購買を「支配」と呼ぶ妄想 帝国主義時代が今も続いていると妄想している坂本義和には、自由貿易という概念がどうして も理解することができません。日本はいかにして資源を調達したか。 他の先進工業国と協調しつつ、資本や技術の優位を使って、途上国の資源を支配下におこ うとした。これは戦後、一九七三年までの方式である。 ( 『新版核時代の国際政治』「世界における日本の役割」 ) イメージ 五〇年以上まえの映像を現代にかぶせて見る坂本義和は、日本が途上国から、先方が希望し納 得する価格で、鉄鉱石をはじめとする資源を買っている、という通常の商業行為が、どうにも理 解できないんですね。途上国のほうこそ、先進国が資源を買ってくれなければ経済が成りたたな いので、積極的に売りたいと願っているという現実も、これまた完全に視野の外です。彼には、 適正価格による「購買」という概念がなく、それを「支配ーというおどろおどろしい言葉にわざ と言い換えます。なんとも、しつこい日本への憎しみですね。 そして一九七三年は昭和四十八年、つまり第一次石油ショックです。これが坂本義和にとって は嬉しかったんでしようなあ。いっそ産油国がいつまでも石油の生産を削減しつづけるか、ある いは売らないことに決めていたら、坂本義和の歓喜はきわまったかもしれません。その結果は産 油国のほうが収益を断たれて国が立ちゅかなくなる運命も、これまた考慮の外でしよう。 日ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢ 258
のろ ④ソ連の呪いがかけられた国・日本 日本以外の国に、ソ連はテーゼを連発しなかった不思議 国際共産党組織は世界の共産主義運動を指導する司令塔でした。それゆえ、絶え間なく全世界 の共産党や共産主義者に対して、たくさんの文書を発しています。しかし、それらのほとんどす こぶけしかけ セレモニー べては、闘え、闘え、という激励と鼓舞の指嗾であり、あるいは党大会などの行事に対する挨 拶でした。いずれも、あまり内容の濃い論述ではありません。ほとんどが儀礼的で、いいかげん な決まり文句の羅列です。 そして、ここにひとつ見逃すべからざる重要な問題があります。日本に対する熱のこもった ゅうあく テーゼ 「三十二年テーゼ」を下附したのである以上、他の国に対してもまた同じように優渥なる方針書 を交付したはずだと、つい常識的に、そのように想像したくもなるではありませんか。 ところが、実は、まったくもってそうではないのです。国際共産党組織は世界の先進国のどの 国の共産党に対しても、その国の社会を論議したり運動の進め方を指示したりなど、そんな出過 コミンテルン ぎた真似はしておりません。日本に対してだけ国際共産党組織は例外的に大きく身をのりだし て、何回も何回も方針書を授けました。 テーゼうやうや 繰り返しますが、方針書を恭しくいただいたのは、先進国では、日本共産党だけなのです。 コミンテルン 国際共産党組織は、他の先進諸国にそれそれ方針書を授けるというような、そんな失礼な真似を コミンテルン コミンテルン
卞丈 日 は あ 王 し れ う 理 只 い て東本 う 裁 を か萌論 し そ る ま い 持 ま も 足法 判外 わ 。芽曲 う と す ちす立裁理 解 立 ん法 か と 国 し、 が証判 = だ や律 よ の う ろ そ と て し、 の が う 、で 史 に う し 干 や で れ は可 で 、そ き 最 よ あ 渉 は 、憐 や し 冫こ 刀ヾ 謀 も 残 が そ れ な よ対教 ど な な る か 議 か難 阿あら す い 意 る 国 し う で の っ渋古 際し 諛ゆさ か図 ひ をよ る の の 意 と 東 追こま 法問 萌 カ : た し で 義 た未 従な上題 タト 圭芽誰 困 ふ り 裁 惑 ク ) なつ は 国 は で で判 は有 の外適 実 が の な を で め だ を す で国 法 ん楯多 は 干 ら の い 挙否 。当迷 すの ど 渉 に少 な れ て に定横初句 。干 も う た と そ な 渉 がそ ケ し 田 の で て 喜 と も 果 れ リ お に と て が を判 角虫 を し お さ た よ し、 ま し見決れ つ う し、 へ け う そ る を は に て た て の の で 妥側下 議 れ よ て は い で と 見 が の う る あ 当 り さ 論 の は 文 に法 と で立れ を な ・つ な律 明 企 て あ 国 場 と た し し、 り 家 国 み て る の た に う 横 法 の ま ま ら と で と か よ 国 す す 上干 し り 田 : 否 は と っ い 内 で渉 喜 か く た も う か か て 法 ら ま あ い 法定 良に る う か り で つ 最初オ 承 な 論カ ま と よ い に 後 は戦 て う いね せ ルじ、 さ ん う の し は に 突謀 れ と ね よ で 如議謀 う 喚 お解 さ ど と 議 。き れ お の さ 意 て す い た 味 さ に を い な にれ て て 魔疑ぎい た 議判 れ る わ で 法 義ぎか い 論 定 ち し て と : 東 の をに の さ の よ Ⅲ日Ⅲ 120
るのですから、あらゆるラジオ・テレビ放送を通じて、人民の自由と平等の擁護とは、まず 戦争をしないことだという主張を訴えかける。鉄砲をもっている相手国の兵隊の頭の中に、 そしてそれは自由と平等のために戦っているんだと思う兵隊たちですが、あなたたちのやる 戦争は、少なくとも非武装であるわれわれの自由と平等の擁護にならないんだという主張 を、理性による説得によって訴えかける。そのための防衛参謀本部をつくることが必要だと いっています。 ( 〈久野収対話集〉「平和・権力・自由』人文書院、昭和年 2 月川日刊、頁 ) つまり、久野収も共産主義国が着々と戦争の準備をすすめている事実をよく知っているので す。そこでご丁寧にも、その場合に対処する方法を授けてくださっているのですから、その周到 なご配慮にふかく感謝するべきでしようか。 この対談が行なわれた昭和四十年代中頃の時期、共産主義国がこれから戦争をしかけようとし ている相手国が放送しているラジオとテレビを、共産主義国の兵隊の全員が聴けるようとりはか らってくれるというこの妄想は、もはや一人前の判断力がある人の言い分とは思えません。とい うふうに言ってははなはだ失礼なので、久野収だってそんなことありつこないと知ったうえで、 だま ここは一番、国民を瞞しておくべきだという固い信念に基づいて、見えすいた嘘をならべている のでしよう。 史上、いまだかって共産主義国が「人民の自由と平等の擁護」に努めたことがあるでしよう でたらめ はったり ぎまん か。これは言いたい放題の出鱈目であり、胡魔化しであり、虚偽であり、偽瞞です。進歩的文化
えしやく 前に進みません。しかし、そういう具体に徹した教えを乞う丁寧な会釈は、横田喜三郎にとって 最も望ましくない迷惑な質問でありましよう。 おそらく、智力に秀でて賢明な横田喜三郎は時間をかけて世界のさまざまな類例をじっくり観 察する手間をはぶいて、その明敏にして聡明きわまる頭の中で「てっていした民主主義」とい う、この世にない理想形態を「えいやっーとばかりひねりだしたにちがいありません。なぜな ら、ごく普通の常識で考えた場合、横田喜三郎のこの論理は成りたたないのです。 ゅうずうむげ 通常の民主主義は、それほどかたくなに定義する必要のない漠然とした政体であり、融通無碍 ヴァラエティ に運用される多様性のある組織であること言うまでもありません。 民主主義とはかくあるべしなどという細則を定めた厳格な世界憲法があるわけではなく、その 男 国その国の独自な伝統にしたがって、個性的に施行されています。イギリスや、オランダ、デン し 蹂マーク、タイ、ベルギーなどのように王室を戴いている民主主義国もあって、君主と民主主義と 神は両立していますよね。大統領制もその国によりけりで、アメリカのように強い権限を持つ国も シャッポ のあれば、フランスやドイツのようにお飾り帽子の国もあるという次第で、一概に一一一一口えません。 こういう具体例にわずらわされないために、横田喜三郎の考えだした決め手言葉が「てって め い」です。この、いくらでも極端にふくらませることのできる「てっていした民主主義ーという の 達 概念に照らして、やっとのこと天皇制否定の論理が紡ぎだされるという仕掛けです。横田喜三郎 栄 章の進んで認めるところによれば、民主主義にも「てってい」もあれば、また「微温的」もあり、 第そして、おそらくその中間になおいくつもの段階があるのでしよう。 つむ こ 139
「一九七三年まで」と書いている筆致には、石油ショックで一時は困った先進諸国、とりわけ、 わが国に対して、ざまあ見やがれ、という雄叫びが響いているようです。共産主義と対立してい る「先進工業国よ、くたばれーという切なる思いがこめられていますね。 おんねん 日本を「新興経済国 , と決めつける怨念 よろ けれども同じ「先進工業国」でも、日本以外の国は相対的に立派なのです。宜しくないのは日 だき ぐまい 本だけであると決めつけます。日本だけは醜く、卑しく、唾棄すべき、指弾すべき愚昧な国なの 家です。 弁 詭 る す また第二次大戦後は、経済力の面で欧米に追い付いたと判断するようになると、もはや欧 定 断 Ⅷ米からは何も学ぶものがないかのような言動を見せることになった。ここにあるのは、欧米 AJ 家 での人権意識や市民社会の根強さから学ぶことを軽視し、集団的な軍事力、技術力、経済力 国 Ⅷでの追い上げを目指すことに専念するという形での上昇指向である。ここに見られる強烈な 済亠物質的・経済的成長指向、それが型日本の根深い体質となり、「顔のない日本人ーを を大量につくり出してきた。 ( 平成 7 年 8 月『世界』臨時増刊「冷戦後の課題は何か ? 」 ) 本 日 章現代の日本人が「もはや欧米からは何も学ぶものがないーと考えているなど真赤な嘘です。今 どんらんそしやく 第もますます、日本の経営者は欧米の学術成果を貪婪に咀嚼し、それを技術革新に生かすべく懸命 イ / べーション
この座談会が行なわれたのは昭和二十六年ですが、北方領土の占領という生ま生ましい証拠を 眼の前にしている国民が、それでも久野収たちが唱える「社会主義の国家は侵略しないんだ」と からねんぶつ いう空念仏を信用しないのは当たり前でしよう。 共産主義ソ連が東欧諸国を衛星国にしている手口から見て、さらにこれからも「侵略するので をないか」と国民が思うのは当然です。自分が言いふらしている嘘を国民が信用してくれないの わめ に腹を立てている、喚き立てと当たり散らしは、なんとも滑稽な風景ですね。その揚句には、と うとう無茶苦茶な放言となります。 すなわち、軍備をすれば民主主義を捨てることになるのです。国民をよほど馬鹿にして舐めて かからないかぎり、こんな事実に反する暴論を吐けるものではありません。 軍備をしている国が民主主義でないのなら、ヨーロッパ諸国もアメリカも、すべて民主主義の 身 国ではないということになります。世界中に現存する民主主義国は、モナコ公国とヴァチカン教 識皇庁だけになりますかね。虚偽もほどほどにしてくれ、と言いたくなります。 意 力ところで、「侵略しないーと説教して断言しておいたはずの共産国が戦争をしかけてきた場合 の対策を、これまた久野収が教えてくれるというのですから、この絶対的な矛盾をどう理解した 意 らよいのでしようか。 喝 恫 西側に立っているかぎりにおいては潜在的脅威というのは共産主義国家ですが、共産主義 章 第 国家もデモクラシーと同じように、建前として人民の自由と平等を擁護するんだといってい ⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢ はったり
皇室弾劾の論拠ーー「てっていした民主主義ー 横田喜三郎のその著作は『戦争の放棄』 ( 昭和年川月日・国立書院 ) です。その第一章には次の ように記されています。 民主主義のてっていという点から見れば、日本の新憲法などは、まだまだ不十分であり、 微温的というべきものである。一つの例をあげてみれば、天皇制を維持したこと、つまり君 いうまでもない。しかし、君 主制を保存したことがそうである。天皇が君主であることは、 主の存在は、てっていした民主主義とは、あいいれないものである。君主は人民に対立する もので、人民に対して特別な地位に立ち、特別な身分を有し、また特別な権限を有する。し かも、君主は一般に世襲である。すくなくとも、天皇は世襲である。かように、特定の人が 世襲によって特別な地位、身分、権利を有することは、民主主義の根本理念に反する。けだ いっさいの人が平等なものと認められ、 し、民主主義の根本理念は平等ということにある。 平等な機会を与えられ、平等な権利と義務を有することにある。 ( 『戦争の放棄』 6 頁ー 7 頁 ) 昭和二十二年という時点において、日本をのそく世界中の一国のこらず例外なく「てっていし た民主主義」を施行していたはずはありませんから、つまり、「てっていした民主主義」は、世 界史のある時期においてのみ、特定のごくわずか少数の国々にだけ出現していたにちがいありま せんから、それはいつの頃の、どこの国と、どこの国との事例ですかと聞きかえさなければ話が 138
地域的な緊張緩和のためにとり得る政策の幅が広くなる。そう解釈した「フィンランド化 は、その前提と論理において、条件を異にするその他の国にも、おそらく積極的な意味をも ち得るだろう。 この文章が世界のどこかよその国に対しての忠告ではなく、日本国民に対する語りかけであ しよ、つよ、つ り、慫慂 ( 勧誘 ) であることは自明の理です。すなわち、「条件を異にするその他の国」が日本を 除く他国を指すのではなく、もちろんのこと日本を含むという語法のもとに、結局のところ、日 本そのものを意味していること明らかでしよう。 日本よ、フィンランドのようにあれかし、とのお説教です。 犯 ゆえに、 この論理の大前提は、フィンランドが完全に中立を保っているのかどうか、その事実 戦 認定でなければなりません。そこで、加藤周一は自分の「短い旅行の間」に得た「印象の要点」 すを次のように言いきります。 渡 売 要するに、政治的・軍事的・経済的・文化的にみて、フィンランドはソ連から独立してい 連 る。フィンランドのソ連への「従属」を前提として「フィンランド化を語る西側の習慣 を 国 は、もし誤りでなければ、極端な誇張である。 祖 章 第しかし「誤り。であり「極端な誇張。であるのは、実は加藤周一の「短い旅行」で得た「印
いのです。すべて正当な観察であり、訂正の必要はありません。にもかかわらず、新聞とテレビ は、向こう側の言い分だけがもっともであると肩を持ちました。 あわ そのため政府は慌てふためいて大臣の首を差し出し、相手側のご機嫌を伺って膝を屈め、身を 屈し、両手を突いて平伏しました。 現在、こういう 状況にあるわが国は、果たして真正の独立国家と言えるでしようか。他国の言 いなりになる国は、真っ当な独立国家ではなく、従属国家と規定されなければなりません。この 卑屈な上目遣いのご機嫌伺いは恥辱の極みです。 事柄をはっきりさせるために申し添えますが、こういうふうに、大臣の首を差し出せという声 が、国民の中から沸き起こったことは一度もありません。国民が謝罪せよと申したことは断じて ありません。これはたいへんおかしい、と国民は思いつづけてきました。どこか大筋で間違って いると、国民のすべては、なんとなく、もやもやした割り切れない気持ちでいました。そのよう に冷静な国民の意向を踏みにじったのが、ごく一部の売国奴なのです。 売国奴とは国を売る者であり、国を裏切る者です。国を裏切るとは、すなわち、国民を裏切る ことです。そして国民を裏切るとは、つまり、国民を卑しめることなのです。私たち国民は彼ら さげす 売国奴から蔑まれているわけです。 「悪魔の思想」は、なぜ生まれたのか このような、日本という国家を、ということはつまり、その本体である日本国民を、かぎりな と、つ しんせい