逃げないで : 自分とおなじ気持ちを他人が持てるとは思わない。そう知っていても、告げたかった。耳を ふさがれても、言葉にして伝えたかった。 たいこう 祖母を恨んでいたのに、祖母の死のせいで大公にならざるをえなくなった獅伊菜。 キリガ たしかに、貴里我はひどいことをしたのだろう。獅伊菜を、何度も打ちのめしたのだろう。 でも獅伊菜、貴里我様、そんなに悪い人じゃないわ。 こころの内でつぶやく。 ひとつだけ、透緒呼は覚えていることがあった。まだずっと小さな頃、筮音に連れられて彩 女城に行ったことがある。何の用だったかは忘れてしまったけれど : : : 、座上から迎えた貴里 ョウシ 我は、まっすぐ彼女を見ていた。〈陽使〉の子だ、不義の子だと噂され、無視されたり、視線 をかわされたりしがちだった透緒呼を、なんの悪感情ももたずに。 非難しない大人は、彼女がはじめてだといってもよかった。それが、透緒呼にはひどく不思 議で、新しいものに思えていたのだ。 もっとも、そのときのことを貴里我が「わたしを見ても、おびえもしない。さすがに姫の娘 よの」と、筮音に苦笑してもらしたことなどは、知らなかったけれど。 : とにかく、そんな印象があったからか、透緒呼は貴里我を否定しきることはできない。 貴里我だって、獅伊菜をきっと憎んでいたわけ、じゃ ふぎ
せんさく ちょうし、よろ・ 「貴里我殿、あなたはわたしに嘲笑されにこられたのですか ? その最後に残った孫息子に おろ しつぼん までも、出奔されてしまった、愚かな女として」 「わらうか ? 」 じちょうぎみ 自嘲気味に貴里我は片頬を歪め、それが皐闍をこころもち引かせた。 ( ーー・なんだ ? ) あまりにも貴里我はおかしすぎた。いくらなんでも、ここまで言われて怒鳴りつけもしない のは、彼女ではない。 ( なにがーーー言いたい : 探るように見ても、貴里我から読み取れるものはない。物思いに耽けるような顔は、皐闍の 詮索を知らないように沈んでいた。 ( 『奥様、お許しください 女大公は、獅伊菜の母の言葉を思い出していた。なんでおまえはカウス日ルーの者ではない なま のだと、ことあるごとに当たり、そのたびに訛りの強い言葉で繰り返されたもの。 『奥様、お許しください 0 かたほお
まだほんの少女のころは、誰もが貴里我を不適当だと思っていた。それくらい、最初の彼女 の性格は、不器用で引っ込み思案で弱々しいものだった。 それなのに、彩女には継承者は彼女しかいなくて、貴里我は無理やりに王道を学び、それに 見合った性格を作らなければならなくて。 ( 嫌だったのに : それに比べて栄専は、反逆をするだけのことはあった。彼が女性であるか、他の大公家の生 まれだったら、 名君になっただろう。 巧みな話術、回転の早い頭、決断力と統率力。 どれ一つをとっても、貴里我は栄専に及ばない。追いつくことさえできない。 事件当時、彼女は三十をいくつか越え、栄専はまだ十代の少年だった。大人の姉と子供の 弟。なのに、すでに彼のほうが勝っていた。 じようい 貴里我も、それは認めていたのだ。だから、もし彼が妹でさえあったならば、譲位をためら 、はしなかった。けっして。 ( でも、現実は違ったーー ) 庭 の弟は、その性別から枠の外の存在だった。ゆえに要求は正当性を持たず、彼女は家を守るた 影めに断罪をしなければならなかったのだ。彩女の次期大公として。 けず 栄専は『彩女』の名を削られ、領土から追放された。着の身着のままで、小銭さえも持っこ たく
ぎこちなかった伯母の言葉に、皐闍は鼻先で笑いを返した。本心からというよりも、つい習 慣でとい , つよ , つに。 ぎゅうじじよてい いったいそちらの 「いまだ大公位にあらせられて、政界を牛耳る女帝が、何を言われて、 何処が老体やら」 とまど こんわく きつくやり返しながら、本当は、界座公はかなり戸惑っていた。貴里我自身が困惑している のと同じくらいに かたき 彼にとってこの『伯母』は、かってはただ、父の仇でしかなかった。母である前界座大公・ アイヤ ェイセン 藍夜の夫だった栄専はーー父は、まだ母が世継ぎの姫だった時代に、毒殺された。実の姉であ る彩女貴里我に。 ほうむ 栄専が葬られたとき、皐闍はまだ藍夜の腹にいた。だから彼は父を見たことがない。事件の あんやく 真の事実も知らない。貴里我の暗躍は未だはっきりと明かされてはいない。 公的には、栄専は自殺なのだ それでも、皐闍が彼女を憎む材料は十分にあった。残され、たったひとりで大公に即位する よ ) 、と 羽目になった藍夜が、夜毎に彩女の蛇女の腹黒さを物語っていたのだ。 「界座の姫大公に似ておるわ。その瞳。あの嬢も、会うたびにわたしをそんな目つきで見てい きょぜっ 少年のころから変わらない、貴里我を拒絶する射るようなまなざしに、女大公はそうもらし 0
たのだ。貴里我が女性で栄専が男性であるかぎり。 けいしよう 彩女大公家は『一王・四大公家』中でただひとっ『女系継承』の伝統を持っていた。つま り、大公位は母から娘へと位がったわる、ということである。大公家の内に女性が存在するか くず ぎり、その法則は崩されはしない。 だから。あれはおかしかった。もし、栄専が『妺』であれば、相続争いが起こることがあっ たかもしれない。姉より資質において優れていると認められれば、妹でも大公になることは許 されるのだから。でも。 栄専は あ せんどうしゃ なのに、争いは在った。それは、内部に煽動者がいたからか ほうき とにかく、十五歳はなれた『弟』は蜂起してしまった。自分にも継承の権利はあると。否、 自分こそ、姉よりも資質に恵まれているのだと。 「あれが女であれば良かったものを」 けげん ばつりともらした貴里我に、皐闍は怪訝な顔をした。彼女のうちの藤など、知らないの 、、つ ) 0 ( 本当に、女であれば良かった : : : ) 半世紀が過ぎたいまでも、貴里我はそう思わずにいられない。なぜなら、彩女大公の位は、 彼女の望むものではなかったから。 すぐ
13 影瓏の庭 カイザじト - う・ サヤメキリガ 自分の命が消える数日はど前、彩女貴里我はひそかに界座城入りを果たしていた。側近に じゃま さえ、具合が悪いから、部屋で眠っているから邪魔をするなとうなっておいて。本当のことを 知っているのは、身の回りの世話をしている実娘だけ、という状態で。 そうまで非公式に、なぜここを訪れたかったのか。 おいコウジャ それは、彼女自身にも分からないことだった。界座城は、甥の皐闍の城だ。弟のーー栄専の 息子の。 近い血筋を持ってはいても、貴里我と皐闍は仲がよいとは言えなかった。月日がながれて、 その関係はいくらか改善されたとはいえ、けっして私的に行き来する関係ではない。 ( いいや、ここ二十年で、関係はよけいに複雑になったやも知れぬ : : : ) ものう だれの案内もこわずに、まっすぐに大公の私室に向かいながら、貴里我は物憂くそう思っ 皐闍が少年だったころは、ふたりはただ憎みあっているだけですんだ。否、彼女が一方的に 序章種のゆりかご ェイセン
( ひとこと、嫌だと言ってくれればーーー ) いくどそう悔やんだかわからない。それほどまでに、貴里我は娘に嫌われていたのか。言っ てもわかってはもらえぬと思われていたのか。 くわだ 無言のうちに、娘は自分を切り捨てた。継承権の放棄を企てたのは、まだ、大人になりきら ぬうちのことだったと、それだけは後にばつりと漏らした。 「なんと言えばいいのでしようね。あなたの血統志向がめちゃくちゃにされて、大変胸がすき ました、とでも ? 」 黙りがちな貴里我に、皐闍は挑発するような言葉を投げた。当時、彩女の女大公が残された 望みである息子に、親族をめあわせて女児を得ようとしたことは、秘密でも何でもなかったの けんお やらしいものにしか見えない。過去のことだ 彼にとってはあさましく嫌悪しか感じない、い として、も。 「何とでも言うが良いわ。わたしは孫娘が欲しかった」 けれど。それは皐闍の言うとおり成功しなかった。貴里我の息子にはすでに通う女がいて、 庭 のが 獅伊菜が生まれていた。そして、まるで網から逃れる魚のように、するりと死の淵へ とうかい ろうきゅうか 影 と泳ぎ去ってしまった。老朽化した家の倒壊に巻き込まれた子供を救っての、嘘のようにあ 5 つけない死、 ふち
ろう た。まるで、この密会のために準備されていたような、冷えきって薄暗い牢のような部屋で、 息が白くたちのばる。 「母にとって、あなたは父の生死に関係なしに敵でしかなかったでしようから」 粗末な卓をはさみ、ふたりは向かい合って腰かけた。みじかく言葉を返しつづける界座大公 は、知らずに口調を若いころに戻してしまっている。 ョウシ 「母には、あなたは〈陽使〉よりも忌まわしい存在でした」 「 : ・・ : であろうの」 にぶい痛みを覚えながらも、貴里我はたやすくそれを認めた。皐闍の言うことに、かけらも 間違いは入っていない。 「そうだえ。栄専からすべてをとりあげたのは、このわたしーー。仕方のない、 はいえ」 あれから時は流れながれて、事件をちゃんと覚えているものも少ないだろう。 貴里我はふと、思った。そう、あれからもう半世紀が経とうとしている : あのころ、彩女は揺れていた。公女貴里我と公子栄専のどちらが、次代の大公位につくか 庭 ので。あってはならない騒動で。 影 ( あれは間違っていた : : : ) ゆが 思い返すたびに、彼女はあの事件が歪んでいた気がする。そう、起こってはならない事だっ たく ことだったと
加とを許されずに。 「皐闍、おまえは母から聞いて、栄専の当時を知っているだろうの」 彼を助けることは彩女の怒りに触れることだと、大多数の者は栄専を無視したはずだった。 貴里我たち追放した側も、それを承知していた。栄専は早いうちに餓死するか、自由民となる やとう か、野盗になるかにしか、道はないだろうと。 「母にめぐり合ったとき、目の輝き以外に持ち物はなかったそうですが」 皐闍は貴里我を見据えたまま答えた。まるで、そのたった一つの持ち物が、彼の母親を魅き つけたと言わんばかりに。 「 : : : だろうの」 皮肉を退けることなく、彼女は認めた。その様子が目に浮かぶ気がして、否定できなかった のだ。 ( まさか : : : 生きてふたたび会うとは、思ってもみなんだ : : : ) 追放から数年後、貴里我は弟に意外な席で再会した。夏の大陸連合会議。その、界座大公の 娘の隣に、つまり、〈次期大公の夫〉の席に彼は座っていたのだ。 当時の界座公女・藍夜に一目惚れされたとも、政治の駒にできると、すべて承知の大公に拾 ひそ われたとも、あの頃は密かにささやかれた。 ( どちらでも同じだえ : ・・ : わたしにとっては : ・・ : )
憎まれているだけですんだ。 「けれど今は : : : 」 つぶやいた声は『彩女大公・貴里我』のものとは思えないほど、暗くしやがれていた。も し、彼女の側近が耳にしたとしたら、その威厳のなさと命の尽きかけたような弱さに、絶句す るか動転しただろう。 ( ああ、だけど。けれど今は ) ひそ 声のなかに潜んでいた『老い』の響きに、痛みを感じながらも、彼女は繰り返す。 ( もう、一生わかり合えはせぬ。完全に利害の食い違う、支持するものも違うようになってし まっている ) 貴里我がかなりの親王派であることは、以前から知られていることである。透緒呼の祖父 や、男色家といわれた三代まえの王が存命した、彼女自身が少女だったころから、彩女貴里我 しいたろう。 は王家のために尽くしてきたといっても、 ソウシュセイネ ながく続いた忠誠心は、現王家についても変わることがない。蒼主、筮音、透緒呼 : : : 。ず っと日なたを歩いてきたとは言えない彼らも、女大公は常に信じ、政治的制約ぎりぎりの手を さしのべてきた。つもりだった。 ( そのわたしの愛し子たちを、おまえはよく踏みにじったえ : : : ) 皐闍が筮音を中心に軽んじつづけたことは、だれもが知る事実だった。それが、彼ら自身の ひび いげん