大正凵年 1 月下旬 日本共産党についての極東部上海会議一月テーゼ 大正凵年 5 月中旬 日本の労働組合運動についての五月テーゼ 大正年 3 月中旬 日本問題についての決議 ( モスクワ・テーゼ ) 大正年 3 月凵日 日本代表団の報告にたいする決議 日本共産主義グループの活動についての指令 大正年 3 月中旬 大正年 3 月下旬 日本問題についての決議 日本についてのテーゼ ( いわゆる二十七年テーゼ ) 昭和 2 年 7 月日 昭和 3 年 5 月 4 日 日本共産党の当面の任務 昭和 3 年川月 2 日 日本共産党当面の任務 ( テーゼ ) 昭和 3 年川月日 日本に於ける労働組合運動 ( 決議 ) 昭和 5 年 1 月 日本共産党についての決議 昭和 5 年 2 月 6 日 日本におけるさしせまった選挙と共産党 し 日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ ( いわゆる三十二年テーゼ ) 誰 昭和 7 年 4 月 家 国 テーゼ ん 以上のように、何回も重ねて、しつこく似たような指令や決議や方針書を出しています。 コミンテルン 章国際共産党組織にこれほど重要視されたのは、事実の問題として日本だけなのです。まるで しそう コミンテルン 第国際共産党組織の主要な任務は、日本共産党を監視し、教育し、指導し、指嗾し、日本共産党を シャンハイ
フランスフランス共産党は第二次大戦中に非合法化された。 イタリア一九二六年一一月に特別治安維持法が成立し、イタリア共産党は地下活動に入っ ドイツ 一九三三年三月九日、ドイツ共産党は非合法化された。 西ドイツ一九五六年、ドイツ共産党は連邦憲法裁判所により違憲と宣告せられ、解散せし められた。 アメリカ合法的なアメリカ労働者党と別に、地下活動を続けていたアメリカ共産党は一九 二三年に解消した。一九三〇年にアメリカ労働者党は共産党と改称した。このア メリカ共産党は一九四三年、非合法化を予測して解党した。一九四五年七月に再 建されたが、一九五六年のスターリン批判により打撃を受け、解体状況に追いこ まれ、ようやく一九六〇代以降に蘇生したものの方向を模索中である。 一九二〇年、カナダ共産党は非合法化された。一九二一年、カナダ労働者党とし て再組織され、のち共産党と改名した。このカナダ共産党は一九三一年に非合法 化されたので、一九四〇年にはカナダ労働進歩党と改名した。 じよ、つと、つ スマート 進歩的文化人の飽きもせず常套とする論法は、世界中の近代国家はみんな合理的に運営されて いるのに対し、日本だけが、わが国だけが、世界の大勢にそむき、世界の進行に遅れ、愚かな程 度の低い段階にとどまっているのだという貶めです。もちろん、自分の国にまだ至らぬところが カナダ おとし 184
そもそも遠い外国で、日本の実状をよく知らない連中によって作成された文書に、誤りがあっ えり ても当然ではないかと、首をひねった人さえないのです。ひとり残らずの左翼が襟を正しておし いただきました。批判精神を発動した人なんか絶対に見あたりません。「三十二年テーゼ」は日 本の左翼にとって神のお告げでありました。 そこではじまったのが、「三十二年テーゼ」に自分がいかに忠誠を誓っているかを誇る信仰競 争です。左翼学者がこれこそ自分の使命であると痛感したのは、「三十二年テーゼーを物差しに 使って、日本近代史がいかに暗黒社会であるかと暴きたてる立論でした。近代日本は「三十二年 テーゼ」が罵っているとおりに悪虐無道であったと非難し、それによって「三十二年テーゼ」が 完全無欠に正しいと喚きたてる論証ごっこです。 「三十二年テーゼ」は、日本の左翼人にとって、絶対的な心の拠り所となりました。「三十二年 テーゼーと食いちがう議論をする者は、すべて邪教に迷う異端の輩です。「三十二年テーゼーに びったりの理論を組み立てる人こそ、真理に忠実な本当の学者と見なされます。 エネルギー そのために費やされた精力は莫大な量に達しました。正統を以てみずから任じる学者たちが 集まって共同執筆した『日本資本主義発達史講座』 ( 昭和 7 年 5 月日ー 8 年 8 月 % 日・岩波書店 ) は、 その集大成であり金字塔です。 すでに「二十七年テーゼ」が与えられていたのを土台とする″研究〃を、「三十二年テ 1 ゼ」 によって色揚げした苦心の作品なのですが、なんとまあその手廻しの いいこと、いや失礼、勤勉 シャッポ 努力の真摯な探究ぶりには、思わず帽子を脱がざるをえませんね。この『講座』の柱となった論 しんし ののし わめ やから
どういう顔つきで辞令書を受けたのでしようかねえ。自叙伝におけるこのときの呼称は、まだ 「天皇」と呼び捨てですが、それからさらに一五年経って文化功労者として顕彰されるにおよび、 初めて「天皇陛下」という敬称を用います。試みにちょっと年表にしてみましようか。 昭和年翕歳〉川月『戦争の放棄』を書く。天皇は民主主義の根本理念に反する、と記す。 昭和年〈芻歳〉川月『天皇制』を書く。あらゆる理屈を舞わして″天皇制〃を徹底的に弾劾 、と主張する。 し、天皇制を維持する理由はない 昭和肪年歳〉川月最高裁判所長官。自伝には「天皇による任命」と記す。 昭和れ年〈間歳〉Ⅱ月勲一等旭日大綬章。自伝には「天皇陛下からーと記す。 男 昭和団年〈四歳〉Ⅱ月文化功労者、自伝には「天皇陛下から」と記す。 し 蹂昭和年歳〉Ⅱ月旭日桐花大綬章。自伝には「天皇陛下から , と記す。 神昭和浦年〈新歳〉Ⅱ月文化勲章。自伝には「天皇陛下の前で」と記す。 の昭和年〈歳〉 5 月国際科学技術財団理事長。自伝に「皇太子殿下と妃殿下のご臨席を願う」 と記す。 め の 達 " 横田喜三郎記念室〃に展示すべきもの 栄 このようにあざやかな豹変を演じるわけですが、二冊合計一〇〇七頁におよぶ厖大な自伝のど 章 第こを探しても、自分がかって論陣をはった″天皇制批判〃を撤回するとか一部修正するとか、そ ばうだい 151
もりたろう 文の集録である山田盛太郎の『日本資本主義分析』 ( 9 年 2 月幻日・岩波書店 ) は、左翼人の間にお いて最高至上の教科書となりました。 この六十数年間、わが国の左翼人、戦後の進歩的文化人、そして現代の反日的日本人、彼らが 書きちらした近代日本についての″批判〃は、すべて「三十二年テーゼ」が指示した方向を忠実 に守っています。いろいろ手のこんだ理屈を並べてはいても、「三十二年テーゼーをはみだした 例はありません。彼らはひとり残らず「三十二年テーゼ」の″奴隷〃たったのです。 なぜ、「三十ニ年テーゼ」が聖典となったのか では、なぜこんなひどい事態になったのか、なんとも不思議でたまらないと思われるでしょ う。それほど「三十二年テーゼ」の論理が比較拒絶的に卓越していたからなのか。いや、けっし てそんなことはありません。「三十二年テーゼ」は鼬の最後っ屁みたいな論証のない言いっ放し です。近代日本を糞味噌に弾劾するだけの罵倒録にすぎません。 この文書を読んで、文書の内容に感服して衝撃を受けて改宗した人など世にありえないでしょ う。説得力もなく、迫力もなく、表現力に秀でているわけでもありません。問題は文書の内在価 コミンテルン 値ではないのです。それが国際共産党組織によって発行されたという、ただ一点にこそ、無条件 んに尊崇された理由があります。 コミンテルン 章日本の左翼人は国際共産党組織に対して理も非もなく無批判に平伏しました。だから、そのお コミンテルン たま 第墨つきである「三十二年テーゼーは天下至上の尊い賜わりものとなります。国際共産党組織はこ こ いたち
しておりません。日本に対してだけ、国際共産党組織は格別に念入りに干渉したのです。 こう ここに村田陽一編訳『コミンテルン資料集』 ( 昭和年Ⅱ月日ー年 3 月日・大月書店 ) という浩 瀚な資料の集大成があります。全六巻に索引などの別巻が加わって、四〇〇〇頁を越す大冊で す。この中から国際共産党組織が発行した方針書と見まちがうような文書を探してみましよう。 メッセージたぐ もちろん挨拶の類いは省きます。すると結果は、こうなるんです。 七頁 一九二四年七月八日 イタリア共産党行動綱領 三頁 ドイツ共産党の任務について 一九三〇年三月 ベルーの共産主義者の同志諸君へ /. 九頁 一九三〇年六月 中国問題についての決議 一七頁 一九三一年七月 中国共産党の任務についての決議 一七頁 ラテン・アメリカの革命運動についてのテーゼ草案一九二九年三月 し 誰 これだけです。イタリアの場合は、ファシズムと闘え、という励ましであって、イタリアとい 家 甅う国家や社会についての論及は一切ありません。ドイツについても、社会ファシズムに攻撃を加 わず はつば ん えよ、と発破をかけるための僅か四〇〇〇字あまりの檄文にすぎません。ベルーに対しても共産 こ 章党の結成をうながすための初歩的な指南書です。支那については現段階に何をなすべきかのお説 第教です。だから、多少ともその国、その地域について、政治と経済との両面から論じた方針書 かん llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll コミンテルン コミンテルン チャイナ ( 日付けなし )
『近代日本社会事業史文献目録』 ( 昭和年 3 月 5 日・日本生命済生会 ) が刊行されています。近代日本において社会福祉への貢献がどれほどさかんであったか、くだ くだしく説明する必要がないではありませんか。それを大塚久雄は「いまだ見出されない」と一 言で全面的に否定するのです。事ここにいたれば、大塚久雄の錯乱は炬 ( たいま 3 をもって照 らすがごとく明瞭ではありませんか。 大塚久雄が「近代日本は近代以前」と信じた理由 いや、もちろん大塚久雄はけっして錯乱してもおらず、強度の鬱症におちいっているのでもあ りません。そうではなくて彼は牢固とした信念を吐露しているのです。彼のふかく信じるところ 『社会福祉古典叢書』既刊六巻 ( 昭和浦年 6 月ー年川月・鳳書院 ) 『戦前期社会事業史料集成』全二十巻年 4 月ー 9 月・日本図書センター ) 『戦前日本社会事業調査資料集成』既刊八巻 ( 礙年 3 月ー平成 5 年 4 月・勁草書房 ) 『戦前期社会事業基本文献集』全十五巻 ( 平成 7 年 1 月ー 6 月・日本図書センタ↓ いずれも書名にうたうように昭和二十年より前の文献であり、原資料の復刻であること言うま でもありません。また、書誌としては、 ⅢⅢ ろ、つこ うっしよう
こけおど 日本資本主義虚仮威し論、日本資本主義張りぼて論、あらゆる疑惑を詰めこんで成ったのが「三 おとし 十二年テーゼ」の貶め・卑しめの論理でした。 以上が「三十二年テーゼ」の出現をうながした発想の根源です。 第一、日本を混乱におとしいれるための扇動。 第二、日本人の精神を骨ぬきにするための弾劾。 第三、日本に対する復讐心を満たすための中傷。 まがいもの 第四、人種差別の意識に発する日本社会偽物論。 これら四つの要素によって捏ねあげられたのが「三十二年テーゼーです。 そしてその光源と目されるものは、日本よ弱くなれ、と祈るスターリンのおどろおどろしい呪 いなのです。「三十二年テーゼ」はスターリンが日本にかけた呪いでありました。その「三十二 年テーゼ」に平伏して復唱している左翼人、進歩的文化人、反日的日本人、彼らは、かけられた じゅじゅっ 呪いのまま機械的に動く呪術人形であると見なしうるでしよう。 こ
よこたきさぶろ、つ 〈反日的日本人の第一号・横田喜三郎への告発状〉 じゅうりん 第五章栄達のため、法の精神を蹂躙した男 明治 29 年生まれ。東京帝大卒。東 大教授、最高裁長官を歴任。昭和 56 年、文化勲章受章。ヾ東京裁判史観″ の初代煽動者。平成 5 年没。
明治三十八年から数えて四〇年あまり、ロシア人は復讐心を燃やしつづけてきました。できるこ となら日本および日本人を呪い殺し、この世から抹殺し消減させたい。 この根ぶかい怨念を考慮 に入れずに日露の歴史は語れません。 昭和二十年八月十五日以後も戦闘をつづけて日本軍を追いつめたこと、五七万数千の日本人捕 虜を無法にも酷寒のシベリアへ連行し、無慈悲な強制労働を課して五万数千もの死者を出したこ と、ポッダム宣言を無視して北方領土を占領したこと。これらの暴戻残虐は、日本を相手とする ぼっぜん 場合なら何をどうしても構わないのだと信じる勃然たる復讐心のなせるわざでありましよう。 まったくもってスターリンの言ったそのとおりなのです。ロシア人はこのとき、ついに日露戦 争の仇を討っことができたんですね。この間の事情を、日本人は因果関係の連鎖として理解すべ きではないでしようか。 そのような怨念と憎悪と復讐心が、胸の底でくすぶっているロシア人によって起草されたのが しかも大綱を指示したのが復讐論者のスターリンですよね。「三十二年テーゼ」は、日本人の 根性をくじくために送りつけられた毒薬であること明々白々でありましよう。 人種差別という生理的反応を見逃すな 第四に、白色人種であるロシア人の黄色人種である日本民族に対する人種差別の蔑視が、これ また奥底で大きく作用しています。 「三十二年テーゼーです。 ぼ、つれい