ざあああっ 黒い葉が舞った。 ( あの顔 かまくび 桜姫の頬が熱くなった。怒りでも悲しみでもなく、いままで持ちえなかった気持ちが鎌首を もたげる。 ( あの顔 ) よく日に焼けて、引き締まっていた。汚れていたが、艶やかだった。みずみずしいと感じ はら 肚の底から、どろりとしたものが沸きだしてくる。のどから手がでる、このままでは。 ( 触りたい : ・ はだ 指先でそっと。そして、それから押してみるのだ。かたく、けれど弾むような膚なのだろ 夜桜姫は止まった。 鬼 月 ざあああっ 、つ。 つや
らは〈尾〉の者だと告げてあるのですから」 ようしゃ 洒弭螺は容赦がなかった。 あわ 「姫があまりに憐れだ」 兄を失い、鬼となった身に手をさしのべてくれそうだった者達までがいなくなってしまうの 「仕方ありません。わたしには、あなたの方が大事です」 「わたしは姫が大事だ」 洒弭螺に対するものとは違う意味をこめて、臾螺は言った。 「わかっています。ですが、わたしはそうではありませんから」 「だろうな」 常に感じることだ。だが、彼はそれでいいのだと思う。 命を賭したいと願うものは、それぞれちがうのだから。 「日が昇ったら、いちどおやすみになったはうがいいですよ臾螺」 やす 桜姫が戻ってくるかもしれないと望みをつなげる日の出前は、とても寝む気にはなれないだ ろうと察して、洒弭螺はそう言ったのだろう。 きづか 気遣いに、素直に聞こうという気持ちが生まれる。 「そうしよう」
凍りかけた心が、ふいに熱を取り戻す。じわじわと溶けだしてゆく。 「だから、心がここにないから」 「それはわたしがいないと思われたからなのでしよう ? 吹雪、桜はここにいるわ ! 目の前 にいる ! お見えになってないの」 「見えているよ。だから、遅いんだ。もう遅すぎるんだ ! 」 つられたように吹雪王が叫んだ。かッと睨み付ける。 「わたしは言った。あなたがいないのならばどうなってもいいと思ったと。その通りのことを したんだ ! あと一日早く、あなたがわたしを見つけてくれていたら、こんなことにはならな かったよ ! 」 「目覚めたのは今日なのよ。昨日お兄様を探すなんて : : : 無理だわ。今だって、偶然なのだも の。わたしが海へ行こうとしたからなのだもの」 死のうとしていた。その暗い気持ちが奥底で揺れる。 「じゃあ何で都に来たんだ。ここには海はないのに」 「わたし、〈スマ〉の海しか知らないもの。ここを通らなければ行けないもの」 月「通りすぎればよかったんだ」 「お兄さまが都にいると知ったの。それで、そのまま行けないわ。海には死ににゆくつもりだ ったの。それなのに、黙っていけないわ ! 」
162 ふぶきおう 泣きだしたい気持ちで、辺りを見回す。なぜ、吹雪王はいないのだろう。なぐさめに、なだ めにきてはくれないのだろう。 ( おにいさま ! ) かち 森が、眼下に広がった。徒ならば、四半刻はかかりそうな距離にあったはずの森がー ざあッ よけきれず、桜姫は木立のなかに頭からつつこんだ。顔をかばってかざした腕に、葉や枝が むち 鞭のように当たる。 とっぜんの侵入者に、眠っていた鳥たちがいっせいに羽ばたきだす。羽音で、彼女のまわり は騒然となった。 あられ 枝の折れる音を連れて、地面に転がりだす。その上から、小枝やむしられた葉が、霰のよう に降りそそいだ。 えりくび 膝をつき、桜姫は頭を振った。襟首に、こまかな木のかけらが入ってしまったようだった。 落ちつかない。
110 引き裂かれるような気持ちで、彼女は袖を握りしめた。どうすればいいのだろうか。どうす れば。 小夜啼姫にはわからなかった。いま、嵐王がそばにいて、慰めてくれたらどんなにいいだろ あのやさしい手のひらがあれば、考えられそうな気がする。問うてみれば、彼は答えてくれ るだろうか。あなたは、わたくしの兄なのですか、と。 アメオトシマ 恐ろしいことだ。禁じられているのは父母を同じくする兄弟の契りだけだが、〈雨の音洲〉 で理由なく異母兄弟の契りを行うものはいない。 ふつう、出来うるかぎり避けるものだ。知らぬとはいえ ! ( お父帝さまはお怒りになる ) そう思うと、つかのま意識が遠のいてゆくようだった。ああ、どんなお言葉が下るだろう きんだち とつが 父帝は怒りのあまりに彼女を降嫁せようとするかも知れない。見知らぬ公達のもとに。 ぞっとして、彼女はむせび泣いた。愛してもいない人の妻になどなりたくはない。 けれど、その「愛している人」は兄かも知れないのだ。まことならば、めおとになどなれな
じよう 眉を曇らせた彼に、見かねたように判官が声をかける。 「そのようなお顔をなさって、いつまでも神官をお見つめになられていても、仕方ないではな いですか」 知らぬうちに、それほど悲しそうな顔をしていたのだろうか。 やしき 「さあ、そろそろ都へおりましよう。今宵、せめても明日の一日は、我が邸にて過ごしたいも とがびと 〈門〉でれを払い落とし、獄舎で科人を引き渡すだけで、夜が明けてしまわぬとも限らなか つつ ) 0 みやこうち 彼らは罪を犯した者と共に来たのだ。ただの商人よ 都内に穢れを持ち込むのは許されない。 , り・も、 いっそうの穢れ払いがもとめられる。 わが家で眠りたい。それは、一行のだれもの願いだろう。 「そうであるな」 罪を感じる気持ちなど、振り払わねばならない。 むち たづな 隼王は手綱を取り直した。馬の尻に鞭を当てる。 「進めー」 侍が声を張り上げた。 みやこうま ゆらゆらと、松明の列が下りはじめる。一騎、二騎と、京馬が尾を振りながらゆく。
はいえ、情けない気持ちでございます。ただ」 いかん ふっと言葉をそこで切る。決まりきった遺憾の言葉になど、帝は興味も示さないだろう。 恐らく、不快だと感ずる。だが、もしやするとここで満足するかもしれない。 どちらへ転ぶかわからず、そこで止める羽目になった。帝の顔色一つで、嵐王は次の言葉を 決める。そのために、切り札として「ただ」とつなげておいたのだ。 「ただ ? 」 眉をひそめかけた帝は、その切り札に触れた。 ( やはり、型通りのものは要らぬか ) あんど 安堵し、彼は自信を得た。とっておきの言葉をつないだ。 「ただ、少々つかわせていただきました」 「使う、と ? 」 帝の傍らで、一人だけ話の見えない常磐が、不快そうに顔をしかめた。ちらりと、説くよう にという視線を流してくる。 抄「はい」 鬼無視するように、嵐王は頷いた。やきもきせずとも、今から説くのだ。 ふぶきおう 朧「町に、噂を流しました。鴉王の、まことの罪は吹雪王らの件とはべつのところにあったのだ 恥と
212 ひとめ、会えるものなら会いたかった。会えたならば、生きてゆける、必ず。そう思ってい いらだ わけがわからないというように、吹雪王は首を振る。苛立っているようだった。 「死ぬのならば、川でもできるよ。だいたいあなたはもう死んでいるのだろう ? 」 「そうよ、死んでいるわ」 答えて、歯を食いしばる。吹雪王は何気なく言っただけなのだ。桜姫がどういう鬼なのか を、彼は知らない。 「このままとこしえを生きるのよ。 : : : 成仏できないんですって。わたし、〈封じ手〉をもた ない鬼なのだって」 「〈封じ手〉 ? 」 いぶかしむ吹雪王に、泣きたいのか笑いたいのかわからない気持ちが湧いてくる。こんな に、嫌そうなお顔をなさるなんて。 「お兄さまのように、〈御児方〉のお印がないから。そういう〈御児方〉は、ひとたび鬼とな ると、どうにもできないって」 「ーー誰が、そんなことを ? 」 ふっと吹雪王の眉が曇る。意地悪のような彼女の口調よりも、その言葉の出所のほうが気に なるというようだった。 っ ) 0 シルシ じようぶつ
おとなしく従った彼は、主室まで進んだ。彼が出家して以来、決まったような手入れしかし ていなかったのか、床板の間から何かの芽がのそいている。 歩くだけで埃が立った。一夜の宿に借りた、隼王の実家のように。 こみ上げるものがあり、彼は歯を食いしばった。なぜ泣く ? 泣ける立場ではないのに。す べて自ら願ったことが、招いた破滅だというのに。 ここは こんなにも、懐かしい : 彼の育った場所だ。桜姫と、秘め事を交わした場所だ。 ここは荒れ果てているのに、邸のなかでゆいいつ、優しい。待っていてくれたのだろうか。 この離れだけは。 罪人となって、戻ってきたあるじを。 床がきしんだ。嵐王が後ろで止まる。 「座りなさい。おまえには聞くことがある。やまほどな」 抄ひややかな声に、吹雪王はしやくりあげを止めた。今までの兄とは、声がまるで違う。 鬼言われたとおりに彼は座る。抗う気持ちは、わすかも起きなかった。否、もう持っていない のか。 みしりと、嵐王が真向かいに回り込んだ。 ほり なっ
かな しみをぶつけることが叶わずに、叫び声が都内をこだましている。 吹雪王はわずかに体を震わせた。。 ' ひくりと、縄に捕られた腕が、兄の胸に触れる。 「おまえは動けるのか」 驚いた、というほどでもない、気持ちの揺れのない声が背後から訊ねる。つい今まで、荒馬 の背でも静止っていた弟が震えたにしては、まるでひとごとのような調子だった。 なぜか答える気になって、吹雪王はロを開いた。無言の行を修めていたように、しばらく出 していなかった声は、かすれ、ずいぶんと低くなっていた。 「動かなかっただけか。馬の背で、何をしているのかと思った」 「あの騒ぎとはべつの所に心を置いておりましたゆえに 隼王たちが倒されようと、自分が誰のものになろうとかまわなかったのだ。あの時、ともに あらが 斬られたとしても、吹雪王は抗わなかった。 心、ここに在らず。 「馬の背で、よくもあのようにしていられるものだ」 兄はそこのところにだけ、感、いしているようだった。あいかわらず起伏のない声で、それを 繰り返した。 「他愛ないこと。耳を澄まし、ものものの〈気〉のなかで、自らを支えてくれる点を識るだけ