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検索対象: 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人
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1. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

近代資本主義的だけではなく、歴史的により高い段階への移行をも亦同時に含めてゐるので ある。 ( 『近代化の人間的基礎』序の川頁ーⅡ頁 ) 戦後進歩的文化人の最初の原型 では、その桃源境を連想させる「より高い段階ーとは、 か。それを推察するための材料は、次の一節でしよう。 人類の経済生活或ひは社会の経済的構造は悠久な世界史の過程の裡にあって、幾つかの発 達段階を経過してゐる。大づかみに言へば、古代アジア的、古代奴隷制的、中世封建的、近 ( 『近代化の歴史的起点』れ頁 ) 代資本主義的の諸構造段階がそれである。 要するに、型どおりの唯物史観に基づく構想らしいのですが、慎重な大塚久雄は「より高い段 階」とは何かについて、この時期、つまり昭和二十二年現在においては、ついにひとことも明言 しませんでした。まるで謎解きのように読者に首を傾げさせ、腕組みさせ、考えこませ、焦らし て迷わせるなんて悪趣味ですねえ。 ようやく率直に解答を明示したのは、なんと二二年後のことでした。『大塚久雄著作集』第八 巻 ( 昭和料年川月 9 日・岩波書店 ) の「後記」において、次のように種明かしをします。 ⅢⅢⅢⅢⅢⅡⅢ ⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅢⅱⅢⅢ ある かし いかなる社会構成を指すのでしよう また 290

2. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

によれば、近代日本は「近代〈以前〉的」なのです。前近代なのです。 この一点、すなわち近代日本は近代以前である、という断定を動かすべからざる真理であると 信じこめば、近代以前である近代日本に近代科学が成立しなかったのは当然であり、近代以前で ある近代日本に社会的関心が見出せないのも当然なのです。近代日本は近代以前の荒野であった と信じる以上、それが真実であったか否かをことこまかに調べる必要はありません。 さきほど挙げた多くの叢書に収められている文献は、そのほとんどが公刊されて世に伝わって いるのですから、図書館と古書店で探せば、すなわち多少の労を厭わなければ読むことのできる ものばかりです。 しかし大塚久雄は探そうともせず、読もうともしませんでした。大塚久雄の考えるところ、そ んなものはどこにも存在するはずがないのです。理由はただひとっ簡単明瞭、近代日本は近代以 前だからです。 近代以前の社会に近代科学があるはずはない。近代以前の人間に社会的関心があるはずはな がい。この″はずがない〃論から大幅に跳躍して、それを「見出されないー論の断言調におきかえ 誰 たのが「大塚久雄ーの論理なのです。 家 では、近代日本は近代以前である、という彼にとっての定理または公理に類する信念は、大塚 ん 久雄による独創的な発見ないし発明なのでしようか。いや、そんなことはありえません。この断 章定がもし大塚久雄による前人未踏の発見であるならば、そう悟った光栄ある先達は彼ひとりだけ 第であり、他の日本人はまだそう思うまでに至っていないはずですから、大塚久雄はその発見を皆

3. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

徹底した日本近代全面否定論 明治維新にはじまって飛躍的に発展したわが国の近代社会を、これは本当の近代と言える実体 おとし さげす にせもの を持たない偽物であり、近代以前である、前近代であるとみなし、貶め、蔑み、卑しめる論評 は、一部であまりにもしつこく言い古され、今では耳に胼胝ができているくらいですが、この罵 おおっかひさお もうげん 倒論法を最も極端にまで突きつめ、正気を疑わせるほどの妄言を吐いたのは、大塚久雄です ( 第 十三章参照 ) 。その究極に達した日本近代全面否定論は、次のごとく徹底していました。 わが国民衆の示しつつある人間類型は、簡単に封建的といい切ることはできないいっそう ~ 複雑な、いわばアジア的なものであると思うが、今われわれはこの点に深く論及する余裕を し カ Ⅷもたないので、その詳細な社会学的分析は今は割愛せねばならない。が、少なくとも近代 誰 ~ 「以前」的のものであるということは殆んど説明を要しないことであろう。おそらく多くの 家 甅一知識人たちは、この両三年の間にもはや、いやというほど思い知らされたことであろうと想 ん 像する。そこには近代人に特有な内面的自発性も見出されない。市民社会特有の「公平ー こ の特性も見出されない。近代科学成立の基盤たる合 あの中世的な「公正」ではない 章 - 理性も見出されない。さらに近代精神を根底的に特徴づけているあの民衆への愛と尊敬、名 第 こ 2 前近代という蔑称 べっしよう

4. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

「近代化ーといふ語は、このごろの「民主化」といふ語と同様に、ここでは或る程度漠然 たる意味に用いられてゐる。つまり、封建的なものの崩壊を資本主義的なものの成立といふ しよう 厳密な意味での「近代化」のみでなく、さふしたものの歴史的により高い段階への止揚とい 近代化の歴史的起点』序の 1 頁 ) ふ事実も亦含まれてゐる。 国 大塚久雄の史的構図における「近代化ーの含意は、「資本主義的なものーが「歴史的により高 し 定 い段階への止揚」される動きなのですから、単なる「近代化ーではなく「近代化」を「止揚ーす 否 ややこしくも複雑な概念であるようです。しかも、その進み行きは「事 をる「近代化ーという、 おぼ 本 実ーとして実現するのだという確信が強調されます。この「より高い段階ーという朧ろ語法は、 近よほどお気に入りらしいですね。 章 なお 第 尚こ & でいふ「近代的」といふ語は或る程度莫然たる意味のものであって、つまり、単に こ いよいよ話が佳境に入ってきました。 「近代化ーも「民主化ーも「真に近代的」も「人間変革」も、すべては「社会変革ーと「同時進 行的ーであることが予定されていたのです。では具体的にはどういう「社会」を目指して「変 ゆる えんきよく 革」が進むのでしようか。その方向性は、次のように穏やかで渋い輝きを発する緩やかな婉曲の 語法で暗示されます。 ⅢⅢ llllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllllll また

5. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

なんと世界に比較例を見ない恥ずべき野蛮国でありましようか。日本の近代史を批判したり弾 なさけ ちょうろ、つ ないがし 劾したり嘲弄したりわが国を蔑ろにした論客は無数にいます。しかし、近代日本の達成を情容 赦なく零と決めつける、これほどまでに冷酷な裁定は、ひとり大塚久雄の比類なき独創でありま しょ .- っ , 0 一章でも述べたとおり、「近代科学成立の基盤たる合理性も見出されない」という峻厳 きわまる断罪は、典型的な一例です。 トリ・ツク . ニ重にこめられた巧みな詐術 一章で論じたとおり、大塚久雄の見るところわが なぜ、大塚久雄はこう言い切るのでしよう。 まが 国における近代科学は彼が尊重する本来の「合理性」に基づいていないところの″似て非なる紛 もの い物〃にすぎないからです。 賊すなわち、科学にかぎらず近代日本の文化が産んだ成果の何から何まで、近代の日本人が情熱 を注いで尽くした福祉行動の隅から隅まで、それらすべては、彼が傾倒する本来の「近代精神」 し 綻に発していないところの真当な性根を欠いた偽物であると判定されるわけです。 を大塚久雄が近代日本の文化事象について完全に無知なのではないとすれば、大塚久雄は日本の 本 近代を真性にあらず、擬制であり、擬勢であり、虚勢であり、偽物であり、空虚な張り・ほてにす にら 近ぎないと睨んでいるのであると理解しなければなりません。世に喧伝されること久しい「大塚史 章学」を支える一脚は、近代日本偽物論なのでありましよう。とにかく、大塚久雄は日本の世の中 第でごく普通な人間関係の習慣が大嫌いなのです。 ゼロ しよ、つね 285

6. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

もったい 明治以来の日本人が苦心の末に築き上げた近代社会を全面的に否認し、近代国家 である日本は実は近代社会ではなかったのだと弾劾したのが大塚久雄です。近代 の日本人には近代精神がどこにも見出されないのだと、それほどまでに徹底的に ぶべっ わが国民を侮蔑した例は他にありません。日本には近代科学を成立させる基盤で あるところの合理的思考がなかったと断言するのですから、我が国の近代科学は うそはったり すべて虚構虚偽だったということになります。このような妄一言が生まれた根拠を 探ってみようではありませんか 勿体をつけるだけの「大塚史学」 大塚久雄については、そのエッセンスを第一章で詳しく論述しましたので、いくらか繰り返し になりますが、反日的日本人の代表選手でもあり、その語法は五〇年に渡り、大塚久雄の亜流に 受けつがれてきたわけでもありますので、念を押すことになりますが本章で再度、みっちりと批 判することにいたします。 おとし 大塚久雄は、昭和二十年代以降、明治以来のわが国民が「近代〈以前〉的」存在であると貶 さげす あざわら ののしみくだ ちょっとみ め、蔑み、嘲笑い、罵る見下しを一貫して論述しました。しかし、その経済史的認定は一寸見に じぐざぐ ははなはだしく曲折の道をたどって最初はいささか理解にとまどいます。事実、一方で大塚久雄 ゃぶさ は日本資本主義が十分に発展してきた歴史経過を見とどけることに吝かではありません。 きつくっ へきえき このひと独特の不必要に持ってまわった詰屈たる語法には辟易しますが、言わんとするとこ 280

7. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

そこには近代人に特有な内面的自発性も見出されない。市民社会特有の「公平」ーーあの の特性も見出されない。近代科学成立の基盤たる合理性も見 中世的な「公正ーではない 出されない。更に近代精神を根底的に特徴づけてゐるあの民衆への愛と尊敬、名も無い民衆 また の日常的経済生活を深くも顧慮するところのあの社会的関心も亦未だ見出されない。 ( 昭和年 9 月川日『近代化の人間的基礎』白日書院、本文 7 頁ー 8 頁、『大塚久雄著作集』 8 巻Ⅲ頁 ) ないがし 繰り返しますが、日本の近代史を批判したり、弾劾したり、嘲弄したり、わが国を蔑ろにし をた論客は無数にいます。しかし、近代日本の達成を情容赦なく零と決めつける、これほどまでに 冷酷な裁定は、ひとり大塚久雄の比類なき独創でありましよう。 近大塚久雄は近代日本を批判する視点として「零史観」を創始した先覚者たるの光栄をになって 章います。この零史観が模倣者により、言葉ころがしのすえ暗黒史観になり、さらには調子に乗っ 第た誇張者によってふくらまされ罪悪史観にまで突っ走ります。 こ 大塚久雄が描きだした近代日本の実相は、次のごとく人間界とは思えぬ悲惨な野蛮の地獄図で す。すでに引用してご記憶に残っている部分ですが、日本言論史上に類例のない極端をゆく冷酷 無惨の裁定ですから、永遠に記憶すべき記念碑的な論断として繰り返しの引用を敢てする非礼を お許しください。大塚久雄は、近代の日本の社会と文化と人間像を、次のように摘発し糾弾しま ゼロ さら ゼロ ゼロ あえ 299

8. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

目次 まえがき 1 第一章こんな国家に誰がした 今も続く、スターリンの呪縛 「悪魔の思想」の誕生 私が日本共産党で学んだこと 日本の左翼だけが″国賊〃となった不思議 べっしよう 前近代という蔑称 近代日本人、合理性の証明 大塚久雄が「近代日本は近代以前」と信じた理由 反日的日本人の聖典ーーー「三十ニ年テーゼ」 なぜ、「三十二年テーゼーが聖典となったのか引 お守り札となった「前近代」と「半封建」肪 ④ソ連の呪いがかけられた国・日本 日本以外の国に、ソ連はテーゼを連発しなかった不思議 ( 2 ) ( 3 ) のろ じゅばく

9. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

ね。「サラリ ーマンは、気楽な稼業ときたもんだ」 ( ドント節 ) 、それになそらえて言うならば、近 代史家は気楽な稼業ときたもんだ、ということになります。日本近代史を悪者あっかいするため の論法が、ありがたくも、すでに与えられているんですものね。 つまり、前近代、そして、半封建、そこへマトを絞って、やいのやいのと論じたてたらそれで によいぼう れいげん 済むんです。孫悟空ならぬ左翼史家は、幸いにも万能の如意棒を与えられました。霊験あらたか なこの如意棒の両端には、前近代、と、半封建、このふたつの刻印が捺されてあります。 これをふりまわしながら近代日本史を突いて、 卩いて、打って、貶したら、ここに批判的学問 いっちょう上がり。かくしてわが国に独特の暗黒史観が跳梁する破目となりました。 その典型の究極的な姿が、大塚久雄による日本近代全面否定論です。繰り返しになりますが、 大塚久雄の論法には一厘一毛も彼による独創がありません。ただ「三十二年テーゼ」を絶対の真 理と思いこんで信仰し、「三十二年テーゼーが指し示している方向を彼の流儀で復唱してみせた だけのことです。近代日本は実は前近代である。ゆえに近代的な精神は見出されない。「三十二 年テーゼ」が正しいのである以上、大塚久雄の言立てに誤りがあろうはずがないではありません か。大塚久雄は自分の信じるところを多少どぎつく述べてみただけなのです。 もし誰かが大塚久雄に向かって、貴方の見解は間違っていると忠告しようものなら、大塚久雄 はびつくりしてきよとんとして不思議そうこ 冫、だって、「三十二年テーゼ」にそう書いてあるじ ゃありませんか、と、逆に忠告者をやさしくたしなめたでしようね。そして彼はその忠告者が やから 「三十二年テーゼ」さえ勉強していない度しがたい″無学〃な輩であることを、腹の底で深く軽 ちょうりよ、つ けな

10. 悪魔の思想 : 「進歩的文化人」という名の国賊12人

別にこちらから頼みもしておりませんのに、どんな資格があってそんなに上から「教育ーを押 しつけられるんですか、などと女々しく・ほゃいてはなりません。クレージー・キャツツの谷啓が たんばくしつ 健康飲料・マミアンのコマーシャルで、「蛋白質が足りないよーと注意してくれましたように、大 塚久雄は、「近代化が足りないよ」と深く憂えてくださっているんですからね。そのためには、 国民一般ではなく特に「勤労大衆ーを重視せねばならぬのだそうです。 なによりも必要なのは生産力の主体的要因たる勤労大衆 ( 労働力 ) を古き舊き段階の人間 類型から真に近代的な生産力的な人間類型へと「教育し行く」ーーもとより最広義において ( 「近代化の歴史的起点』頁 ) ことが第一の、最大の条件であらう。 単に「近代的」というだけの掛け声では手ぬるいのであって、行きつく先は「真に近代的ーな る境地でなくてはなりません。しだいに鍋が煮つまってきました。 さて、壮厳なる目的である「真に近代化ー実現の方途ゃいかに。 繰り返して云ふやうに社会変革と人間変革とは同時進行的に遂行されなければならないと もちろん したが しか 私は考へてゐる。 ( 中略 ) 従って、社会変革に勿論密着しつ & 而も人間変革が十二分に強調さ ( 「近代化の人間的基礎』序の 4 頁 ) れねばならない 、と私は考へたのである。 ふる 288