皇室弾劾の論拠ーー「てっていした民主主義ー 横田喜三郎のその著作は『戦争の放棄』 ( 昭和年川月日・国立書院 ) です。その第一章には次の ように記されています。 民主主義のてっていという点から見れば、日本の新憲法などは、まだまだ不十分であり、 微温的というべきものである。一つの例をあげてみれば、天皇制を維持したこと、つまり君 いうまでもない。しかし、君 主制を保存したことがそうである。天皇が君主であることは、 主の存在は、てっていした民主主義とは、あいいれないものである。君主は人民に対立する もので、人民に対して特別な地位に立ち、特別な身分を有し、また特別な権限を有する。し かも、君主は一般に世襲である。すくなくとも、天皇は世襲である。かように、特定の人が 世襲によって特別な地位、身分、権利を有することは、民主主義の根本理念に反する。けだ いっさいの人が平等なものと認められ、 し、民主主義の根本理念は平等ということにある。 平等な機会を与えられ、平等な権利と義務を有することにある。 ( 『戦争の放棄』 6 頁ー 7 頁 ) 昭和二十二年という時点において、日本をのそく世界中の一国のこらず例外なく「てっていし た民主主義」を施行していたはずはありませんから、つまり、「てっていした民主主義」は、世 界史のある時期においてのみ、特定のごくわずか少数の国々にだけ出現していたにちがいありま せんから、それはいつの頃の、どこの国と、どこの国との事例ですかと聞きかえさなければ話が 138
えしやく 前に進みません。しかし、そういう具体に徹した教えを乞う丁寧な会釈は、横田喜三郎にとって 最も望ましくない迷惑な質問でありましよう。 おそらく、智力に秀でて賢明な横田喜三郎は時間をかけて世界のさまざまな類例をじっくり観 察する手間をはぶいて、その明敏にして聡明きわまる頭の中で「てっていした民主主義」とい う、この世にない理想形態を「えいやっーとばかりひねりだしたにちがいありません。なぜな ら、ごく普通の常識で考えた場合、横田喜三郎のこの論理は成りたたないのです。 ゅうずうむげ 通常の民主主義は、それほどかたくなに定義する必要のない漠然とした政体であり、融通無碍 ヴァラエティ に運用される多様性のある組織であること言うまでもありません。 民主主義とはかくあるべしなどという細則を定めた厳格な世界憲法があるわけではなく、その 男 国その国の独自な伝統にしたがって、個性的に施行されています。イギリスや、オランダ、デン し 蹂マーク、タイ、ベルギーなどのように王室を戴いている民主主義国もあって、君主と民主主義と 神は両立していますよね。大統領制もその国によりけりで、アメリカのように強い権限を持つ国も シャッポ のあれば、フランスやドイツのようにお飾り帽子の国もあるという次第で、一概に一一一一口えません。 こういう具体例にわずらわされないために、横田喜三郎の考えだした決め手言葉が「てって め い」です。この、いくらでも極端にふくらませることのできる「てっていした民主主義ーという の 達 概念に照らして、やっとのこと天皇制否定の論理が紡ぎだされるという仕掛けです。横田喜三郎 栄 章の進んで認めるところによれば、民主主義にも「てってい」もあれば、また「微温的」もあり、 第そして、おそらくその中間になおいくつもの段階があるのでしよう。 つむ こ 139
〇新憲法のもとにおける、新しい天皇制では、 ( 中略 ) いぜんとして、民主主義の根本観念に ( 『天皇制』頁 ) 反し、その基礎を無視しているところがある。 ( 『天皇制』端頁 ) 〇日本の国がらを理由に、天皇制を弁護することも、十分な根拠はない。 〇もし戦争に対する正式な最高の責任者を求めるとすれば、それは天皇である。 ( 『天皇制』頁 ) 〇これによって、政治上で、天皇制は常に望ましい機能をはたすものだという主張の正当で ないことがわかる。かえって、望ましくない機能を営むことがあきらかにされた。〈と放言し ( 『天皇制』頁 ) ているだけのことですが〉 〇これらのことを総合してみれば、天皇制を維持する理由はないといわなくてはならない。 ( 『天皇制』頁 ) ( 『天皇制』頁 ) 〇もともと、天皇制は民主主義に一致しない 〇ただ、根本にさかの・ほって、民主主義との関係からいえば、天皇制が本質的にこれと一致 ( 『天皇制』川頁 ) しないものであることは、どこまでも忘れてはならないことである。 これだけ徹底的に謂わゆる″天皇制批判〃を展開したときの横田喜三郎は数え年五十二歳以 上、見識が十分に育成して、すでに動じることなどないはずの成熟期でした。もはや若気の至り と頭をかいてすますことのできる年頃ではありません。それが一三年後には「天皇による正式の 任命」を受けて最高裁判所長官に就任します。
そのように、世の中いろいろ国柄さまざまであるのなら、あまりにも熱すぎる湯はむしろ体にⅧ 毒でしようから、わが国は健康に適した「微温的ーでゆくのも、これまた結構じゃありますまい か。アメリカは大統領制の民主主義、イギリスは王室のもとの民主主義、わが国は皇室を戴く民 世界史に関する横田喜三郎の該博な 主主義、それそれ国情に即した方針を採ればいいでしよう。 うんちく 蘊蓄によれば、他国では「君主は人民に対立するもの」だそうですが、わが国では、皇室が国民 に「対立ーした事例がないことをお忘れなきよう願いたいものです。 横田喜三郎によれば「いっさいの人が平等」であることがいたって望ましいのだそうでしよう けれど、わが国の特殊性は皇室を別格として「いっさいの人が平等ーという社会構造です。それ こうむ によって、国民がなにか大きく被害を蒙ってきましたかね。そして、その意味で「平等」な国民 の絶対多数は皇室を崇敬しております。この国民感情を横田喜三郎は断乎として無視しようとす るのでしようか。 日本人への論難と、攻撃と、糾明と、弾劾の愛想尽かし 『戦争の放棄』で皇室に言及したときは舌足らずであったとおおいに反省したらしく、横田喜三 郎は筆硯を新たに、勇躍して今度は『天皇制』 ( 昭和幻年 7 月燔日・労働文化社 ) を刊行します。一冊 ぐまい 二八七頁、全巻を挙げて日本国民がいかに愚昧であり、劣等であり、卑屈であるかを、息もっか うな せず轟々と鳴る機関のごとく唸りをたてて、批判言辞のかぎりを尽くす論難と、攻撃と、糾明 と、弾劾の愛想尽かしです。ひとりの日本人が日本国民のすべてを、これほどまで極端に卑し ′」、つ・こ、つ ひつけん エンジン だんこ
この座談会が行なわれたのは昭和二十六年ですが、北方領土の占領という生ま生ましい証拠を 眼の前にしている国民が、それでも久野収たちが唱える「社会主義の国家は侵略しないんだ」と からねんぶつ いう空念仏を信用しないのは当たり前でしよう。 共産主義ソ連が東欧諸国を衛星国にしている手口から見て、さらにこれからも「侵略するので をないか」と国民が思うのは当然です。自分が言いふらしている嘘を国民が信用してくれないの わめ に腹を立てている、喚き立てと当たり散らしは、なんとも滑稽な風景ですね。その揚句には、と うとう無茶苦茶な放言となります。 すなわち、軍備をすれば民主主義を捨てることになるのです。国民をよほど馬鹿にして舐めて かからないかぎり、こんな事実に反する暴論を吐けるものではありません。 軍備をしている国が民主主義でないのなら、ヨーロッパ諸国もアメリカも、すべて民主主義の 身 国ではないということになります。世界中に現存する民主主義国は、モナコ公国とヴァチカン教 識皇庁だけになりますかね。虚偽もほどほどにしてくれ、と言いたくなります。 意 力ところで、「侵略しないーと説教して断言しておいたはずの共産国が戦争をしかけてきた場合 の対策を、これまた久野収が教えてくれるというのですから、この絶対的な矛盾をどう理解した 意 らよいのでしようか。 喝 恫 西側に立っているかぎりにおいては潜在的脅威というのは共産主義国家ですが、共産主義 章 第 国家もデモクラシーと同じように、建前として人民の自由と平等を擁護するんだといってい ⅢⅢⅱⅢⅢⅢⅢ はったり
れは話の本筋ではありませんから省略しましよう。ここには久野収の生きてゆく方針があきらか に示されています。つまり彼は、自分が日本人であるということにこだわるような、そんなケチ なちんまりした小型の人間ではないのだそ、と、例の間接話法でほのめかしています。 インデベンデント さよう、久野収はいかなる国にも属さない独立人でありたいと願っているわけです。 必要とあれば、自分の理想を実現するためにわが国についての情報をしかるべき国に提供する ため、一働きも二働きもするつもりなので、そういう行為をス。ハイだなどと考えること自体、日 本がオクレティル証拠なのだという弁じ立てです。 幸いに、久野収は国家の機密に関与できる立場にありませんから、これは口先だけの強がりに インデベンデント すぎません。しかし、おそらく久野収は、日本の要職にある人びとが、それそれ立派な独立人 に成長し、どの国に向かっても、とは言うもののお目当ては共産主義諸国でありましようが、先 身 方の便宜をはかるために大働きすることを願っているのでしよう。 識久野収の教理は、次のごとくですね。 九「自分の理想を実現をするために他国の便宜をはかる行為をスパイと呼ぶのは間違いであるー インデ。ヘンデント それが光栄ある独立人の行動様式であり、ゆえにこそ国籍なんて屁の河童、気にしない気に 意 しない心境に達しなければならないのです。 喝 さきほどは戦前の日本を「偽の民主主義」と罵り、民主主義を尊重するかのごときロぶりを示 恫 章した久野収ですが、あのときは勢いにかられて民主主義を礼賛するかのような調子になりました 第けれども、実は本音のところ、現行の民主主義には満足していないんです。 ひとはたら ふたはたら 189
例へば、現在までのわが国の社会経済的構成が果して単なる封建的絶対主義に過ぎないも Ⅷのであるか、例へば、非自生的な系譜をもつにせよ、ともかく相当に巨大な規模において展 Ⅷ開されて来たところの独占的産業資本と、それに対応して形成され来ったところのプロレタ リアートの存在といったものを一体どういふ風に理解するかといふ問題のごときである。 ( 同前頁 ) Ⅷが、かうした点は本稿では論ずる積りはない。 おうむ さきに「三十二年テーゼーを鸚鵡がえしに口ずさんだ部分が、日本資本主義論争における講座 しゅうは 派への義理立てであり、後半のこの部分においては、講座派と対立する労農派に秋波をおくって いるわけですが、しかし今のところ、それ以上に「深く考ヘーる気はないようです。だがいずれ にせよ、日本がれつきとした近代国家であるという認定だけは動きません。ところが、実はここ から大塚久雄の説教がはじまるのですけれど、近代日本国家において存在するのは「独占的産業 資本」と「プロレタリアート」だけで、実は最も大切なものが欠けているのです。 近代日本の達成を零と決めつける冷酷な裁定 あま 吾が国では民衆の間に近代的・民主的人間類型を余り見ることなく ( 中略 ) 従って又真実に 近代的・民主的政治的主体も亦十分に結集されることがない : ( 昭和年 9 月川日『近代化の人間的基礎』白日書院、 6 頁 ) わ ゼロ また ふう はた したが また
( 『私の一生』跚頁 ) とした。 これが最後のひと踏んばりでしようか。この論理だけは今もけっして譲らないそ、という面子 にかけての執念ですね。しかし困ったことに、それでは戦後の日本は毫も民主主義ではなかった と判断しなければなりません。いくらなんでも、それほど乱暴な現実の否認はでぎないでしょ う。そこで横田喜三郎はこの難問を一挙に解決する論理を持ちだします。 もっとも、国民の多数が天皇制を維持することを望むならば、これを維持することも民主 ( 『私の一生』頁 ) 主義であるともいえる。 蹂そんならそうと初めから、と唱う俗謡の一節ではありませんが、それなら、なぜ日本国憲法に 神記された「国民の総意」という重要な文言を、初めから一顧だにせず、無視してかかったのでし のよ、つか いずれにせよ、これで「両立しないーはずの皇室と民主主義が「両立ーすることになってよか たったですね。理屈はなんとでもつけられる便利な合わせ物であることがよくわかりました。 かんゼっ 達思えばわが国は言論の自由が無限であるという点で、世界に冠絶する模範国ですね。 章そこで、ぜひともお聞きとどけいただきたい提案があります。国立国会図書館の一室かあるい 第はどこか然るべき場所に、横田喜三郎記念室を設け、言論の自由を象徴する施設としたらいかが ⅱⅢⅢ ⅢⅢⅢⅢⅢ川
政治の方は、形式的でインチキですよ。なぜインチキかと言うと、異質的な人間を、ただ の一票として勘定し、それを何らかの宣伝手段によって操作して、票を集めて当選したの ひじよう が、国政に対して、いわば素人として参加するという形になって、それもまた非常に不徹底 ( 『対話史』 2 巻頁 ) なんですね。 誰でも彼でも、ひとしなみ無差別に一人一票、という民主主義の根本をなす制度が久野収にと ってはお気に召さないのですね。万人を平等と見なさないで、社会は「異質的な人間ーの集団で あると考えるとき、当然のこと、程度の高い人と程度の低い人とを差別しなければなりません。 ここに久野収の差別意識がはっきり現われています。 くろ、つと だんこ 政治はスターリンのような卓越した玄人に任せれば、彼は素人の差し出口など断乎として排除 し、最も高度な政治を行なってくれるでしよう。久野収は民主主義にかぎりなき軽蔑の眼を向 どうけい け、共産主義の政治を憧憬し夢見ているのでありましよう。
第 5 章栄達のため、法の精神を蹂躙した男 きっきゅ、つじよ 以上に摘記したのが、栄光にみちた横田喜三郎の晩年における鞠躬如たる出処進退なのです。 この横田喜三郎なる人物は、昭和二十二年以降、次のように牢固たる信念を吐露しつづけた人で ありました。 〇天皇制を維持したことは、民主主義の根本理念に合致しないといわなくてはならぬ。 ( 昭和年川月日『戦争の放棄』 7 頁 ) 〇新憲法の規定における「国民」も、君主から区別され、君主に対立する人民でなくてはな らない。つまり、天皇から区別され、天皇に対立する人民のことである。 ( 昭和幻年 7 月日『天皇制』頁 ) 〇いわゆる日本の国がら〈注・皇室の推戴を指す〉なるものは、実は封建と専制の結果であり、 無知と奴隷的服従が日本の人民の自然な発達を阻止したために生じた奇形状態にすぎない。 ( 『天皇制』頁 ) 〇象徴は代表と異るから、天皇は日本国を代表したり、日本国民を代表したりするものでは ( 『天皇制』頁 ) 〇天皇制 ( 中略 ) の結果として、日本の思想も政治も行動も不健全になり、病的になり、 ( 『天皇制』頁 ) 〇ほんとうならば、もう天皇とか、天皇制とかいわないで、なにか別な名で呼ぶのが正当で ある。 ( 『天皇制』Ⅲ頁 ) すいたい 149