紫万 - みる会図書館


検索対象: 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙
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1. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

声がもうろうとかすれる少女に、声をかける。彼女は聞いているのかいないのか、たた、倒 くぎ れた獅伊菜に釘付けになっていた。 「タコ野郎。てめえはひとりで死にやがれ。そこのお嬢、あんたお家に帰ったほうがいいぜ。 この男はろくなんじゃねえ。もてあそばれねえうちに、逃げたほうがりこうだぜ」 ころ 目を見開いて、紫万が彼を見上げる。その間に、倒れた獅伊菜が動いていた。転がるように して棚に近づき、手を伸ばして引き出しをあけて中を探るー 「どこだよ、家は。連れてってやるから」 立ち上がらせようとさしのべた腕は、かるく少女に払われた。紫万は、九鷹の手をななめに 押さえたまま、たしかめるようにたすねた。 「あたしが、利用されているっての ? 」 口調が、自然に以前にもどる。その瞬間だけ、『貴婦人になること』から意識が離れてしま ったのだ。 庭真正面から聞かれて、九鷹は眉をあげた。自分と十歳ちかくちがってみえる彼女に、言葉と 曜して伝える勇気はなかった。幼い顔が、泣きだすのに恐れて。 こうてい 影 無言の表情を、紫万は肯定とみた。それは間違ってはいない。 知ってたわ」 たな

2. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

「そうか」 じじよ 獅伊菜が侍女らしい少女と話しているあいだにも、彼らはどんどん進んでいる。桂斗の混乱 など、意に介す風もなく。 紫万姫のところーー ? わけがわからない。一瞬感じた恐怖は消されるけれども、どうして、自分が大公の姫のとこ ろに引っぱられてゆくのだろう。 「ごきげんよう、奥様」 朗らかといってもいい張りのある声で、獅伊菜は紫万の前に現れた。大きさの合わない靴に 転びそうになりながら、桂斗はつづく ばらいろ 大公の背越しにみた紫万は、床に腹這いになっていた。濃い薔薇色の衣の裾が、不思議な形 つまさき つめ に広がっている。裾からのぞいた爪先に、おなじ薔薇色のちいさな爪が見える。 「獅伊菜様」 巻き毛のあいだから紫万が顔を上げる。あごの下に、きらびやかな絵巻物が見えた。部屋の しゅうしん すみまで一直線にころがされた絵は、彼女の執心している『お姫様物語』のようだった。 「どうしたの ? 」 予定にはなかったことらしく、本当に驚いているらしかった。身を起こすと、くるりと薔薇 色の衣をまわし、未来の夫に向き直った。 0

3. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

97 影瓏の庭 透緒呼たちがカウスⅡルーに帰還する半刻ほど前、彩女城はその瞬間、悲鳴に貫かれた。 「きゃあああっ」 うたげ 幾つもの叫び声が、紫万姫の宴の間に環を重ねる。突然の突風がすべてをなぎ倒したのだ。 そこに、ひとりの男が現れたのだ。紫の瞳の。茶の髪の。〈銀聖色〉を持たない男。 〈陽使〉 , その事実に、広間にいたあらかたの女性が気を失った。魔物を目前にしたことのない貴婦人 たちは、恐怖に耐えられる強さを持ってはいない。 膝の上にカョウが伏している。紫万はそれを夢のように思いながら目を開けていた。『紫万 様が怖がらなければ、わたしも大丈夫です』などと言ったのは、だれだったろうか。 ひぎ 第三章鋏 は、み ョウン たしかの絲 サヤメ まもの

4. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

霧のようにまとわりついて離れない血の匂いを意識しながら、獅伊菜は顔を仰いだ。こころ が、おどる。 さあ、どう来るのだろうか。 じじよ 訪問の内容に、検討はついていた。紫万の侍女にした女の、元の仲間を、彼が城門に吊るし たことに係わることだろう。 ふう 予想しながらも、獅伊菜は浮き立っていた。さて、紫万はどんな風にここに来るのだろう 泣いて ? わらって ? 怒り狂って ? つめほお ととととん、と爪で頬をたたく。ほとんど無意識にそうしたことに、獅伊菜は気づいて苦笑 ほんとうに、楽しみにしてしまっている。花嫁の支度の終わるのを待っている気分だった。 着飾って現れる最愛の婦人を、目にするまでに想像をかさねてしまうのに似ているだろう。多 分。 庭日差しとおなじくらい上機嫌で、彼は紫万を待った。その背景を考えたとき、他の人はそう 瓏は思えないだろうけれど。 影 九人の人が殺されて、彼女はやって来るのだから。樽いつばいの血が流されなければ、彼女 が来ることはないのだから。 きり たる あお

5. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

トトン 爪で扉をはじくような音がし、獅伊菜の顔がゆるんだ。夢見るような表情になる。うっとり と。 「紫万、どうぞ」 一瞬、炎が入って来たのではないかと、彼女たちは目を疑った。やわらかい襞の連なった真 紅の衣が、真っ先に焼きついたのだ。 「獅伊菜様。ーーあ」 クウガシュウ 透緒呼よりもまだいくつか幼い少女は、〈空牙衆〉を見つけて歩をとめた。 , 彼ひとりしかい おおまた ないと思っていたから大股で足早だった、というように、急に元気がなくなる。 うわめづか だれだろう、という上目遣いの視線が、透緒呼たちに注がれる。見たこともない、明らかに じじゅう とまど 侍従たちではないふたりに、 ) 力なり戸惑っているようだった。 ・ : あたし帰る」 庭「お客様なら、 曜「いいんですよ、姫。このふたりに、あなたを紹介しようと思っていたところですから」 獅伊菜の声はうれしそうに響く。彼女を見せびらかせるのが、楽しいとでも一言うように。 「おふたりとも、こちらがわたしの姫、紫万です。紫万、このふたりはわたしのもと同僚、狭 つめ おさな うたが ひだ

6. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

せる。 「つかれちゃった : : : 」 それは真実でもなく嘘でもなかった。言おうとしたことを出せずにごまかしたのと、目まぐ るしい事件にぐったりしたのと、半分すつで。 ふとん 「獅伊菜様、すこしお休みさせて。お布団。あたし、眠りたい」 あまえるように言ってみた。『知らなかった獅伊菜のこと』がいくつか増えたのだ。〈空牙 衆〉、界座大公の娘、利用している。 しくじら、ないよ , つに。 検討、しなければならない。 アタシヲ利用シティル : 「いいですよ。わたしの寝室でよければ、お連れしましよう」 言うなり、紫万を抱き上げる。今までだるそうにしていたのは、まるで嘘のようだった。 少年のころからっかっている寝台に、彼女を寝かしつけて布団をかける。 獅伊菜さまのにおい : 髪の香料に似たものを嗅いで、紫万は目を閉じた。ここで安心し だめ たら駄目、眠ってしまったら駄目。 考えなきや

7. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

る。 ンマひょうしぬ 実際、紫万は拍子抜けするくらい単純な物語ばかりを好んだ。不幸な王女が幸せになる話 や、貧しい少女が、じつは王女だった、というような。 物語の筋や心理描写などはどうでもいいようで、大げさなセリフやけばけばしい衣装に目を 輝かせている。 彼女たちの一座は、貴族相手に興行することはほとんど無い。まして、大公級のひとびとな ど、出会う機会もないのだ。貴族の少女、と言って『紫万』を基準にしてしまうのは、無理も ないことだった。 貴族などこの程度だ、と。簡単に成功することができるのだ、と。 「そうかなあ : 艶ばくろを軽くひっかき、少女は言葉を濁した。彼女は、楽なことを信用しないたちだっ た。うまいことほど、落とし穴が多いものだと思っている。 「あのお姫様だけ、じゃないのお ? 」 庭姫は娯楽に飢えていただけじゃないだろうか。芝居というものをほとんど見たことがないん 曜じゃないだろうか。 影 彼女たちの一座が、どんなに手を抜いても一流の芸だ、というならば、話は別だが、どう考 Ⅷえても、それほど贔屓はできない。 ′一らく ひいき

8. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

、ゆったりとした暮らし。獅伊菜は、そのつもりなのだろうか。〈空牙衆〉にいたときより も、表情が笑顔に満ちているのは、これがこころからの幸せ、だからなのだろうか。 るりつば 嘘の水をあふれそうにしている、瑠璃の壺なのか 「透緒呼帰るぞ」 大公を見つめている彼女を、九鷹は引き剥がすように腕をとった。そのまま、くるりと背を 向けて出ていこうとする。 「だって、くよ : : : 」 「だっても、なにもねえ。もう俺はごめんだね。こんなバカづらした男と、おんなじ空気で息 なんかできねえ」 「狭間殿、空はどこまでもつながっていますよ」 うるせえつ」 怒鳴りつけて、九鷹はつめよった。獅伊菜の胸元を掴みあげる。 「ひっ」 庭紫万が押し殺した悲鳴を上げる。座り込みそうになるのを、透緒呼はあわてて走り寄って支 瓏えた。 影 「だいじようぶ」 真紅の衣が薪の赤のようにちりちりと震える。肩を抱いてみて、紫万がほんとうに小さな女 まき つか

9. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

やがて、あきらかに趣の違う豪奢な扉を、獅伊菜は開けた。断りはしたけれど、返事は待 たずに。 にお はじめの一歩で、ふうわりといい匂いがした。香水。貴人の部屋だ , ど , っしょ , つ。 ちち いったいだれの前に連れてゆかれるのかと、桂斗は考えると縮みそうだった。香水の匂いだ けでは、男か女なのかもわからない。 いい子だから。 言われた一一 = ロ葉が、焦げたようにこころに残る。いま、褒められた意味にはとれなかった。放 り出される先は、大男のまえではないかという気がしてくる。 「たいこうさまっ」 必死の声は、けれど、若い女の声に打ち破られた。とっぜんの来訪をひどく驚いて、ひどく 喜んだ、華やかな声が花のように広がってしまったのだ。 「まあ ! ようこそお出でくださいました。紫万様はとてもお喜びになりますわ。さあ、 庭ま、お茶のお支度をさせますから ! 」 瓏紫万 影 「元気にしていますか、わたしの妃は ? 」 「ええ、それはもう。お贈りになられた巻物を、たいそうお気に召されて」 おもむき ごうしゃ きさき

10. 影曨の庭 : カウス=ルー大陸史・空の牙

「わかったわ。ありがとう獅伊菜様」 何がわかったというのだろう。紫万は桂斗の代わりに理由を問うてはくれなかった。それと も、貴婦人ともなれば、この会話で充分なのだろうか。 「うけてくれるね、姫」 「ええ。よろこんで」 「たいこうさまッ ! 」 桂斗の意志は、完全に無視されていた。知らない間に、 契約が成立する。だれも承知してな どいないのに、あたしは〈売られる〉 「それじゃあ、桂斗。そのうちまた、様子を見に来るから。よく、仕えてくださいね。わたし ゅうげ の妻となる婦人ですから。ーーー姫、今日はこれで。タ餉の席で、また逢いましよう」 「お帰りですか、大公さま」 そばに控える少女が、たまらなく残念そうだった。彼女はまだ、お茶の用意も終えていなか っこ。 「ごきげんよう、獅伊菜様。またね」 みが 紫万はあっさりとしたもので、ちいさな手を振る。その磨かれた爪には、ひとつひとつ、花 の模様が描かれていた。 獅伊菜がでてゆく。足音が完全に消えてしまわないうちに、桂斗は崩れるように膝を折っ ひぎ