ろうれつ うか。あまりにも現実に眼をとざした無法で陋劣な言い掛かりには反論の元気さえ吹っ飛んでし まいます。横田喜三郎は日本史の実状を謙虚に調べる学問的良心のひとかけらもなく、ただ頭の 中で人の世の生きた姿とはなんの関係もない公式を捏ねあげてころがしているのです。 その公式の単純で、粗暴で、世間知らずで、人間性への軽蔑に徹した無智で、傲慢なこと。そ の公式の荒筋はこうですね。 第一、天皇は君主である。第二、君主は専制である。第三、専制に人民は対立すべきである。 第四、専制に対立しない人民には自我も個性も自由も平等もない。以上が日本歴史の実態であ る。それで終わり。 すんごう 日本歴史の経過が具体的にどうであったかを観察する必要は寸毫もないわけで、ただ皇室をず っと戴いてきたという伝統の事実だけで、ただそれだけで、日本国民は二千年になんなんとする スレイプ いっちょまえ あいだ人類として一人前の資格を有せず、まともな人間とは評価できないむしろ最下等の奴隷 う・」め の、それよりさらに劣る暗夜に蠢く獣類のような惨めな存在であったという恐るべぎ実状が、横 じよ、つはり 田喜三郎の洞察力にみちた脳中の浄玻璃 ( 曇りのないガラス ) に、今ありありと映写されているの です。 しかし、日本には、このルネッサンスがなかった。そのために、自我の発見もなければ、 個性の自覚もなく、自由の価値もほんとうに知らず、平等の観念も十分にわからなかった。 ( 『天皇制』頁 ) こ 142
自分たちに反対する者には誰にでも共産主義者というレッテルをはって手当り次第に投獄 し、残酷に虐殺している。 ( 中略 ) ーー指を一つ一つ折るようにその弾圧を数えたて、「この ように愛国的人士と青年学生を苛酷に弾圧しているのに、どうして彼らとひざをまじえて話 ができますか」「彼らには民族も人間も眼中にない。言 論理もない」と語った時には、主席の 語調はきびしく顔は紅潮していました。そして、「こんな連中と、なおもあなたは話をしな ければならないというのですか ? ーと私に迫るように語りかけられた時、私は、金大中氏を はじめ、南で抑圧の下にある私の知人の顔を胸中に思い描きながら、ある感動を覚えまし ( 頁ーⅢ頁 ) たくせんちょうもん まるで教祖のご託宣を聴聞するように「語りかけられた」金日成を仰ぎ見る拳々服膺の姿勢は 珍奇としか言いようがありません。この二人が、ともに「南」と蔑称する韓国で沢山の人びとが かたつばしから「残酷に虐殺ーされたという証拠を知りたいものです。 そもそも「自分たちに反対する者ーを「手当り次第に投獄ーしてきたのは金日成自身ではあり たけだけ ませんか。盗人猛々しいなどと評しては甘すぎるくらいでしよう。その言いたい放題の暴言に 「感動」する安江良介には、実証精神のひとかけらもありません。 北朝鮮に対する「誠実」とはなにか イギリス しかし、以上の無邪気な敬服のかぎりでは、世間に珍しくない英国崇拝や仏蘭西崇拝と同じ フランス けんけんふくよう たくさん 158
むね 太郎と間違われたのである旨が、壁の落書で判明しました。 / 彼らの動機は、明白に身のほど知ら ずの嫉妬だったのです。そしてこの理不尽な破壊者こそ、かって丸山眞男が慇懃に「本来のイン テリゲンチャ」と讃えた東京大学の学生でした。 ごんごどうだんきそん 丸山眞男は、このように非人間的な言語道断の毀損を見て、さすがに「本来のインテリゲンチ ひら ヤ」は意欲的で、精力的で、進歩的で、未来を切り拓く念力に満ち溢れていて頼もしいなあ、と 歓喜の声をあげたのでしようか。 はたらびと それとも、「本来のインテリゲンチャ」なる者は、世間に遍在する律気で真面目な働き人より も、実は根性がねじくれひねくれていて、嫉妬心がひときわ猛り狂う性質の悪い連中であること が現実に即して判ったから、今後は「本来のインテリゲンチャ」と「擬似インテリゲンチャーな どという人間尊重の精神に反する差別の論理を撤回しなければならぬ、と沈思したのか、そのあ たりの事情をぜひとも知りたいと願う者は、私だけでありましようか。 たた たけ たち いんぎん 110
次元を異にする事柄をわざと混同してみせる論法には、納得できません。 普通「大目に見るーことになっているのは、本人の責任をあまり追及するまでもない気の毒な 突発的な過失の場合です。 くじぐる 昔から敬遠されてきた「公事狂い 以上の二箇条に分けて考えてみた場合、大事ではない小事を「大目に見る」のは人間関係に無 用の波風を起こして紛争や騒動や衝突や怨念を大きくしないための賢明な世間智です。そういう とげ・とリ 世の些事をなんでもかんでもあからさまな問罪と処刑へ持ってゆきたい大塚久雄のような刺々し くじぐる タイプ いが く毬のある型を昔から「公事狂い」 ( 訴訟魔 ) と呼んで敬遠してきました。 大塚久雄の考えている「民主主義」社会は対決を軸に回転しながら明けても暮れても闘争を旨 賊とする殺伐たる修羅場のようですね。 」しかしながら、大塚久雄が絶対的に期待する聖なる目標としての「近代化・民主化」は、何が 定 何でも断乎として強力に推し進めなければなりません。 否 全 を わ 本 日 現在の吾が国の民主化過程においては、社会的・政治的レヂームの他律的な民主化に相応 代 近 して、人間類型の近代化・民主化が意識的計画的に推進されなければならない。言ひ換へれ きわ きんよう 章 - ば、民衆を近代的・民主的な人間類型に意識計画的に「教育」することが極めて緊要なこと ( 同前 % 頁 5 買頁 ) Ⅷとなるのである。 第 だんこ 287
別にこちらから頼みもしておりませんのに、どんな資格があってそんなに上から「教育ーを押 しつけられるんですか、などと女々しく・ほゃいてはなりません。クレージー・キャツツの谷啓が たんばくしつ 健康飲料・マミアンのコマーシャルで、「蛋白質が足りないよーと注意してくれましたように、大 塚久雄は、「近代化が足りないよ」と深く憂えてくださっているんですからね。そのためには、 国民一般ではなく特に「勤労大衆ーを重視せねばならぬのだそうです。 なによりも必要なのは生産力の主体的要因たる勤労大衆 ( 労働力 ) を古き舊き段階の人間 類型から真に近代的な生産力的な人間類型へと「教育し行く」ーーもとより最広義において ( 「近代化の歴史的起点』頁 ) ことが第一の、最大の条件であらう。 単に「近代的」というだけの掛け声では手ぬるいのであって、行きつく先は「真に近代的ーな る境地でなくてはなりません。しだいに鍋が煮つまってきました。 さて、壮厳なる目的である「真に近代化ー実現の方途ゃいかに。 繰り返して云ふやうに社会変革と人間変革とは同時進行的に遂行されなければならないと もちろん したが しか 私は考へてゐる。 ( 中略 ) 従って、社会変革に勿論密着しつ & 而も人間変革が十二分に強調さ ( 「近代化の人間的基礎』序の 4 頁 ) れねばならない 、と私は考へたのである。 ふる 288
に取りくんでいるのだと見せつけなければなりません。「世界に共通ーの課題であれば翻訳され て「世界に共通」の理解を得ることができるでしよう。丸山眞男は、なかなか隅におけない作戦 家なのです。 丸山眞男にだけ見える摩訶不思議な情景 さて、こうして日本にもファシズムがあったと自ら認定するや否や、丸山眞男は、ただちに 「日本のファシズムの社会的な担い手」の究明に着手します。おそろしく単純な有無を言わせぬ 二分法によって、有罪者が摘発される一方で、無罪の判決を受けとる人たちが確定するという仕 組みです。この場合は、社会を構成するさまざまな人間の当然な個人差は、 いっさい問題にされ じつば ません。十把ひとからけに、特定の社会階層に属する人のすべてが狙い撃ちされます。 日本におけるファシズム運動も大ざっぱにいえば、中間層が社会的な担い手になっている Ⅷということがい、んます。 ( 頁 ) 特徴的なことは、日本に果たして「ファシズム運動」があったか否かの検証がまったくなされ ていない致命的な手抜きです。ファシズムではない軍国主義的な気分、山本七平の言う「空気」 ( 文春文庫『「空気」の研究』をぜひともご参照願います ) なら、それは確かにあったでしよう。しかし昭 和二十年に旧制中学校三年生であった私は、それに先だったとえば一〇年間、わが国に勢い猛な な か 6 も、つ
わが国の中間階級或は小市民階級という場合に、次の二つの類型を区別しなければならな いのであります。第一は、たとえば、、 る工場主、町工場の親方、土建請負業者、小売商店の と、つりよ、つ ないし 店主、大工棟梁、小地主、乃至自作農上層、学校教員、殊に小学校・青年学校の教員、村役 ( 頁 ) 場の吏員・役員、その他一般の下級官吏、僧侶、神官、というような社会層、 この一節をおもむろに読みすすむときの印象は、どうでしよう。ここで「第一」の「類型」と せいれい して列挙されている日本社会の中堅層、必ずしも生活が楽ではないものの、いずれも職務に精励 している律気な働き人の日常生活に、丸山眞男の人間的な同情の気分が満ち溢れていると読みと る方が、どこかにおられるでしようか。 「小」という一字に込められた著者の見下し、突き放すような眼差しがまことに印象的ですね。 さて、その次は「第二の類型」です。 ないし 第二の類型としては都市におけるサラリーマン階級、いわゆる文化人乃至ジャーナス 、その他自由知識職業者 ( 教授とか弁護士とか ) 及び学生層 めつき ここで丸山眞男の目付が打って変わって、たちまちになごやかになりますね。なにしろ「教 いとお 授ーという自分の同業者が加えられているのですから、愛しい気持ちが先に立つのも無理はあり ませんね。そして「学生層」についての規定を、注意して聞きましよう。 ⅢⅢⅢⅢⅢⅢ はたらびと あるい こと あふ 63 リ
この場合に「余り見ることなくーと言って「余りという変な留保条件をつけたのは「固より 前衛的近代人層は別として」と断わって、日本共産党に会釈するための細やかな心遣いなので た す。それはまあご愛嬌として、大塚久雄によるこの言立てによれば、近代日本社会は、近代的資 本主義組織のみあって、近代的人間は日本共産党員をのそいてはひとりもいなかった、という不 思議な世界であるということになります。 船舶は航進しているのに船員がひとりも見あたらないという、かっての谷讓次が描いた世界海 難史上に有名な怪談そっくりの光景となります。 吾が国の民衆が一般に示しつ & あるところの人間類型、或ひは彼等の醸し出しつ & あるエ いながた トスが、現在なほ凡そ近代的・民主的なものでないことは社会学的観点から見て到底否み難 賊 ( 同前 6 頁 ) いところである。 国 し 定 近代的でもない、民主的でもない、それなら「封建的」と評されるべきなのでしようか。い 否 をや、封建的の域にまで達していないのだそうです。 本 日 代 近 吾が国民衆の示しつ & ある人間類型は簡単に封建的と云ひ切ることは出来ない一層複雑な 章 ( 同前 7 頁 ) 謂はばアジア的なものであると思ふが : 第 川ⅢⅢⅢⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢⅢ 日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ およ ある じようじ もと 283
と場合によりくるくる変わるのが常です。あるとき北を戦闘目標に決めたかと思えば、翌年には 南からの侵入にそなえて陣営を立て直す、それが軍の勉強であり、訓練ではありませんか。 しかし、ここはいちおう坂本義和の顔を立てて、百歩も千歩もゆずって、日本陸軍がソ連との 戦闘を想定して大動員をかけたとしましようか。その場合、「計画」を立てたことと条約を破っ たこととは、決定的に画然とした差があって、そもそも次元のちがう問題であるという常識はど だざいおさむ こへ行ったのでしよう。太宰治のロ真似をして、ああ計画は罪なりや、と言いたくなります。 相手が条約を破る″計画〃をしているから、だから当方は条約破りを″断行〃するのは正当行 家為だ、という論理がもし通用するのなら、権兵衛が私を殺す計画をしていると見てとったから、 詭だから私が権兵衛を殺しても罪にならない、 という奇妙な法理論が成り立っことになります。坂 でたらめ す本義和の申し立ては、白を黒と言いくるめる出鱈目の背理であること明白でしよう。 断これは、中世・西欧の魔女狩りの論理にすぎません。「お前は隣の亭主と不義密通する夢を見た ひあぶ ひあぶ 家な、よって有罪。火焙りの刑に処す」、「お前は異教の教えに心を動かしたな。よって火焙りー 近代以前、 この論理のもと、まことに多くの人間が罰されてきました。 済その究極は宗教戦争で、ドイツ三〇年戦争 ( 一六一六 5 四八年 ) では、ドイツの人口は半分にな だいさつりく をつたそうです。それほどの大殺戮が行なわれたわけですが、その教訓から誕生したのが「信教の 日自由」「良心の自由ーで、何人も、何を考え、何を信じようと自由であり、国家が個人を罰する 章ことができるのは、内面と無関係に、その行為がもたらした結果に準拠するということになった 第のです。つまり、「殺してやりたい」ではお咎めなし、殺人が起こってはじめて国家権力は動き おが 251
政治の方は、形式的でインチキですよ。なぜインチキかと言うと、異質的な人間を、ただ の一票として勘定し、それを何らかの宣伝手段によって操作して、票を集めて当選したの ひじよう が、国政に対して、いわば素人として参加するという形になって、それもまた非常に不徹底 ( 『対話史』 2 巻頁 ) なんですね。 誰でも彼でも、ひとしなみ無差別に一人一票、という民主主義の根本をなす制度が久野収にと ってはお気に召さないのですね。万人を平等と見なさないで、社会は「異質的な人間ーの集団で あると考えるとき、当然のこと、程度の高い人と程度の低い人とを差別しなければなりません。 ここに久野収の差別意識がはっきり現われています。 くろ、つと だんこ 政治はスターリンのような卓越した玄人に任せれば、彼は素人の差し出口など断乎として排除 し、最も高度な政治を行なってくれるでしよう。久野収は民主主義にかぎりなき軽蔑の眼を向 どうけい け、共産主義の政治を憧憬し夢見ているのでありましよう。