で言うならば、柄谷氏が好意をもっ協同組合運動と置き換え てもよいと思、つ。 共同体と共同体の間から生まれた商品が、何らかの偶然の機会に共同体内部に浸透して、形態が 実体をとらえたという宇野弘蔵の言説を系譜学的に再整理することに柄谷氏は関心をもち、「『資本 論』を見ると、それは一種の系譜学であり、資本主義経済の生成を論理的につかむ方法だと思うん です」 ( 一三一頁 ) と述べる。評者の理解では、柄谷氏はソ連型社会主義 ( 国家社会主義Ⅱステー ソーシャリズム ) の崩壊を資本主義の強さと受け止めた。ここから『資本論』を論理整合的に純化 して読んでいこうとする宇野弘蔵の中にあるスコラ学的魂に逆説的な意味で関心を強めた。 柄谷氏は「これまで、世界資本主義に対しては、国家あるいはネーションによって対抗した。一 か九三〇年代には、それはスターリニズムとファシズムという形をとりました。現在、それは不可能 綣です。今、世界資本主義に対抗する原理があるとしたら、普遍宗教になる。だから、いわゆる原理 ん主義が出てくるのだと思います。それは本当の対抗にはなりえないけれども、とりあえずそれしか をない。ナショナリズムは十分に機能しないからです。かって、文学はネーションの形成にとって、 はまたナショナリズムの核心として重要な役割を果たしたと思います。しかし、今グロー ョンに対して、文学はもう対抗する力をもたないでしよう。だから、宗教になる、 ( 一一七ー一一 Ⅱ 頁 ) と強調し、文学が力を失ったことは、世界資本主義に対抗する力を国民国家が失ったことの当