大正凵年 1 月下旬 日本共産党についての極東部上海会議一月テーゼ 大正凵年 5 月中旬 日本の労働組合運動についての五月テーゼ 大正年 3 月中旬 日本問題についての決議 ( モスクワ・テーゼ ) 大正年 3 月凵日 日本代表団の報告にたいする決議 日本共産主義グループの活動についての指令 大正年 3 月中旬 大正年 3 月下旬 日本問題についての決議 日本についてのテーゼ ( いわゆる二十七年テーゼ ) 昭和 2 年 7 月日 昭和 3 年 5 月 4 日 日本共産党の当面の任務 昭和 3 年川月 2 日 日本共産党当面の任務 ( テーゼ ) 昭和 3 年川月日 日本に於ける労働組合運動 ( 決議 ) 昭和 5 年 1 月 日本共産党についての決議 昭和 5 年 2 月 6 日 日本におけるさしせまった選挙と共産党 し 日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ ( いわゆる三十二年テーゼ ) 誰 昭和 7 年 4 月 家 国 テーゼ ん 以上のように、何回も重ねて、しつこく似たような指令や決議や方針書を出しています。 コミンテルン 章国際共産党組織にこれほど重要視されたのは、事実の問題として日本だけなのです。まるで しそう コミンテルン 第国際共産党組織の主要な任務は、日本共産党を監視し、教育し、指導し、指嗾し、日本共産党を シャンハイ
のろ ④ソ連の呪いがかけられた国・日本 日本以外の国に、ソ連はテーゼを連発しなかった不思議 国際共産党組織は世界の共産主義運動を指導する司令塔でした。それゆえ、絶え間なく全世界 の共産党や共産主義者に対して、たくさんの文書を発しています。しかし、それらのほとんどす こぶけしかけ セレモニー べては、闘え、闘え、という激励と鼓舞の指嗾であり、あるいは党大会などの行事に対する挨 拶でした。いずれも、あまり内容の濃い論述ではありません。ほとんどが儀礼的で、いいかげん な決まり文句の羅列です。 そして、ここにひとつ見逃すべからざる重要な問題があります。日本に対する熱のこもった ゅうあく テーゼ 「三十二年テーゼ」を下附したのである以上、他の国に対してもまた同じように優渥なる方針書 を交付したはずだと、つい常識的に、そのように想像したくもなるではありませんか。 ところが、実は、まったくもってそうではないのです。国際共産党組織は世界の先進国のどの 国の共産党に対しても、その国の社会を論議したり運動の進め方を指示したりなど、そんな出過 コミンテルン ぎた真似はしておりません。日本に対してだけ国際共産党組織は例外的に大きく身をのりだし て、何回も何回も方針書を授けました。 テーゼうやうや 繰り返しますが、方針書を恭しくいただいたのは、先進国では、日本共産党だけなのです。 コミンテルン 国際共産党組織は、他の先進諸国にそれそれ方針書を授けるというような、そんな失礼な真似を コミンテルン コミンテルン
て、ソ連が日本をひじように恐れていたことは事実のようです。それは、おそらく身の毛もよだ っ怖ろしさだったでしよう。 ゆえにソ連を防衛し安全を確保するためには、なにがなんでも日本の国内を大混乱におとしい れ、できることなら革命を惹き起こさせなければなりません。 したがって、日本共産党が性根をすえて階級闘争を闘ってくれる大波瀾が、祖国を守りぬくた め絶対に必要な第一の課題となりました。 てこ そこで、日本共産党に対する必死の梃入れがはじまったのです。まことにお気の毒ながら、当 時の日本共産党たるや、立花隆が『日本共産党の研究』上下 ( 昭和年 3 月 % 日ー 9 月為日・講談社 ) に明細な証拠をあげて描きだしていますように、とうてい革命運動を遂行できるような状態には ありませんでした。 わら グループ こんな弱体の頼りにならないごく少数の集団に、ソ連が多額の資金を送ってよこしたのは、藁 にもすがる思いだったからでしようね。「三十二年テーゼーの発想は、ソ連の妄想的な日本への し が恐怖から生まれたのです。 スローガン 唯 - コ、、、ンテルン 言国際共産党組織が、いちおう、国際、という標語を掲げているとはいえ、その実体が、共産 主義の祖国であるソ連の存在を少しでも安全なように持ってゆき、世界革命の根拠地であるソ連 ん を守りぬくための、そのための組織であったことは言うまでもありません。ゆえに、国際共産党 章組織は共産主義ソ連の国益に資するための外壁でした。 第そのソ連が、日本恐怖症にかかっているのである以上、国際共産党組織は国際主義ソ連の意向菊 ひ たかし コミンテルン コミンテルン
は、日本に対する「三十二年テーゼ」のほかはただ一篇、 ラテン・アメリカの革命運動についてのテーゼ草案一九二九年三月 ただこれだけなのです。 本当にこれつきり、これつきり、なんです。国際共産党組織が存続した期間に、発行した イギリスドイツ フランス イタリアアメ 方針書の相手は、日本と、そしてラテン・アメリカだけです。英国も独逸も佛蘭西も伊大利も米 コミンテルン テーゼ 国も、これら先進諸国のうち、国際共産党組織から方針書を頂戴した国は一国もありません。 すなわち、国際共産党組織の主要な任務のうちには、各国の共産党に方針書を授けるなどとい う差し出がましい振る舞いは、いささかも予定されていなかったのです。国際共産党組織にとっ ては、方針書を与えるという所作は、常例でもなく、慣習でもなく、本務でもありませんでし テーゼ た。方針書の授与は、まことに例外的な、まったく格別の措置だったのです。 しかも、ラテン・アメリカに対してはただ一回きりであるのに対して、日本に向かっては、何 テーゼ 回も何回も、しつこく繰り返して継続的に発行しています。日本が頂戴した方針書の類いは、な んと次のとおりなのです。 日本における共産主義者の任務 日本共産党綱領草案 ⅢⅢⅢⅢⅢⅢ ⅢⅢ コミンテルン コミンテルン コミンテルン 大正Ⅱ年 1 月日 大正Ⅱ年肥月頃
筆大書すべきであると思われます。 では、一体どう対処したらよいのか。それはいたって簡単な方策です。つまり、日本が進んで 自分から社会主義になったらよいのです。すなわちソ連の属国となれば、領土問題なんか吹っ飛 んでしまうではありませんか。久野収の提唱は簡単明瞭、日本が共産主義ソ連の属領となること だったんです。実に簡明な快刀乱麻を断っ解決の方策ですね。 そがい 「戦争中の日本だけが共産党を疎外した」という大ウソ だま まいしん 自己の信じるところを邁進する久野収の執念は、繰り返しになりますが、日本国民をいくら瞞 あざむ しても欺いても、それは仏が法を説く場合の方便と同じで、一向に構わないという自信となって 発露します。 身 の つまり世界の近代国家で、少なくとも資本主義がこれだけ進んだ国で、戦争中の日本みた 識 意 カ いに共産党を公認せず、共産党を火つけどろぼうみたいに言って、社会から疎外した国、そ 権 して何か文化が進んでいるくらいに支配階級が思っておった、このあほらしさ加減ですね。 意 ひじよ、つ 得 ( 『対話史』 1 巻物頁 ) これは非常に問題だ。 喝 恫 これは人を馬鹿にした真赤な嘘です。久野収の言う「世界の近代国家ーで、共産党がいかに処 章 第遇されたかを簡単に一覧しましよう。 ⅢⅢ日ⅢⅢⅢ川ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ 183
識「天皇制」に対する強固な怨念 九したがって、日本共産党の暗躍を封じこめるのは、わが国の国益を守るためだったのですが、 その対応を、久野収は次のように言い換えます。 戦前の天皇制は批判勢力を牢獄の中に閉じ込め、偽の民主主義しか発達しなかった。 ( 『対話史』 2 巻頁 ) あると指摘する言立ては、向上と進歩のために役立っこと勿論です。 しかし、彼らは建設的な効果を生む前向きの批判を志しているのではなく、ひたすら弾劾のた トリ・ツカ / めの弾劾にふけり、そのためには以上のように白を黒と言いくるめる詐術をも辞さないのですか ら、手がつけられません。 久野収が知って知らないふりをしている事実を、さらに指摘しておきましよう。 コミンテルン 日本共産党は国際共産党組織の日本支部として設立されたのですから、これは純粋な意味にお コミンテルン ける日本の政党ではありません。国際共産党組織は、共産主義の祖国であり根拠地であるソ連の 国益を守るための組織ですから、日本共産党はソ連の日本支部であり、すなわちソ連が日本の中 がん に設置した出先機関なのですから、わが国の内部に巣喰うこの癌細胞の活動を停止させる措置 は、日本にとっては遅滞を許されない応急の手当てであったこと、言うまでもありません。 にせ だんがい 185
しておりません。日本に対してだけ、国際共産党組織は格別に念入りに干渉したのです。 こう ここに村田陽一編訳『コミンテルン資料集』 ( 昭和年Ⅱ月日ー年 3 月日・大月書店 ) という浩 瀚な資料の集大成があります。全六巻に索引などの別巻が加わって、四〇〇〇頁を越す大冊で す。この中から国際共産党組織が発行した方針書と見まちがうような文書を探してみましよう。 メッセージたぐ もちろん挨拶の類いは省きます。すると結果は、こうなるんです。 七頁 一九二四年七月八日 イタリア共産党行動綱領 三頁 ドイツ共産党の任務について 一九三〇年三月 ベルーの共産主義者の同志諸君へ /. 九頁 一九三〇年六月 中国問題についての決議 一七頁 一九三一年七月 中国共産党の任務についての決議 一七頁 ラテン・アメリカの革命運動についてのテーゼ草案一九二九年三月 し 誰 これだけです。イタリアの場合は、ファシズムと闘え、という励ましであって、イタリアとい 家 甅う国家や社会についての論及は一切ありません。ドイツについても、社会ファシズムに攻撃を加 わず はつば ん えよ、と発破をかけるための僅か四〇〇〇字あまりの檄文にすぎません。ベルーに対しても共産 こ 章党の結成をうながすための初歩的な指南書です。支那については現段階に何をなすべきかのお説 第教です。だから、多少ともその国、その地域について、政治と経済との両面から論じた方針書 かん llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll コミンテルン コミンテルン チャイナ ( 日付けなし )
の地上における最高貴尊の機関なのです。国際共産党組織が間違うことなど金輪際ありえませ コミンテルン むびゅう ん。国際共産党組織は常に正しく完全に無謬なのです。 ま、つとく ゆえに「三十二年テーゼ」を疑うのは神を疑うにひとしい讎漬となります。「三十二年テーゼ」 けいけんはいき は絶対的に正しいと念じて、敬虔に拝跪しなければなりません。 むびゅう では、なぜ国際共産党組織は無謬なのか。それは国際共産主義運動の司令塔だからです。その 司令塔に、なにゆえ絶対の服従を誓わなければならないのか。理論の筋道は、次のように組み立 てられます。 共産主義の実現は、人類にとって最高至上なる幸福状態の達成である。 図ゆえに共産主義の闘士は、世界歴史が発展してゆく基本法則の見通しを誤りなく立てて むびゅう いるのであるから、その世界認識は透徹していて無謬であり至当である。 お ③それら闘士の先頭をゆく職業革命家は、レーニンが大妓判を捺したように「もっともた しかな、経験に富み、鍛錬された」 ( 邦訳『レー = ン全集』 5 巻頁 ) 人たちであるから、絶 対の信頼を寄せるに足る。 ④こういう職業革命家として、闘争の前衛である秀れた人たちをさらに指導する立場にあ る各国の代表は、これ以上のそむべくもない最高の全智全能である。 コミンテルン ⑤その代表が寄り集って合議のうえ出される国際共産党組織の決定は、現代世界における 最高至上の洞察であり指導理論である。 コミンテルン とうてつ コミンテルン
を忠実に代弁しなければなりません。「三十二年テーゼ」は実にこういう状況のもとに起草され、 日本共産党に授与されたのです。 おもわく 的中したスターリンの思惑 この場合、つまり「三十二年テーゼ」の理論構想が築きあげられた動機としては、次のような おもわく 思惑が当然に推定できます。 まず第一に、日本国内に大混乱が起こるように仕向け、日本の国力を可能なかぎり減退させる こと、それゆえ日本共産党の闘争意欲をかきたてるべく数千言を費やしてお尻を叩いています。 第二に、しかし、国際共産党組織の目になにも見えていなかったわけではありません。 「二十七年テーゼーがブハ ーリンを中心とする討議の結果であったのに対して、「三十二年テー ゼ」の場合は「スターリンの意志が強く働いたと推測されているー ( 昭和年Ⅱ月日『現代マルク あきら スⅡレーニン主義事典』上・社会思想社 ) と伊藤晃が伝えています。 明敏なスターリンは日本共産党があんまり役にたたないことをよく知っていたはずです。スタ ーリンは政治の悪魔的な天才でしたから、日本の国力をいやがうえにも減退させるため、国力を 根底でささえる国民の気概を弱め、自信を失わせ、士気低下させ、自尊心に傷を負わせ、知勇を おとろえさせようと企みました。国民を意気喪失におとしいれようと計ったのです。 き、つつ たいえいてき 国民が沈みこんで閉ロたれて気鬱になって前進意欲を失い、退嬰的になって鈍重になり、駄目 しおた な性格になり潮垂れて無能になることを狙いました。その目的を効果的に達成するために、日本 コミンテルン
3 反日的日本人の聖典ー「三十ニ年テーゼ」 〃神のお告げ。となった運動方針書 「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼーと題する文書をつくって、日本共産 党に授けたのは国際共産党組織です。 ときに一九三二年四月でありましたから、以後、「三十二年テーゼ」と言いならわされるよう になりました。テーゼとは、運動方針書、というほどの意味です。 この文書は、日本語訳にして一万字あまり、四〇〇字詰め原稿用紙になおすと三〇枚足らず、 そんなに詳しく長い記述ではありません。しかし、この文書がいったん日本に伝えられるや否 や、わが国におけるすべての共産主義者および同調者はひとり残らず、ただちに平伏し礼拝せん あほだらきよう けんけんふくよう ばかりに丸暗記して拳々服膺しました。もちろん共産主義者でない人たちは、こんな阿呆陀羅経 を頭から問題にしませんでしたけれど、一方、たとえかすかにでも共産主義に近寄っていたひと うやうや 言びとは、全員こそって神から与えられた聖典のように恭しく信仰しました。 甅それから数えて六〇年を超す今日に至るまで、わが国における左翼人であって、なおかつ「三 げんじ 十二年テーゼーに多少とも批判の言辞を吐いた人はひとりもありません。たとえ一字一句でも、 こ ぎぎ 章訂正の必要ありと申し立てた人はいないのです。それどころか、少しおかしいそと、疑義を抱い 第た人もありません。