幾度も繰り返された問い。 「ええ、そう」 幾度も繰り返された答え。ただし、言葉にカタチをしばる魔力はない すうはい 矢禅はおだやかな笑みを浮かべた。まるで骸を崇拝するような、その視線に溶かされてしま しそうな。 むらさき 笑いかけるのは、たやすいことだ。夢見るような眼差しも、やすい。紫の瞳に、ひとは簡 単におちてくれる。眠りにつくように。 ほお 効果を知っているからこそ、矢禅は骸を見つめた。彼が手を伸ばし、自分の頬に触れたくな るよ , つに。 「なんだその顔は ? 抱いてほしいか ? 」 あぎけ くっとのどを震わせて、公子が目を細めた。揶揄するような嘲るような口調で。 ろこっ そうやって、露骨な言葉を吐くひともめずらしいと、矢禅はなかば苦笑していた。〈誘導〉 にたいして、ここまで素直に反応するのも、彼だけだろう。 まど とりこ お 惑わされ、ひとは墜ちたいと願う。虜にして。くるわせて。世界から私をひきはなして。 から 踊りたい。躍らされたい。〈悪魔〉をまえにして人は願う。もつれた糸に絡みつかれ、永遠 に動けなくなる操り人形になりたいと。 じゅばく 呪縛のとける日など、こないことと信じて。 まなぎ 0
囲そう言って、殺された : 皐闍、おまえにはわかるか ? そのような気持ち、わかるか ? わたくしにはわからない。 いくとせ あれらの死から幾歳が経とうとも、わからない それは幸せなのかえ ? それをわからす、あれらを忘れることもできずに老いたわたしは、 愚かな女なのかえ : : : 」 夜の河のように、貴里我の言葉は続いた。こわれた楽器のように、繰り返し繰り返し、歪ん かな だ和音を奏でるように。 ろうば 皐闍は答えを返せずにいた。ただ、目の前で憑かれたように語りつづける老婆が、うす黒い 影に包まれているような、そこの知れない寒さだけを感じて。 それが予感になるとは、かすかにも思わずに。 ( 死 )
ししかな ? 」 「お湯の用意をしても、 背後に少年の声を聞いて、揺り椅子を漕ぎながら編み物をしていた乳母は顔を上げた。椅子 わき をとめ、毛糸を脇に退ける。そのあいだに、声の主の少年は彼女の正面に回ってきていた。 「公子様。お湯、でございますか ? 」 セイネソウシュトオコ 筮音、蒼主、透緒呼と三人を育て上げ、これが最後のおっとめと思っている彼女は、その最 ショウウン きゅうきょ けげん カイザ エンゲットウ 後の主人である少年ーー晶雲に怪訝にたずね返した。界座大公の命令で急遽、〈偃月島〉か ら呼び戻された彼は、乳母が手がけた前の三人よりよほど手をわずらわせない代わりに、よく 行動が理解できない。 よくそう 「そう、お湯。湯浴みって意味で。ねえ、浴槽にお湯を張らせていし じじよ の「湯浴みでございますか。ええ、ええ。いちいち断らずにも、すぐにも侍女をお呼びしましょ これ、だれかあれ」 昔の王宮風に侍女を呼びつけ、乳母は晶雲の代わりに命じる。こんな昼間に、さっきまでお 第一章螺旋の樹の影
もぶらさげたのだ : みせしめ、だった。数百年前の北家の暗黒政治時代には、よく行われたことだという。『逆 かくん らうものは、すべて吊るせ』。それが、家訓だったという。 かわ くしやりと、手のなかで巻物がつぶれた。汗ばんだ指にこすられて、乾ききらないインクが 帯をひきずる。 なんてことだ 戻ってきてはならなかったのだろうか。そんな問いが、ちらりと頭をかすめる。 こんなふうに出てくるべきではなかったのだろうか。わたしさえ彩女にいれば、これは防げ たのだろうか。 答えはすぐにそう出た。あの城にいたとしても、結果は変わらなかったかも知れない。蒼主 はずっと獅伊菜を見張っていられるわけではないのだ。獅伊菜は、蒼主に断ってなにかを進め 庭るわけではないのだ。 の 影 触れたこめかみは、うっすらと汗ばんでいた。 どう , - ーーー動くべきか : ほっけ あせ
おばえのある気配が、すぐそばでひとのカタチをとった。ひと筋の髪の毛を掴まれたよう びん、とこころが引っぱられる。 ャゼン ガイ みようにおとなしくなってしまった骸を置いて、矢禅は部屋をでようとした。バルコニーの とって 大窓をあけようと、把手に手をかける。 「なにするつもりだ」 まゆ 眉をあげた公子は、問う。けれどいつものようにほじくりだす気がないらしく、声はカタチ じみていた。 「外にでるんです」 どんな意をふくんで相手が問うたとしても、変わらないだろうロ調で、矢禅はみじかく答え 庭 瓏た。つ、と眼鏡のつるを鼻筋に押しつける。 影 それ以上の会話をつづける気はなく、彼は公子の言葉を待たずに外にでた。きっちりと大窓 あた を閉めなおして、辺りをうかがう。 第七章開かずの果実 つか
息をつめてのけ反ったときには、かちりと台がはまっていた。蒼主はとっくに両手をはな し、手のひらを彼に見せている。 「二、三日は触れるといたいそ。熱いかもしれないな。はずさないでおくように。汚れた手で 触ろうものなら、耳が腐って落ちるかも知れないからな」 してい ひとごとのように蒼主は言う。耳飾りを付ける習慣のある貴族の子弟なら、おそらく子ども のころにされるのと同じおどし文句を使って。 おどろきのあまり、亜羅写は涙目になっていた。恨めしげに、国王を見ている。 「行ってよし。 呼ばなくても、いつでも戻ってくるんだ。おまえの居場所は、この清和月 にあるんだからな。 いいな ? 」 つまりそれは、帰り道の手形。 蒼主の無茶の意味を理解し、亜羅写はくちびるを噛んだ。答えは出せないけれど、言っても らえた言葉は、うれしい 「行ってきます」 少年はすこしだけ笑った。それは、けして「さよなら」ではなかった。 くさ うら
た。もう。考えさえも回らない。 自分が、どういう状況にいるのか。 それすら、桂斗にはわからなかった。 あたし、ただの役者だったのに : かたかたと肩が震えだした。意志のちからでは止まらない。止められない。 なんで いたずら 問うても答えは出ない。だれが悪戯をすれば、こんなことが起きるのだろうか。 歯が鳴りはじめた。桂斗は全身を震わせながら、そろそろと顔を上げた。まっすぐに見つめ る紫万に、視線がぶつかる。 あわ 助けを求めたけれど、言葉にすることはできなかった。少女の瞳は、憐れみも困りもしない で彼女を見つめている。 つむ 庭ふつ。薔薇色のくちびるが動いた。言葉が紡ぎだされる。 曜「ひとつだけ言っておくけれど、逃げないほうがいいわ。あたし、そんなことになったら、あ ひも 影 なたの足に穴をあけて紐をとおして繚ってしまうわ」 ざんにん 口調は、残忍ではなかった。ただ、本当の気持ちだけを伝えていた。
246 笑えない冗談だ。あんなに憎しみをぶつけていた相手と、そう、簡単に運べるというのか ? この女は ? わたしと ぎよくぎ 「ねえ、もう逃れられませんわよ。わたくしたち、いずれ、形の上では同じ玉座に並ばる身。 そくしつ め けんめい 側室をおこうと、少年を愛でようと、成すべきことはお果たしになったほうが賢明ですわよ。 それも、はやいうちに」 「いまここでか ? 」 ふつ。腹のなかで何かが音を立てた。 「ありていに申し上げて、そういうことになりますわね」 すず 涼やかな笑い声。まるで、サロンにいるような。 蒼主は短刀にかまわず身を起こした。その勢いのまま、真梛の頬をちからまかせにたたく。 すばん , あっ、と刃が飛んだ。跳ね上がり、蒼主のあごをひとすじかすめる。 したた すぐに血が染みだした。滴るほどの傷ではない。けれど、痛みはおなじようにするどい なぐ ののし 「殴っても、けってもおなじだわ。あなたはもう決まっているのよ。私を何と罵ってもかまわ ないわ ! 家が大事か ? 国が大事か ? と問い詰めてくれて結構よ。ええ、と答えてあげ ほお
子をうかがっていたのだ。 透緒呼の行動は早すぎて、声をかけることもできなかった。 「〈それ〉と〈これ〉が、おなじかは知らんがな」 きびしい顔で、国王は巻物を投げ渡した。九鷹の不躾さに怒っているのではない。姪の行動 けねん と、これの一致を懸念していた。 んだよこれはよ」 けんのん かんはっ ざっと目を通し、九鷹は剣呑な表情になった。胸元を押さえた筮音が、間髪いれずに答え る。 「読んで字のとおりでしよう。冗談でも何でもありません」 どうすんだよ、おっさん」 「そんなこと訊いてるわけじゃねえよ、俺だってよ。 即答はできなかった。蒼主はまだとるべき方法に迷っている。 ああ、畜生 ! あんたの行動はともかくとして、透緒呼は彩女に 行きやがったぞ、これじゃあな。どうするよ、命がなけりや、俺は先回りして、透緒呼を捕ま えて戻ってくんだがな。命知らずのバカが」 最後は透緒呼に向けたものだ。あいつはどうして、獅伊菜が別人になったと理解しないのだ ろうか。以前のように諫めることが、どれほど危険かを、測ろうとしないのか , ぶしつけ
めちゃくちゃ 紫万は、こわくはなかった。突然に宴が目茶苦茶にされて、驚いても、恐れてはいない。 これが〈陽使 めずら 珍しいものでも見るように、青年を見つめる。流れる茶の髪。紫の瞳。本当だ、色がない ぎんせいしよく 自分のことを『色無し』と差別されながらも、〈陽使〉が本当に〈銀聖色〉を持たないとは 思ってもいなかった。ようやっと、実物を目にして納得する。 そうなんだ、 じじよ みような安心感を持ったとき、すうっと彼女は意識を手放した。膝の侍女に折り重なるよう くず に崩れてゆく。 シイナ、、 ザカードが、片手をあげていた。そのカで、広間すべてが眠りについたのだ。獅伊菜とひと りを抜かして。 「やりにくいですか、さすがに」 獅伊菜は、彼が現れたときと同じに、顔色を変えることはなかった。ただ、当たり前のこと が当たり前のように進んでいると、思っているかのように。 〈陽使〉の答えは一瞥だった。おや、とその姿に、獅伊菜が目を細める。 まばろし 「幻、ですか」 0 いちべっ 0 0