合わせた両手を、いっしか桜姫は握りしめていた。指々の節が白くなるほどに力を込める。 心の痛みをそうやって、少しでも遠ざけようとした。指が痛ければ、そちらに気がゆく。カ の込めすぎで手が震えれば、そちらに気がゆく。 ( ああ 胸のつぶれるような苦しみを、桜姫は背負っていかなければいけない。自らのまねいた災い らくいん は、烙印のように消えることはない。 今日が終わるまでは。 海にゆけば、少しは楽になるだろうか : でも。 忘れないだろうと桜姫は思う。この罪は、死にゆくその先にまで持って行かねばならない。 幾千の昼と夜に、父に詫びつづけなければ償えないものなのだから。 ささやかな風が吹き、背筋がふいに冷たくなった。ある感じに、桜姫は顔を上げた。 抄 振り向く。 夜 月 ( これ : : : ) 彼女と同じ、死した者の気配だった。 振り向いて、桜姫は息をのんだ。 つぐな ふし
ざあああっ 黒い葉が舞った。 ( あの顔 かまくび 桜姫の頬が熱くなった。怒りでも悲しみでもなく、いままで持ちえなかった気持ちが鎌首を もたげる。 ( あの顔 ) よく日に焼けて、引き締まっていた。汚れていたが、艶やかだった。みずみずしいと感じ はら 肚の底から、どろりとしたものが沸きだしてくる。のどから手がでる、このままでは。 ( 触りたい : ・ はだ 指先でそっと。そして、それから押してみるのだ。かたく、けれど弾むような膚なのだろ 夜桜姫は止まった。 鬼 月 ざあああっ 、つ。 つや
「生き残った者がおります」 盗賊の声が聞こえる。目を開けるより早く、刺すような視線を感じた。ひやりと、撫でられ たように頗が冷える。 「ほう」 どこか嘲るような声で、貴族の男が応じている。帝 : : : にしては、若いような気がする。 隼王は腕をついて身を起こし、顔を上げた。とたんに、抜き身が首もとに突きつけられる。 「動くな」 ばっとう 抜刀し、飛び掛かることを考えたのだろう。抜け目のない男だった。 だが、腰が抜けて、立てそうもない。 みじめさにふと笑いがこみ上げてきた。 「刃をひかれよ。ご案じめされずとも、わたしは立てぬのだよ」 諦めたような笑いを浮かべ、狩衣の男を見上げる。媚びるように、見えるだろうか : がくぜん 見下ろす男の顔に、隼王は愕然とする。 抄 ( 主上ではない 鬼似ているが、若い男だった。歳の頃は、彼と同じほどだろうか、少しばかり上か。 たてえばし 頬に掛かるほどに長い。切れ長の瞳は凍えるようで、彼だけが 立烏帽子からこばれた髪が、 冬の者のようだった。 あぎけ
とどろ ほ、つツ一ら′ 雷鳴のように轟いた咆哮に、彼ははツとした。虚ろだった瞳が色を取り戻す。 ただならぬ物事を察して、身構えるだけの気持ちがあったことが、吹雪王には不思議だっ た。何が起きようと、驚くつもりなどなかったのに。 ( それよりーー ) 今の、声。 人のものではなかった。凄まじく、逆まく風のように荒ぶっている。 何かを傷つけようとする意志は感じられなかった。ふかい怒りと哀しみと憎しみが、ないま ぜになり、人の中で渦巻き、その念だけが心からふと放たれたような : : : モノ。 たぐい 言ってみれば、「遺された思い」だった。あまりよくない類のものではあるけれど。 みやこうち こえ 都内の重苦しい空気と、その〈声念〉は同じもののようだった。〈声念〉を出した者が、じ めついた曇り空を支配しているのだろう。 〈声念〉を出した者は , ーーオニ。 抄その鬼の正体を、吹雪王は知っていた。たったひと吠えではあったけれど、それでも十分す 鬼ぎた。 ( 父上 : : : ) からすおう 彼らの罪のために、命を取られた鴉王が、無念のために哭いている。はげしい憎しみを、哀 うつ
しまったから ? 吹雪王は首を振った。まるで、涙をこらえるようなやり方だった。 「あなたが : : : 、生きているなんて思わなかった。だから、わたしは、 わたしは」 また一歩、吹雪王はあとずさった。あなたに害をなす気はないというように、手を後ろに隠 した。視線を、草に落とす。 「あなたがいないならば、何もいらないと思ったんだ。生きていても、死んでいても同じ。こ ろうごく だいり の先の命を、牢獄で過ごしても、内裏で過ごしても : : : 」 吹雪王の声は呟くように小さく、弱い風にそよいで消える。足元の草の鳴り渡る音のほうが 大きくて、聞き取りにくい。 桜姫はじっと彼の言葉を待った。何を言うつもりなのか予想もっかなかったし、恐ろしい くら 吹雪王は瞑い目をしている。揺れる、夜の谷川の水面のように。 赤い蛇の目は、カなく干からびたようだった。 彼を、大きな瞑いものが、背中から覆いかぶさっているようだった。まとわりついて離れな い影が、彼をふかい谷底に追いやっている。 その谷底の名前は絶望だと、桜姫は感じた。兄は傷ついている。比翼をもがれた鳥のよう 〈お兄さま : : : 〉 ひょく
荒い足音が踏み込んだ。 とっさに、桜姫は向きを変えた。けれど、本当にそうしたのだろうか、夢のなかのことのよ うに、体の動いた感じがなかった。 怒りにまかせて彼が座る。床板が悲鳴のような音を立てる。 「臾螺」 なだ あるじの怒りようを恐れたように、洒弭螺が腰を上げた。宥めるように、臾螺の隣に並んだ ようだった。 「桜姫、こちらを向かれよ」 あらが 叱りつけるような言い方だった。叩かれたように、むくむくと抗う気持ちが起き、桜姫は肩 に力を入れた。向きを変えてなどやるものか。 「向かれよ。さもなくば、カずくでこちらをお向きになることになるのですよ。首の筋を違え たくなければ、ご自分で動きなさい」 。しまや黒々として逆まく風だった。いまにも、雷鳴 夜青い嵐のようだったすがすがしい声ま、、 鬼とどろ 月が轟き、雷が落ちてきそうだ。 臾螺は、ほんとうにカずくで向きを変えさせるだろう。 きも そう思うと、肝が冷えるようで桜姫は首を巡らせた。眉をつり上げた臾螺と、まともに顔を
のことです オニカタ 〈御児方〉の神官のなかには、宙にうくことの叶う者もいる。鋒の刃の上で、爪先立って傷一 っ負わない者もいる。 はらえ それらは修行のたまものなのだ。〈不死〉の御社では、祈りだけではなく祓もまなぶ。自ら 1 一くらくじようど の極楽浄土ではなく、闇にはびこる魔を滅ばす術を学ぶ。彼の使う鬼火飛ばしも、そういった 、 ) とわり 理を知るからこその技だった。 「〈御児方〉とはそういうものか」 嵐王はつぶやくようにそう返してきた。 静まった湖水のような気持ちで、吹雪王は馬に揺られた。この兄と、こんな風に一一 = ロ葉を交わ したことなど無かった。 とお 嵐王とは、十違う。物心つかぬうちに邸の離れに押しやられた彼は、ほとんど兄を知らな 。宮廷に出仕するようになれば、違ったのかもしれない。けれど、彼は神官として出家する 道を選んだ。 抄兄を、吹雪王は知らない。 ときわ 鬼幼いころに感じていたのは、彼と兄とに常磐のそそぐ、愛の差だけだった。彼の分け前も、 桜姫の分け前も、すべて嵐王が独り占めした。 ただそれだけの人だ。
ていると、帝は : : : 知らない。 ( まあ、構わぬ ) 凍りついた心では、それほどの不快も感じない。嵐王は、ずっと昔に傷つきやすい心など捨 てた。少年の心など、捨てた。 そうして、生きてきたのだから。そうしなければ、生きてなど来れなかったのだから。 「嵐」 几帳ごしに声をかけられ、彼は顔を上げた。 「お呼びですか」 答えた。もう : ・・ : 終わったのだろうか。 ちこ 「嵐王、近う」 帝はさらに言った。彼は立ち上がり、几帳をかきわける。 「失礼いたします」 濃い花の蜜の香が押し寄せる。なれた、常磐のものだ。 情事のあとの気だるい様子にか、それはいっそう強く感じられる。まだ、二人とも薄ものを まとっただけの恰好をしていた。 そんな場所へ、息子を呼びつけるとはたいしたものだった。
とても、普通の伸び方とは思えない。たとえ一月放っておいたとしても、これほどにはなら ないだろう。 「おにのつめ : : : 」 呟き、そうなのだろうと思った。 人を喰らうものが、人と同じなりのはずがない。肉を引き裂き、えぐり取るのならば、鋭い 牙と、爪があってもおかしくはない。 恐る恐る、指を口に持っていった。犬歯に、触れる。 それは牙だった : : : 。固く尖って、いくらか伸びている : 「姫、ご自分が変わられたと、お気づきになったのだな」 気づかわしげに臾螺が訊ねる。 「姫 ! 」 桜姫は首を振った。この身にさらに、こんなことが起こるなんて信じたくはない。聞きたく 十 ( よ . かっこ。 「それが、あなたの夜のお姿なのだ。鬼は昼は横たわり、夜、身に返る」 それでは、今までの姿は、まだまことの鬼とはいえなかったのだ。 魂がただよい出ているばかりで、人と同じ姿をしていた。それは、仮の姿だというのか。
まどろむような常磐が、乱れた衣装のなかに沈んでいる。見飽きた姿だ。あれは、昨晩は彼 のものだった。 ずいぶん遠いことのように思える。 しっと けんお 嫉妬を感じるはずも、嫌悪する気もなく、嵐王はそこにいた。何も感じぬのは、きっと心が 壊れているせいだろう。 「何か ? 」 かさねて訊いた彼に、帝はひたと目を合わせた。帝もまともではない。汗ばんだ額にはりつ いた髪をぬぐおうともしない。 この乱れた様子でも、帝の美しさは際立っていた。まるで、春の陽射しに溶けかかった氷の よ , つに、な十めかしい みやこうわさ 「都の噂を聞いたか ? 」 「噂、でございますか」 だいり わざとのように聞き返した。噂など、内裏にも都にも波のようにつぎつぎと寄せては返し、 抄女人の髪のようにあふれ返っている。多すぎて、どれのことやらわからない。 月 帝はかすかに笑った。あざけりか ? 「鬼の噂よ」 ひたい