てくだ 手管に乗せられて、乳母がずるずると溶けだした。こんな甘えるような作戦に、彼女は本当 によわいのだ。母親のように。 「うん。僕がちょっとはかっこよく見えるようにね」 みずか また、子供らしく威張ってみせて晶雲は乳母を急かした。やおら老婦人は立ち上がり、自ら 衣装をだしにゆく。 「これ、だれぞ」 歩きながら、外に向かって侍女を呼びつけた。控えの間から、公子付の少女が走り出てく る。 「腰帯、青いのがいいな」 乳母の去った揺り椅子によじ登りながら、晶雲はそう声をかけた。侍女に指示を与えるあい だに、乳母がうなずく。 「探させましよう。お湯の支度ができましたなら、お呼びください」 「うん」 少年がにつこりすると同時に、乳母の背が視界から消えた。足音が遠くなるのを注意ぶかく 聞きながら、おおきく背をそらした。揺り椅子を、漕ぎはじめる。 キイ、キイ : きし 幼いころから子守歌がわりに聞いていた木の軋みに、乳母のにおいがふうわりとする。公子
むじやき 無邪気に公子は言いはった。なぜそれをしたいのか、と問われても、「したいからしたい」 と答える子供そのままに。 乳母は見透かそうとするように目を細めた。 ( この御子は もちろん彼女は信じていなかった。大切に育ててきたこの少年が、『ただの子供』などでな いことは、はなからわかっている。わざとらしいまでに『子供』を演じるなど、勘繰るな、と いうほうが無理だ 「勲章も必要でございますか ? 」 期待に満ちて返事を待っ『フリ』をする公子に、乳母はたずねた。その声はまじめで、本心 から聞いているように聞こえる。けれど、当然彼女も『老乳母』を演じているだけだった。そ だま んなにやすやすと騙されるものでもない。 「去年おあつらえになった、公太子の正装の上下がお必要でございますか ? 御腰に銀の剣は おさしになりますか ? 」 ほほえ のそこまでやったら、ただ、『子供の微笑ましい仮装』になる。彼の目的は、そんなことでは 影ないだろうと察しながら、乳母は意地悪を言っていた。 「ばば」 かんぐ
うれしい予感に、乳母はそわそわと身近のものを片づけだした。本当に透緒呼が戻ってきた セ手ネ のなら、筮音のいないいま、彼女が真っ先に迎えたい。 カ部屋を出たところで急ぎ足 ゆれる揺り椅子を残して、彼女は晶雲を追いかけはじめた。ま、 はち の侍女と鉢合わせする。 「これつ」 あやうくぶつかりそうになって、彼女は若い娘を叱咤した。少女は相手を確かめ、乳母と知 ってあわてて頭を下げる。 「申し訳ございません。急いでおりました。大公様が、公子様を、至急にとお呼びなのです」 「お嬢様が帰られたのか ? 」 〈風来視〉を思ってたずねると、侍女が目を丸くした。 「どうして : 、ご存じでらっしゃいました ? 透緒呼様と真梛様が、清和月の方々とお戻り になられましたのです」 「そうか」 セイレイケイヤク びしやりと当てた公子の〈精霊契約〉に、乳母は底知れないものを感じた。晶雲はまだ六 庭 の歳。それほどっよい〈契約〉があらわれる歳ではないのだ。 影 やはり、士官学校に行かれたのは、正解でございましたのか : 幼いながら自分の意思で事を決めた晶雲に、乳母は敬意を表したい気持ちだった。同時に、 おさな しった
ししかな ? 」 「お湯の用意をしても、 背後に少年の声を聞いて、揺り椅子を漕ぎながら編み物をしていた乳母は顔を上げた。椅子 わき をとめ、毛糸を脇に退ける。そのあいだに、声の主の少年は彼女の正面に回ってきていた。 「公子様。お湯、でございますか ? 」 セイネソウシュトオコ 筮音、蒼主、透緒呼と三人を育て上げ、これが最後のおっとめと思っている彼女は、その最 ショウウン きゅうきょ けげん カイザ エンゲットウ 後の主人である少年ーー晶雲に怪訝にたずね返した。界座大公の命令で急遽、〈偃月島〉か ら呼び戻された彼は、乳母が手がけた前の三人よりよほど手をわずらわせない代わりに、よく 行動が理解できない。 よくそう 「そう、お湯。湯浴みって意味で。ねえ、浴槽にお湯を張らせていし じじよ の「湯浴みでございますか。ええ、ええ。いちいち断らずにも、すぐにも侍女をお呼びしましょ これ、だれかあれ」 昔の王宮風に侍女を呼びつけ、乳母は晶雲の代わりに命じる。こんな昼間に、さっきまでお 第一章螺旋の樹の影
グウガシュウ 、っせいに老婦人を見る。 ようにしていた〈空牙衆〉が、し ゲット これ、お茶の支度は」 「清和月の ^ 月徒〉様ですね。ようこそいらっしゃいました。 側の侍女に、後半を耳打ちする。迎えた側としてかしこまっていた女性のひとりが、『もう やっている』と、控えめなめくばせで答えた。 「お嬢様、このばばは心配いたしました。後宮が焼け落ちたと知らされてから、ご消息が知れ ませんで。姫様も本当にお心をいためてございました」 胸に手を当てて、乳母はため息のようにそうもらした。責めているのではなくて、彼女が無 事でうれしいのだ。 後宮ガ焼ケ落チタ。 そのことばに透緒呼はかすかに眉をゆがめた。ずいぶん前の事に思えるその原因は自分。け ほほえ かんしようひた れど、感傷に浸るよりも先に、乳母に微笑んでみせる。 「ごめんなさい、ばあや。あとで、お茶をいっしょに飲んで。いま父上に呼ばれているの。私 は〈月徒〉でしよう。こんな時期だから : : : 」 後半を濁してごまかす。乳母の気持ちを傷つけるような言い方になっていないことを願いな 庭 のがら、けれど、半分透緒呼の心は飛んでいた。 影 せっしよう サヤメ 『彩女領に大反乱が起こって、未だに清和月王が、摂政殿とともに : まゆ
ほおづえ ショウウン あわ 窓際に頬杖をついていた晶雲がふいに走りだし、乳母は慌てて声をかけた。 「公子様 ? 」 かっか 「すぐ帰ってくる。閣下からお呼びがあったら、姉上たちとともに参りますと伝えておい じじよ まくし立てるように行って、少年は部屋からかけだしていった。すぐに、廊下から侍女たち の驚く声が聞こえだす。 「 : : : 姉上 ? 」 めぐ 透緒呼嬢様のことだろうか、と乳母は考えを巡らせた。清和月宮炎上とともにどこかへ行っ たきり、その行方が知れない、彼女の『娘』のひとりだ。 「帰ってきなさいますのか ? 」 晶雲が〈風来視〉であることは、知っている。それで、帰還がわかったのだろうか ? そうなのだろうか ? まだ、大陸の景色は晴れたままだった。 ◆
「わかっているわ。行きましようか」 三人の姉弟は目配せしあい、透緒呼たちは九鷹たちとも視線をかわした。 「行ってくるわ」 「適当に息抜きでもしていてね ? 欲しいものがあれば、その辺の人に言ってもらえればでて くるわよ」 につこりと真梛が一言葉をそえた。九鷹が冗談めかして片眉をあげる。 「 : : : それも手に入るわよ」 わきま おくめん 場所柄を弁えて言われなかった下品な冗談に、彼女は臆面もなく答えてみせる。そして、妺 たちの乳母の前を、軽く礼をしながら通りすぎた。よけるように、乳母が衣の裾を退く。 いやみ そのまま、厭味のようにつぶやいた。 「このたびは、本当におめでとう存じます」 ふっと真梛の肩がかしいだ。透緒呼もはっとする。 また : 『おめでとうございます、〈月の命〉』 それは唐木でも聞かれた一一 = ロ葉だった。彼女たちにしてみれば、真梛が「おめでたい」事なん て、何一つないのに。 「じゃ」 ッキミコト
その彼を育てたのが自分だということを、誇らしく思う。 「わかった。公子様は、姉様がたを迎えに降りています。ともに参りますと大公様にお伝えせ よとのことです」 「は ? 」 めんく 晶雲がすべてを察して次の指示を出していたことが、侍女は信じられなくて面食らった。乳 母の顔をまじまじと見つめてしまう。 「何ですか、これは公子様の指示ですよ」 びしやりと言うと、彼女は我に返ったように背筋をのばした。おじぎをし、大公の元へ戻っ てゆく。 若い侍女が、時々首をかしげながら行くのを、乳母は笑いを噛み殺して、歩きだしながら見 ていた。それは驚くはずだ。いちばん側にいる彼女でさえ、まだ信じられないのだから。 「お嬢様」 すそ 玄関先になっかしい『娘』の姿を見つけて、乳母は思わず声をあげた。服の裾をからげて、 足早に透緒呼に近づいてゆく。 「ばあや」 前髪をぐいっと後ろに引き上げていた透緒呼は、むずかしい顔をふと止めた。晶雲をかこむ
んなものが着たいのかって、ごちやごちや言ったよ。僕がうんざりしてくたびれちゃうまで ね」 だから、だましきれなくても、あとの成功率の高い子供のふりを選んだのだ。正攻法なん きげん しカ いっしゅう て、乳母の機嫌が悪かったら、「なにを馬鹿なことを」と一蹴されてしまうのだから。 図星だっただけに、今度は彼女が詰まる。 「ほらね」 うわめづか くすくすっと彼は笑い に上目遣いになっこ。 「ばばは僕のことをわかっているなら、好きにさせてよ。そんなに馬鹿なことはしないって、 何か思うところがあるんだろうなって、信じてくれるなら」 たた 畳みかけて光のような徴笑みを鏡にのせるようにはねとばした。赤子のときから晶雲を知っ あらが ている彼女が、抗いがたいように。 「はんとに、まあ ほおゆる ああ、お笑いなさったと小さいころから慈しんできた笑顔をぶつけられて、乳母は頬を緩ま 庭 のせて呆れ声をだした。そうしているうちにも、どんどん怒る気がなくなってゆく。 影「しかたのない公子様だこと : 。上等のお服だけでよろしいですね ? それから、湯浴みか ら上がられたころに、お父様に先触れをだしましようか ? 」 あき いつく
うら フウライシ 夏の発熱を境にして、強力になった〈風来視〉をすこしだけ彼は恨んだ。いつも、どこでも 未来が見えるわけではない。それなのに、気まぐれな風に運ばれて、ときたま、先が現れる。 いなずま 稲妻のように。 「姉上、姉様・・ : : 」 ほとんど無意識に、十歳上のふたりを呼んでいた。どちらも、晶雲にとっては大事な、やさ しい姉たちだ。 そのふたりは、もうすぐ帰ってくる。 ゆくえ うれ 行方が知れなくなってもう、半年近い。だから、それは彼にとっても界座家にとっても、嬉 しいことであるはすなのに。 僕は喜びたかったのに。 ひじ掛けを両手で掴み、倒れるように椅子に背をぶつける。はずみで、乳母が置いていった ぞうげ 編み物がおちた。象牙の編み針が、音をたてて床をすべり、糸から抜ける。 僕は喜びたかったのに , 真梛と透緒呼と、三人でこの界座でいつまでも幸せに暮らせることを、彼は望んだわけでは