した そう思いもした。けれど、それでも彼女は公を慕っていた。 ひとっき 。どんなに耐 「盛大な式を上げたにもかかわらず、わたくしは一月と持ちはしなかったわ : えようと思っても、ーー若かったのでしようね、着のみ着のままで飛び出してしまって : : : 」 りえん こうか いちど降嫁してしまった手前、離縁することもできずーー、あのとき、筮音は死ぬつもりだ った。どこか遠くでひっそりと。せめて公には迷惑のかからぬように。 ガケン いつのまにか、牙剣山脈にたどり 「きっと、ふらふらと街をさまよっていたんでしようね : ついて、方向もわからないまま歩きつづけて 幾日目、だったかしらね。透緒呼、おまえの父にあたる人に出逢ったのは : : : 」 ゃぶ 薮をかきわけて擦り切れ、靴も脱げ落ちて血まみれの足で。ホコリまみれで、けれど、涙だ けは涸れることのないひどい顔で。その人がいっ現れたのか、わからなかったけれど。とにか く彼は居た。つまずいて倒れた筮音を助け起こすために、手をさしのべて。 理由など訊かず、なにも口にせず、ただ腕をのばして。 いたわりのこもった優しい瞳。それがすべて。 こころが破裂するように筮音は泣き出し、気が遠くなっていくまで泣きつづけた。なにが悲 しいのか、あの人の優しさが嬉しいのか、もうわからないまま。
どういうことだよ亜羅写は尋ねたかったが、その質問をぶつける相手はいない。 ぐん。 透緒呼がいちだん持ち上がった。地上からはなれてゆく透緒呼に、すさまじい力がかかり、 亜羅写は引きずられて立て膝になった。 ぐ : : : ん。 「うつ」 浮力が亜羅写を中腰にさせた。 なんだかわからないが、このまま透緒呼を浮かせていいとは思えない。どうなるかわからな いのだ。 必死に押さえる。 亜羅写のつかむ透緒呼の肩が、彼のカで砕けそうだ。みし。嫌な音を聞いた気がした。 立ち上がらせられる。それでも足りなくて、亜羅写は背伸びになった。 幽 ばさり、透緒呼の黒髪が垂れ下がる。花のような香りが、彼の鼻をくすぐった。 姫 トオコ : 嵐 どきりとして、亜羅写は彼女を見上げ、すぐに背筋を寒くした。 しかめ面の透緒呼。頭を押さえてうずくまった姿勢の透緒呼。そのまま動こうとしない彼女 くだ せすじ
・『いない』・ 蒼主の眉が、わずかに動いた。しばしの休息を邪魔しないようにと気遣っているのだと、現 れない矢禅に、王は思っていたのだ、が。 「わかった」 ばそっと蒼主は言い、 それきり黙りこんだ。 幽 「は ? あの : : : 」 姫 意味をつかみそこねて突っ立っている彼女に、繰り返される。 嵐「かかった」 『早く出ていけ』と同義の口調に、侍女はあわてて頭をさげた。いそいで扉を閉め、退室す : クジびきに負けて、参りました。 「部屋は ? 」 お答えはございませんでした。それで、大変失礼とは存じておりま 「お呼びいたしましたが、、 ドレ 2 しゅ、つ : ご在室ではありませんでした」 したが、侍従が立ち入りましたけれど、 手分けして探しても見付からず、それで仕方なくクジびきが行われたのだ 9 とは、さすがに 言えない。
262 「はやるな」 ザカードは平然と彼に近づいた。怪我をしている九鷹など、ものの数ではないのだ。 「てめえ ! 」 じり。九鷹は後退した。彼にもわかっている。今、ザカードに攻撃をされたら、確実な死が 待っていることを。 「先日の礼をしにきた」 きようがく ザカードの言葉に彼は驚愕した。それは、素直な意味ではないはず ! ちょうしゅう 「物分かりがはやくてよい。そう。先日の散髪代。それを徴収にまいったまでだ」 言って、〈陽使〉は奇妙なポーズを取った。拳を握った左手を前方につきだし、右手を脇を しめて引く。 まるで、弓をつがえているよう 九鷹はザカードの右手の先に光がともるのを見て、身をひるがえそうとし 間に合わない 爪の先程のまぶしさが、みるみる大きくなってゆく。するどい形に変わり、矢となる。黒い 弓をつがえたザカードま、、 つよ、こそれを引きしばったー
210 蒼主がはねるように腰を浮かせた。 「獅伊菜ーー ? 」 サヤメ しにぞこない 「彩女の御老体に、言ったらしいんですよ。そのようなことを。かなり昔のことなので、もし かしたら、あの女帝も見たことがあるのではないのかと」 きつい発音に、蒼主がにやりとした。 「ずいぶんな言い方をするな。恨みでもあるのか ? 」 「ええ」 ふくみを、青年医師は流した。 そち 「あそこの政治は、貧民救済措置がなってませんから」 「そうか」 わらい、ふたたび話を戻す。 「それにしても、珍しいこともあるものだ。あの義兄が不確かな話を他人にするなど。 コウジャ あ、貴里我と彼とは、近しい血縁ではあるが」 おばおい たしか、伯母と甥だったように記憶している。『一王・四大公家』は血がいりまじり、入り 乱れているので、正確なところは本人にしかわからないが 「よほど気にかかるのだろうか、さすがに義理の娘のことでは。 ところで獅伊菜。おまえ はこの情報をどこから仕入れた ? 」
187 嵐が姫《幽幻篇》 あらが 抗って振り返る彼女の肩をつかみ、〈陽使〉は静かに言う。 「ザクーシャ、わたしが来た意味がわかるかな」 透緒呼はやみくもに首を振った : サカードの言葉など、聞いてはいない 「九鷹を、ザカード、あなたが九鷹を : ・ かかった。のどのひきつれが、喜ぶように動しオ 「その男の望むものを与えたまでだ」 「 ! なんですって」 ほんもう 「そなたを守るには戦うとな。だから、それを満足させてやった。本望であろうよ」 「あなたは ! 」 悲痛な声がほとばしる。透緒呼はいきおい良くザカードの手を振り払った。 「どうして九鷹に手を出したりなんてしたの ・ : どうしてそんなこと。ザカード、あなた が望むのは私じゃ とぎれる言葉。 ふいに目の前が熱くなる , め・んかく 視界が水をとおしたように、揺れてゆがんだ。輪郭をぐにやりと引き伸ばされたザカードの 顔が、固定され、映る。
235 嵐が姫《幽幻篇》 語句が正しくなくても、伝わる気持ちは伝わる。 「うん。あの、ね。最後まで投げ出さないで」 目を丸くする。晶雲が困ったように首を傾げた。 ふうらいし 「だから : ・ これは〈風来視〉なんだけれど : : : 僕にもすべてが見えるわけじゃないし、ま みじゅく だ未熟だから色々なものをつなぎ合わせてみて、 ええと」 ロ籠った弟に、透緒呼はたずねた。 「私に、なにか起きるらしいのね ? 」 『なにかある』のは日常茶事だと言えばそうだが、それよりも規模が少し大きいのだろう。 ・・ , つん」 きちんと表現することの出来ない自分がもどかしくて、晶雲は歯切れ悪くうなずいた。 「わかったわ、気をつける。なにがあっても最後まで投げないって約束するわ」 半信半疑のまま、透緒呼はとりあえず約束する。一生懸命気遣ってくれた、その気持ちが ・ : : , つれしかった。 「ありがとう。僕は、姉上が大好きだから」 二重の意味を込めて。『大好きだから、警告した』と『なにがあっても、大好きだから』と。 透緒呼はちいさく笑った。こころが、い っとき休まる :
医師は疑惑の視線をにこにこと受け止め、彼女の腕をひいて、座らせた。 「わかってます。あなたのからだが不調なのは。それを相談しに来てくださったんでしょ わか 理解っているなら、なんでまっとうな診察ができないのよツー そう怒鳴りたかったが、透緒呼はじっと抑えた。大声を上げれば、また頭痛がするに決まっ ている。 我慢。我慢、我慢。 そう、我慢だ。彼女には、医療方面でたよれるのは獅伊菜しかいないのだ。王宮主治医は、 きとく どうにも近寄りがたくて、重病の危篤にでもならないかぎり、お世話になりたくない。 えたい それなら、まだ獅伊菜の方がマシだ。得体は知れないけれど、透緒呼を蔑視はしないし、腕 は確からしいし : 押し黙った透緒呼に、獅伊菜はわずかに真面目になった。しつかりと視線を合わせる。 幽 「いつごろからなんです ? 頭痛、してますね ? それから貧血と眩暈。あとは、 姫やまい 病の症状を上げるとき、いちいち嬉しそうなのが気に障ったが、透緒呼はそれを無視するこ 嵐とにした。答える。 「今朝 : : : ううん、昨日の夜から ? とにかく、昨日の昼間はなんともなかったのよ。それは さわ
意識がなかった一冊だけ本を抜き取られた本棚のように、そこだけ、ばっかりと穴をあ けている。 「おまえのせいじゃねえ ! 」 彼女がパニックを起こす前に、九鷹は怒鳴った。 「俺のやり方がまたしても行き過ぎただけだ。たいしたケガじゃねえ、心配無用だ」 そう言いながらも、九鷹は腕をはずそうとしない。眼をかばうようにしているため、表情も わからず、頬に落ちている血の出所も、わからなかった : 「九鷹、私まさか、眼を : 「ちがう、切ったのは額だ ! 」 「でも ! 」 そういいながらも、腕をはずさないのはなぜ ? 私を、安心させるため 震えがきた。 幻私、本当に九鷹の眼を 姫人をカで傷つけるのは、なによりもなによりもーーーなによりも、してはいけないことだった 嵐 透緒呼はコメカミに爪を立てた。 一瞬、自分を見失った。何をしたか、わからなかった :
だび 矢禅の部屋にあった、蒼主の部屋にあったそれらのものが、荼毘にふされる。 それは『逝く』ことと同義。葬列とおなじ。 あのひとを失うのと、おなじ 「そうとしか、思えませんでした」 いっしゅん、あなたが消えたのかと、僕は はしった錯覚は、まだ胸に痛みとして残っている。 「火事は一夜の夢幻 : : : 」 まばろし 錯覚を忘れようと、からだの一部を失ったことから立ち直ろうと、あの言葉をのばらせてみ ャカ。 いまなら僕たちはわかりあい、助け合うことができるかも知れない なんども家を失ったあなたがわかるから。不安と戦うあなたがわかるから。 「火事は一夜の夢幻ーーー」 幽 姫つめたくかじかんだ、指先を拳のなかへ握る。 蒼主・ : 嵐 僕にはあの火事は、予言のようにしか見えなかったんです。『あなたを失う』という、その 「ヤ一一 = ロとしか る。