212 ◆ 焼け落ちた清和月後宮に、くすぶりつづけるひとすじの黒煙がのばっている。 あいかわらず、しとしとと、続く雨のなか、矢禅は、ガレキのなかに立ちつくしていた。 しずく ながいことそうしていたのだろう。前髪の先から、つめたい雫が時折落ちた。 うつむかせた視線は、先ほどからずっと同じ場所に固定されている。それでも決して物を見 ていない、焦点のずれた瞳に、溶け出して固まったガラスのなれのはてが映っていた。 ばんやりと、過去のことが思い出される。 〈でてゆけ〉 〈おまえなど出てゆけ ! 〉 〈・ーー出て行け ! 〉 『はやく波の穏やかな季節が来るといいですね』 言われたセリフに、ためいきがもれる。 今日はまだ、いちどもその姿を見ていない
181 嵐が姫《幽幻篇》 た そろえられた髪が、顔を打った。 「いやよ、トウザーシャ : つぶやかれた声が、かすれている。 もう二度とあんなことは嫌だ。だれかをこの手のなかで失ってしまうことは : だから。 透緒呼の部屋でなにかあったのは、嘘だ。私が駆けつけなければならないようなことは、 あれ 〈命〉を使わなければならない状況があるのは、嘘だ。 うそ そう。なかったこと。そして、もし事実だとしても、九鷹か亜羅写か、だれかが透緒呼を助 けてくれる。 「私が行くことないの、真梛」 自分に言い聞かせる。だれかが頷いてくれるのを待つように、彼女は首を振るのを少しやめ シンと静まった部屋に、かすかな風の動き。 それは、ただの空気の流れだったのかも知れない。けれど。 うなず アラシャ
67 嵐が姫《幽幻篇》 ふさわ たいぜんきひんせき 彩女大公・貴里我は、その地位に相応しい豪華な衣装に身をつつみ、泰然と貴賓席に座って 高齢の彼女を思っての配慮だったが、それがなくても、彼女は椅子を出させ、そこから動か なかったろう。 あいさっ 貴里我が足を運ばずとも、国王自らまでもが、彼女の元へ挨拶にやってくるのだから。 「お久しゅうございます」 さかずき くだけた調子で蒼主は、貴里我に挨拶をした。手にした杯には、ロ当たりのよい果実酒が 入っているのだろう。あまい香りがこばれる。 女大公は孫のような年の国王を見上げ、答えた。 「久しゅう。いちだんと風格が増したの、まだまだ、そなたの祖父王の域には達しはせぬが ことさらゆっくりと、古めかしい発音で言った貴里我に、蒼主はどのような返事をするべき か、一瞬迷った。 たしかに、彼の祖父に当たる人は、優雅な美貌の持ち主だった。政治的手段はともかくとし て、その気品だけはだれもが褒めたたえた。 ただし、彼の祖父は男色家としても名の知れた人だったのだ。 びばう
ゅうふく 彼女の家庭は、あまり裕福ではなかった。それどころか、時には食うや食わずにまで追い込 まれることもある。 夫は日雇いの労働者。自分は家々を回って洗濯物を引き受け、それを洗ってわずかな賃金を 得る洗濯女。 二人とも、稼ぎは知れていた。 「食べ盛りの息子がいるのにねえ。どうやって桶の代金を出すんだかさ」 つくろ ばやく。はき古して、繕いに繕った下衣が、湿って重たくなってきた。 霧雨に濡れていることが、どんどん彼女の気持ちを暗くしてゆく。 「いやだねえ」 こぶしで額をこすった。元気を出そう 自分の落ち込みと、この天気に向かって彼女は言い、 とするときに、彼女がよくやるクセである。 「雨風がしのげる家と、父ちゃんと息子がいて、なにを落ちこんでんだかさ。今日も元気で、 働ける。それで幸せってもんだよ ! 」 幽 言い聞かせるようにして、彼女は大股で歩きだした。 ほどう 姫 すっかり湿って茶色くよごれている、まき散らされた花びらや、歩道に色をにじませている かみふぶき 嵐紙吹雪のなれのはてを踏み越え、彼女はお得意さんの住む路地裏へと入ってゆく。 うすよごれた勝手口の扉を叩く前、彼女はふと空を見上げた。 かせ
のどを鳴らし、透緒呼はそれの出方を待った。冷静さが、いくらか戻りはじめている。 ゆっくりと、刀を人形に向けたまま体勢を起こす。ジャマな寝台のたれ幕を、左手でいきお いよく跳ね、立て膝になる。 〈くけけ〉 妙な笑い声が、人形からもれた。いままでにない人形の反応に、緊張が増す。 〈くけけけ・け〉 刀を握る手に、カがこもる。 〈ど、け . け . け .. ・け . け . け . け . け . け . け . け .. け . っ〉 すつ。 〈陽使人形〉が揺らいだ ! 】 ばうぜん 透緒呼は刀を振りかけ、・ : ・ : 呆然とした。 「消え・た ? 」 あとかた すぐそこにいたはずの少年人形は、跡形もない。存在を証明するものは、わずかな塵さえ も、残ってはいなかった : 「うそ 嘘ではない。わかっていても、言葉がこばれる。
トオコ 「ほら、小姫。起きるがよい 老貴婦人にうながされては、従うよりほかはない。 透緒呼はそろそろと布団から手をはずし、ゆっくりと身を起こし、 ばんー ばうぜん 片腕で体重をささえた不安定な格好のまま、透緒呼は呆然とした。炸裂音を立てた頬が、熱 を持ちはじめている。 たたか、れた ? 「恥を知りなさい 言葉が、彼女に平手打ちをくれた母によって、さえぎられる。 ごめんなさい : ばろっ、と涙がこばれてしまったことを、だれも責めることはできないだろう。 すきま おえっ 透緒呼はそれを引き金に、嗚咽しはじめた。おおった両手の指の隙間に、涙がにじんでゆ さくれつ
数十体の〈陽使人形〉が、一気に消し飛ぶ。 ばツ、と大量の煙が上がり、視界がさえぎられる。 九鷹は人形を全滅させ、煙がひいてゆくのを待とうと、武器をおろしかけ、 固まる。 「たいしたものだな」 すぐよこで、ザカードの声。 いつの間に、そばへ来ていたのかー かまえようと、腕が上がりかけ、つよい力に押さえ付けられた。〈陽使〉の指 : つめたい手は、関節の急所を知る掴み方をしている。 不覚 ! はぎし 歯軋りがこばれる。 しようあく ザカードは九鷹の自由を掌握したままで、ロをひらいた。 幽 「いま一度一一一一口う。わたしは戦いに来たのではない。おとなしくしていよ」 だれが」 嵐 拒否しながら、背筋に汗がながれた。いま、この男がひとひねりすれば、自分の腕の骨は砕 かれるだろう。 ギ、ノ、り・、と くだ
たんいんし 透緒呼 : : : 。彼が可愛がっている姪。『血族の異端因子』。 ゆだ 自分の力量のなさによって、その命を、他人の手に委ねること。それは、彼にとっては痛み でしかない : 「蒼主、入ります」 チャ。扉がひらき、矢禅が現れた。抱えるほど大量の書類を持っている。 : ところで、その前に 「これが今日の最終です。明日の朝までに、裁決を下してください。 一休みしますか ? お茶をいれますが」 どさ。目の前に書類を積み、すぐに離れていこうとする矢禅を、蒼主は引き止めた。腕をつ かんで。 「 : : : なんです ? 」 明らかに、迷惑がっている。 「 : : : 、透緒呼のこと、だが」 尋ねたかったことは、ほかにある。けれど、言い出せずに、蒼主は話しはじめた。 アラシャ 「あれのセラ日ニア名は、『ザクーシャ』だそうだな ? 亜羅写が言っていた。意味は、『ザ x x x 』に属する者だと 「それがなにか ? 」 離してくれ。そう言いたげな口調だった。 いのち
225 嵐が姫《幽幻篇》 自分を殺せるのなら、斧でめちやめちゃに殴り殺してしまいたい。 『ほら、すうぐおまえはつつばしる。なあんで、そんなに大ゲサに考えんだよ、馬鹿が。そん なのひとこと「ごめん」で済むだろうが』 九鷹がこの場にいたなら、きっとそう言ったにちがいない。が、その彼は面会謝絶にして獅 伊菜の管理下におかれる大怪我人となっていた。 「九鷹 : : : 」 こうなったいま、私はもう〈空牙衆〉にいるべきではないのかも知れない。 『 : : : おまえね』 だから私はもう、あのひとのもとへ行ったほうがいいのかも知れない。 『すっげえスッ飛んだ論理だな』 だって私は 「私は、九鷹を傷つけた。そして、私のせいで、ザカードに傷つけさせたⅡ」 声に出して言う。音として耳に入った言葉は、その重大さを透緒呼につきつける。 ワタシ クョウヲ、キズッケタ。 おの
・『〈月徒〉じゃない』・ それは遠回しな言い方だった。本当はもっと的を射た正確な一言葉を、彼らは言いたいにちが そう。彼女の力は、すでに人の域を越えてしまっている、と かも、知れない。 自分でも、それは認める。あれはもう、〈月徒〉の使うわざじゃな、 姫例えるならば、あの技はあのひとのものに似ている。指一本で爆風を巻き起こすことのでき る、『あなた』のものに。 嵐 「『ザカード』」 いきれてきた布団のなかに、ささやくように呼びかける。 「きっと、後の方だわ」 なぜか、透緒呼には後者だという気がしてならなかった。 理由などないけれど。見捨てられてしまっても当然のような気だけは、してしまう。 この部屋にも、外の噂は聞こえてくる。後宮を消滅させた透緒呼をなんと言っている、 まと