け憲法じゃないですか。関税自主権の獲得、治外法権の撤廃を憲法がない「野蛮国」には認めない という圧力があったから、仕方なく憲法を作ったわけでしよう。自分たちが作りたいと思ったわけ でない。 白井近代国家としての体裁を整えるためにやったにすぎぬということですね 佐藤そうです。日本国憲法を押しつけだというなら、大日本国憲法はそれ以上に押しつけだとい うことですよ。どこまでが内発的で、どこからが外発的かということを考えるのはあまり意味がな いことだと思います。私たちは洋服を着ているでしよう。これだって、内在的なのか外発的なのか わからない。 あえて議論を飛躍させますが、国家には生き残り本能がある。その本能が近代になって法治主義 の衣装を纏ったほうがよいと考えたのです。国家は生き残るために暴力を行使する。国家は本質的 に暴力性を帯びているんです。国家間で戦争が起きるという現実がある以上、主権国家は必ず軍隊 を持ちます。軍隊に自衛隊、赤軍、イスラーム革命防衛隊などどのような名称を付けるかは本質的 な問題ではありません。この点を見据えれば、憲法九条の改正論議はまったくピントがばけている と思、つ。 右派、国家主義陣営の論客で潮匡人さんという聡明な人がいます。潮さんは、憲法を改正せすに、 しかも一円の予算支出もせずに今すぐできる日本の防衛力増強のための三点セットがあると言って います。第一は、集団的自衛権に関する内閣法制局の解釈を変更することです。日本は集団的自衛 194
白井国家というものは土台は暴力裂置であるのに、どうしても文化的なものが包摂されてしまう とい、つ扱いにくさがありますよね 佐藤そうすると国家というものは柔らかいもの、温かいものだというところに取りこまれてしま う危険性がある。この関連では、萱野稔人さんの仕事が重要だと思います。『国家とは何か』 ( 以文 社 ) で、萱野さんは国家暴力装置説の一本で言説を展開している。こういう一本筋で言説を組み立 てていくことは、なかなか勇気がいるんですけれど、萱野さんの場合、成功している。それに萱野 国家論は面白い。私の乱暴な整理では、一七世紀から一八世紀のアナーキズムの復権だと思う。 白井国家を概念的に規定して行くと、最終的に暴力一辺倒になるというのは正しいことだと思い ます。 佐藤私が萱野国家論の暴力一本槍に抵抗を感しないのは、先のパラドックス、つまり私自身が国 家官僚であった関係で、国家権力の内在的論理を皮膚感覚でわかるからです。官僚は暴力的なんだ 妖けれどもそれを自覚していない。一般論として、暴力に関して、行使される側は嫌だけれど、行使 名する側の抵抗感は少ないんです。ですから、日常的に暴力を行使する側にいると国家が暴力だとい うことに極めて鈍感になります。それはジェンダー論で、男の側が自己の暴力に無自覚であること シノギ 家と似ているかもしれません。ただし、外交官という商売をしていると、外国国家の暴力をひしひし と感じることがある。この辺で他の官僚と較べると国家の暴力性に気づく機会は多いのかもしれま せん。 205
国家というものは悪である、暴力装置である。この大前提を崩した国家論はロクなものにはなら ないと思います。国家の暴力性を規制しなくてはならないのです。近代憲法は国家の暴力性を規制 するというべクトルで生まれ、日本国憲法もそれを継承しているのです。だからこの点でも国家の 暴力性を規制するという現行憲法の基本線を変更する必要はないと私は考えます。 白井戦後の日本がすっともっていた健全な感覚があるはすだと思うんですね。戦時中あれだけ国 家の暴力というものが無制限に行使されたから、国家の暴力というものはそもそもきわめて危険な ものなのだ、という感覚です 佐藤健全かどうかはともかく、戦前も異常で、戦後も異常で、異常なもののなかでどっちがより 少なく害がないかということだと私は考えます。国家の暴力性に対して、効果的に対抗できるのは 人間のコミュニケーション的行為、それも発話主体の性格について相互に認識できるような小規模 のコミュニケーション空間だと思う。顔が見える範囲が限度だと思う。それを超えると、対抗運動 にも国家に類似した暴力性が出てくると思います。 私は新自由主義に対する違和感がとても強いのですけれど、伝統的自由主義 ( オールドリべラリ ズム ) の愚行権はとても重要と考えます。各人は、他者や社会全体から見て、愚かな行動をする自 いいただし 由をもちます。愚行権の唯一の例外は他者危害排除の原則です。愚かなことをしても 他人の愚かなことも認めると。多少、迷惑をかけられてもそれは甘受する。ただ、唯一駄目なのは 他者に危害を加えることです。この他者危害の範囲をできるだけ狭めることが、国家の暴力性を暴 206
同体に発展するとはなかなか思わないんだけど ( 笑 ) 。より重要な方向は、アルカイダ型のイスラ ーム原理主義で、国家ではないが何らかの暴力装置、統治形態が既存の国民国家に拮抗する可能性 はある。結論から言えば、私はそれはロクなもんじゃないと思う。アルカイダ型のイスラーム帝国 が既存の日本国家よりも大多数の人々にとってより居心地のよくないものになる可能性が高いと思 結局人間は暴力から逃れられない。それでも暴力の廃絶を指向する運動は重要だし、必要だと思 う。同時に現実には暴力をどうやって、抑制するか、あるいは統制し、暴力の爆発を封し込めるこ とを考えなくてはならない。 白井国家をつぶしてもより悪いものしか出てこない。だから、アナーキーとアナーキズムは違う ものとして考えなければならないと思います。アナーキストであっても、本当にアナーキーなとこ ろに行けば、例えばソマリアみたいなアナーキー状態のところに行ったら絶対後悔することになる と思います。 佐藤しかし、アナーキーな状態を導かないアナーキズムというのはユートピア的だと思う。アナ ーキズムの中に秩序感覚があるというのが正統派アナーキストの主張なのだろうけども、私にはど うもそうは思えない。人間の中には抑えることのできない破壊的衝動があって、それを正面から見 据えて性悪論で政治を組み立てる必要があるという考えに私は傾いています。ちなみに、後悔しな いために一番よい方法は、あの世を信じることです。そうすればこの世の出来であれこれ後悔す 224
・弁護人にとっての他者理解 法律家と物語 検事であれ弁護士であれ、法律家は、事実の断片をつなぎあわせて自己に都合の良い物語を作っ ていく専門家だ。背景に強力な暴力装置つまり国家をもっている検察のほうが、説得力のある物語 をつくるのに圧倒的に有利な立場にある。それ故に、検察庁が起訴した事件のうち九九・九 % が有 罪になるという、旧ソ連の政治裁判ですら達成できなかった芸術的勝率を日本国家Ⅱ検察庁は担保 できるのだ。 この状況の中で冖田 示する有罪のスチール写真が虚像で、弁護側が提示する無罪のズヂ・いル写ごぞ・鬼像であると迫 本書を読んでわかるように、放火殺人事件の真相を明らかにするために事務所にガスポンべを持 ち込んで発火実験をする三三五ー二三九頁 ) などという執念は、職人根性なくしては不可能だ 他方、検察は検察で、別の事実 ( その中には国家権力を背景に捏造された事実も当然の如く含まれる ) の中から点と線を結び、スチール写真を提示していくのであろう。弁護側が作ることのできる写真 はせいぜい一一、三枚だ。これに対して、検察は権力を背景に何十枚、何百枚もスチール写真を提示
を何とか整理できないかなと現在考えています。近く『世界』 ( 岩波書店 ) の企画で柄谷先生とお 会いするので、率直な意見交換をしたいと考えています ( 『世界』二〇〇七年一月号に対談「国家・ナ ショナリズム・帝国主義」として掲載される ) 。 白井僕もその辺のところを考えてまして、マルクス主義法学者のパシュカーニスを最近読んでた んです。この人は、レーニンの『国家と革命』にインスピレーションを与えられて「法の死滅ーと いうことを構想して一世を風靡した挙句、スターリンの粛清によって消されてしまうわけですが、 彼の考えは岩田弘さんとかが展開していた考え ( 世界資本主義論 ) に近いものです。 要するに、前近代国家と近代国家というところで断絶に近い関係がある、つまり近代国家という のは暴力装置を独占するのだけれど経済過程には手を出さない、それが前近代国家と近代国家の絶 対的な違いだということを言っているのですね。近代国家は基本的に自分では収奪をしないという ことです。なぜかというと、収奪は資本主義社会では搾取という形で経済に全部委ねられているか 怪 妖らということであって、国家は何をするかというと搾取過程というのが上手くまわるように暴力装 名置を背景にして法体系を担保するということです。 佐藤ます定義として、『資本論』に即して搾取と収奪を分けましよう。搾取は労働者商品化とい 家う形をとって、資本家と労働者の交換の間で基本的には自由・平等の関係という擬制が成立する マルクスは『資本論』のなかで両者の権利が対等であるときは暴力が決定するというけれど、字野 弘蔵自身はマルクス自身が余計なことを言ってるという風に整理してますね。私は余計なこととは 16 う
行い、殺傷することによって、自国民の罪に対する贖罪とし、自国民と決別して闘いの戦列に加わ ることであっただろ、つ。 大森 ( 勝久 ) さんも、道庁爆破事件に自分の思想と思いを重ねたはすである。それ故に、死刑の 危険にさらされているにもかかわらす、法廷で、 「私は道庁爆破事件を支持するだけでなく、もしこれが行われていなければ私が行っていただろ と宣言したのである 私が想像していたとおり、大森さんは黒いタートルネックの似合うすっきりとした青年だった。 自分が冤罪で死刑になることを悲劇だとは思っておらす、自分の置かれた立場と、過去、日本によ って殺戮された人たちの命とを重ね合わせ、死刑に積極的な意義を見いだしていた。 まさに殉教者そのものである。私は率直に自分の意見を言い、大森さんと対立した。 「暴力を肯定した段階から思想的堕落が始まり、視野狭窄に陥る と言い、大森さんに自分の思想を話った。自分の立場を忘れて、冤罪で死刑にさらされている人 に議論を挑んでいたのだ。 途中でそのことに気づき、ロをつぐんだがすでに遅かった。私は基本的な部分で、大森さんの信 頼を得ることができなかった〉 ( 二五三ー二五四頁 ) このやりとりからわかるように安田氏はアナーキストではない。「暴力を肯定した段階から思想
思わないんです。これは東京地方検察庁特別捜査部の検事の取り調べで、検察官と被疑者は供述調 書の作成において「両者の権利が対等である」という擬制を体験して、こういうとき物事はそれぞ れの当事者の背後にある暴力によって決定されるということを実感して、考えが変わったのですが、 でもここはとりあえす字野さんの整理に従いましよう。国家の徴税というのは搾取ではなく、収奪 のメカニズムだと思います。国家というものがなくても資本主義システムがまわるということなら ば、徴税機能も官僚もいらなくなる。 白井パシュカーニスのような見方だと、等価交換という商品経済の原則を外的に支えるものが国 家であるとい、つことだと思います 佐藤とりあえずその言説に同意しておきましよう。ここでその言説を裏返して一一一口うと、外的に支 えられるもの、すなわち国家がないと資本主義システムは崩壊する。暴力装置によって裏打ちされ ていないと資本主義システムが崩壊することになります。国家は官僚を必要とする官僚を維持す るにはカネが必要だ。従って、白井さんの議論ですと徴税装置メカニズムというのは搾取という構 成のなかに収奪が埋め込まれているということになりますね。 白井パシュカーニスのような議論の構成だと、搾取のみが普遍的であって、国家の収奪的なモメ ントは内在的には引き出せなくなるということですね 佐藤このモデルを適用して平たく一一一一口う・と、公務員叩きはけしからんとい、つことになる。二つに公 務員を分ける必要があって、機能として資本家の手先であるキャリアと、圧倒的大多数の現業職の 166
で、とりあえず資本主義システムが循環するということになると、政治的には対抗革命が勝利する ことができる理論的根拠を明らかにすることになります。 いすれにせよ、過去に日本の左翼戦線で議論された国独資論をきちんと整理する必要がある。こ の過程で、優れた現代国家論はすでに論じ尽くされていると思います。だからこれを現在に復活さ せればよいのです。ただし、国独資論を左翼にしか通しない言語から今の一般の知的社会に流通す る言語に置き換えなくてはならないという「翻訳」という問題は残りますが 白井国家という言葉は広がりが大きいですね。それを意識して佐藤さんはこの言葉を使っていら っしやるのだなと思いますが 佐藤私が国家とか国体という言葉を意図的に使うのは、そのほうが暴力性やおどろおどろしさが でるからです。国体を「国柄とか、国家を「クニ」とかで表現すると、何か優しくて温かいもの のように見えるから危ないと思うのです。国家は戦争し、徴兵し、死刑にし、無理やり徴税すると いった類の暴力性が第一義的性格だと思う。 白井先にふれた藤原さんの本にしても、「国家のーと言っているのに、その内容は国家論という よりも民族論ですよね。 佐藤民族論でも、政治的民族論というよりは文化的民族論に近いと思います。藤原さんの考えで は、このような独特の文化が「国柄であり「クニ」なんです。しかし、このような立論は、一昔 前のヨーロッパでは標準的でした。うんと乱暴な表現をすれば、ヘーゲル型の文化国家論ですよ。 204
が官僚について語ることは、根源的にパラドックス、つまり「それじゃお前は何をしていたんだ」 という問いが戻ってきて、それが自らの存立基盤を衝き崩す危険があるので、私としては、徹底的 に考えた上で、言説を構築せざるを得なくなるんです。 最近、私は、官僚というのは一つの階級ではないのかと思い始めています。カール・マルクスが 『資本論』においてというよりも、正確には宇野弘蔵さんが原理論で純粋資本主義というモデルの 組み立てをするなかで、資本ー資本家、土地ー地主、労働力ー労働者という三大階級によって資本 主義システムの内在的論理を整合的に分析したんですが、ここでリカードの経済学原理に戻ってみ ましよ、フ。リカードでは課税が出てくるでしよう。 課税の原理というのは国家の暴力性を背景にし ないと説明できないんですよ マルクスは、資本主義システムにおいて、国家はなくしてもまわるという作業仮説の下でまず考 えてみようとして純粋な資本主義を想定した、という宇野弘蔵さんの整理は基本的に間違っていな いと思います。しかし、そのモデルのなかで抜け落ちてしまったのが国家です。その国家は抽象的 な意味での利益共同体であるのかとか、単なる暴力装置であるとかいうことで議論をしてもあまり 意味がないと私は考えます。国家という関係態を実体的に担保している階級、すなわち官僚という 階級の内在的論理を解明する作業が不可欠と私は考えています。 このヒントを私は柄谷行人さんの対談集『近代文学の終り』 ( インスクリプト、二〇〇五年 ) から 得ました。菅野稔人さんとの対談で、柄谷さんがボソっとそんなことを言っていました。このこと