みちょうだい 御帳台のうちで、小夜啼姫は手足を縮めた。 せめて。いとしいあの方がいれば、恐れもいくらかましになるのに。夜の間中、あの方がず っと抱いていてくれさえすれば。 まぎ それなのに、嵐王は行方さえ知れないのだった。鴉の家が取りつぶされた騒ぎに紛れたまま もう、生きてはいないのだろうかと思うたびに、胸が潰れそうになる。しかも、よくない噂 が都に出回っているのだ。 うえ 『ぬば玉の君さまが、主上の隠し子だとか : : : 』 すもり おうぎ ふるい女房の巣守がそうささやいたとき、小夜啼姫は思わず扇を取り落とした。心に鏡があ るとすれば、それを打ち砕かれた気がした。 ( つまり、わたくしとあの方は兄いもうと ) 母が違うとはいえ。 知らぬとはいえ、罪だ。いとこどうしでも、婚いは良く言われないのに。腹違いの兄いもう 夜とでは。 月父帝はけして許してはくれないだろう。 涙がどっと押し寄せ、小夜啼姫は袖をあてた。ふるえを堪えようとする。
つまど さよなきひめ かたん、と妻戸が鳴った気がして、小夜啼姫はひっと首をすくめた。 刻限は子の刻をまわっただろうか。真夜中だ。 つばね 寝所に彼女はひとりきりだった。女房たちが、それぞれの局へさがったのは、だいぶ前のこ とだ。 こんなことならば、誰かに頼んでともに寝てもらうのだった。真夜中に目が覚めてしまうな んて。 女房らは嫌がらなかっただろう。彼女たちは小夜啼姫がここのところ良く眠れすにいるのを 知っている。床についても、一刻か二刻ごとに目が覚めてしまう。そして、ひとたび目が覚め 夜ると、しばらく眠れずにいる。 月 きばむ 夜の闇が、いまにも牙を剥いて襲ってくるように思える。鬼が出そうだ。そうでなくとも、 こうきゅう 後宮に鬼の噂は絶えぬのに。 五喪夜船送 ( なくしょふねおくり ) うわさ 0
頭の片隅で彼女は思った。そうならばいいと願う。もう、生きてなどいたくない : 鼻をつくにおいに、少年はくすんと鳴らした鼻を指先でこすった。 「おかわいそうなことをしました。ですが、これで最後ですから」 彼は小夜啼姫の頭を支え起こした。 「ロを開けてください」 一一 = ロわれるとおりにした。抗う力は残っていなかった。 少年は指先に炎を灯す。それを、液のように彼女のロにそそいだ。 とろりとしたものがロ中に広がり、痺れるー 彼女は激しく咳き込んだ。のどが熱いーー熱い 転げ回る彼女から、少年は離れた。 足音が妻一尸から去ってゆく。 小夜啼姫は噎せ、辺り構わず掻きむしった。 あらしおう 夜 ( 嵐王、あらしおうさまーー ) 月名を繰り返す。 だが、応えはなかった。助けにきてはくれないのだった。
「ちっ ! 」 男は唸り、彼女を突き飛ばした。枕が腕に当たり、転がる。 声を限りに叫んだつもりが、かすれてものにならない。這おうにも、手が震えて、小夜啼姫 はその場に伏した。 局のほうからは、物音一つ聞こえない。この騒ぎに、誰ひとり気づかすにいるのだろうか。 はずかし 情けなさと恐ろしさに、涙がにじんだ。四の姫ともあろう身が、このような辱めを受けな ければならないなんて。 「あなたがお悪いのだ」 男はつぶやいた。 ふいに辺りが明るくなった気がして、彼女は顔を上げた。声を張り上げたが、なにも聞こえ . な . かつ」。 男は手のひらに炎を灯していた。公達のような狩発が、炎に照らされる。 夜魅せられたように、目を吸い寄せられ小夜啼姫は男を見た。 月神官のように髪を短くした男。まだ少年といってもいい。 蛇のように赤し 『わたくしを、どうするつもり』 まくら
かたん。 「ひツ」 そらみみ つまど もう一度妻戸が鳴った。こんどは空耳ではない。 涙は跡形もなく消えた。暗闇が、小夜啼姫に覆いかぶさってくる。 ひっしに手を握り合わせ、目を閉じる。鬼ならば、通りすぎてくださいませ。この舎をお渡 りになりたいのならば、どうか早く通りすぎてくださいませ : そのまま、どのくらい経っただろうか。 何事も起こらすにいたようだった。あるいは気を失っていたのだろうか。そのあいだに、鬼 は去ったのか。 夜に慣れた目には、いつも通りの部屋しか映らなかった。部屋には彼女ひとりしかいなし 、では、あれは風 ため息をつくと、どっと汗が吹き出した。やはり気のせいだったのか。それならば、よかっ こどう 鬼 月 鼓動がはやまり、小夜啼姫は荒く息をついだ。起き上がり、額をそっとぬぐう。 その腕が、不意に背後からとられた !
涙ぐみそうになって、小夜啼姫はロを押さえた。声を立てることさえ、魔を呼ぶような気が する。きっと鬼は、夜に起きている者を、犬のようにめざとく嗅ぎつけてやって来る。 くちなししゃ 梔舎で、また鬼の気配がするという。 亡き九重典の霊が出るとの評判だ 0 たかの舎が、このところにわかに騒がしくな 0 たと一言うのだ。 とうぐう′ ) しょ 少し前までは、焼け落ちた東宮御所に鬼が出た。その鬼が、梔舎に移ったのだろうか。 たちばなしゃ この橘舎は、そこから遠いとはいえ、恐ろしさには代わりがない。 みやこ ( 都にも、鬼の噂があるのだわ ) さら からすおうおとど 鴉王の大臣が、首を晒されたという。その無念から、都は曇りばかりがつづくのだと、女房 らが噂していた。 ( ーー怖い ) おえっこら かろうじて、彼女は嗚咽を堪えた。どうして、そんなにも鬼がいるのだろうか。都の内にい だいり るのに。なによりも安全な内裏にいるはずなのに。 都なんて大嫌いだと彼女は思う。毎夜、こんなに恐ろしい思いをしなければならないなん て。 あらしおう ( 嵐王さま ) みやこ
そのまま起き上がれずに、ただ息をはずませた。あまりのことに、すぐには何も出来そうに たった二歩で、森まで駆けてしまった : ・ いま、たしかにこの身で行ったことだった。だが、、いではそれを認められない。否やと叫ぶ ように、わなないている。 ( これが、鬼の力なのだわ ) 震えながら、そう思った。いやだと、ちがうと否定しながらも、思わずにはいられなかっ ちがうとすれば、なんの力だと説くというのだろう。ひとのカか ? 桜姫の持ち合わせてい たカか ? そんなはずがないのだ ! ( これが、鬼のカ ) 繰り返し、ぞっとした。 何という力だろうか。たった二歩で森まで駆けた。ならば、半刻もせずに都までゆけると言 夜うことだろうか。夜だけで、〈ダザイフ〉までも行けるというのか。 鬼 月 人ではない。 あらためて、刻みつけられるように教えられた。真実を、桜姫はぬぐい去ることも消し去る こともできない ~ みやこ
とても、普通の伸び方とは思えない。たとえ一月放っておいたとしても、これほどにはなら ないだろう。 「おにのつめ : : : 」 呟き、そうなのだろうと思った。 人を喰らうものが、人と同じなりのはずがない。肉を引き裂き、えぐり取るのならば、鋭い 牙と、爪があってもおかしくはない。 恐る恐る、指を口に持っていった。犬歯に、触れる。 それは牙だった : : : 。固く尖って、いくらか伸びている : 「姫、ご自分が変わられたと、お気づきになったのだな」 気づかわしげに臾螺が訊ねる。 「姫 ! 」 桜姫は首を振った。この身にさらに、こんなことが起こるなんて信じたくはない。聞きたく 十 ( よ . かっこ。 「それが、あなたの夜のお姿なのだ。鬼は昼は横たわり、夜、身に返る」 それでは、今までの姿は、まだまことの鬼とはいえなかったのだ。 魂がただよい出ているばかりで、人と同じ姿をしていた。それは、仮の姿だというのか。
朧月鬼夜抄
57 朧月鬼夜抄