す ましガし みんぞくがく と民俗学の権 ゃなぎたくにおくまぐす 皇 柳田国男は熊楠の 天 けんきゅうたかひょうか 研究を高く評価して 昭 ) ンヤーナリズ乙に せつきよくてきしようかい 章積極的に紹介した 第 日本の ) ンヤーナリス乙は 熊楠の真価をに ) ( 一 なガなガ認めよう とはしなガった くまハ、す・ カ : みと たいへん 大変だ ゃなぎたくにお 柳田国男が やって来る / くまぐす そのあガげで熊楠は ざっしたいよう 雑誌「太陽」に えと 干支にちなむ どうぶつみんわでんせつ 動物の民話伝説を れんさい 連載ヴるようになる 0 e(: し あ 会いたく あの ゃなぎたせんせい 柳田先生が ですか ? 」、フしよ、フ 0 、のちにそれは しこう ″十一一支考″という タイトルで 本にまとめられた -6 0 ほん 干支 ( えと ) 十二支。ね・うし・とら・う・たっ・み・うま・ひっし・さる・とり・いぬ・い。
■ー はずかしいん ですか ? 会わないのは しつれい 失礼ですから 今は びようき 病気だと くまぐす 熊楠は ひといちばい 人一倍 ひとみし 人見知りガ 激しガった こま 困った : ・ 合わんよッ も、フ と、つきよ、つ 東京を 発ってる / あいそ 0 るいう ほ たいしようねん 大正一一年 1-91- (Y) ) がっ 十一一月 ゃなぎたくにお 柳田国男ガ とうきよう 東京ガら くまぐす 熊楠に 会いにくる
何か しつもん ご質問は なに 巨人対巨人 きよじんたいきよじん イ日ヨ日 柳田国男 ゃなぎたくにお にこを時 日体の民俗学 となたか そんけい 尊敬して 、・ひと おられる人は いらっしや、 ます・か ? ・ せんせい 先生の みんぞくがく 民俗学と ぶんや いう分野 ですが みなかたせんせい 南方先生は きしゅう 紀州のひとで みなかたくまぐすせんせい 南方熊楠先生 です : ・ ・ / 彡膨ク
/ し 第五章昭和天皇とくまぐす 1 レよ、つ しようわてんのう にほん 日本のジャーナリズ乙は くまぐすしんか なかなガ熊楠の真価を みと 認めようとはしなガった けん みんぞくがく ゃなぎたくにお しガし民俗学の権威・柳田国男は くまぐすひょうか ことあるごとに熊楠を評価し ぶんつうはじ 文通も始める なか そんな中で は ぶたい いっせいいちだい 一世一代の晴れ舞台と騒がれる できごとお 出来事が起きる さわ
プロフィール 南方熊楠 ( 1867-1941 ) : っ : ーんしんはな おうべいゆうが ( 若い日に欧米へ遊学、日本人離れし ペんきよう た神経の太さでのびのびと勉強し、 と・くがく 独学で 22 カ国語をマスター。帰国後 わんきんけんきら は粘菌の研究に没頭する。 ときはうり◆う 土宜法竜 ( 1854-1922 ) たいざいらう 熊楠がロンドンに滞在中に出会っ くまぐすし物うきようてつがくかがく しうきようか た宗教家。熊楠に宗教や哲学、科学 の講義をする。熊楠の「壘陀羅」に は彼の思想の影響が見られる。 オラストン。フランクス ( 1826-1897 ) だいえいはくふつかんりし 大英博物館理事で古美術の研究家。 くまぐすおお 熊楠は大いに刺激を受ける。熊楠 はくふつかん ひょうか はくしき 博識を評価し、熊楠が博物館の仕 事をするきっかけをつくる。 孫文 ( 1866 ー 1925 ) 人はロンドンで出会い、意気投合。 毎日のように会って理解を深める。 そんふん のちに孫文が日本に亡命したとき わかやま は和歌山で再会する。 柳田国男 ( 1875-1962 ) ほん 民俗学者。日本のジャーナリズムに はやひょうか むし 無視されていた熊楠をいち早く評価 たいり : う が ( もんし : う し、紹介。学問上のテーマで大量の 手紙のやり取りをし、議論した。 昭和天皇 ( 190 1989 ) なんきぎようこう 生物学に造詣が深く、南紀行幸のさ ( つふんぶんきん い、熊楠は植物分布、粘菌などの説 けんし : う 明をし、標本を献上。熊楠の死後、 おも てんのう 天皇はこの思い出を歌に詠んだ。 みなかたくまぐす わか で 熊楠の思い出 を歌に詠む しようわてんのう 昭和天皇 ひょうはん 標本を献上 けんきらか びし物つ し そんぶん . 気たり 評価 まいにち ほん きいか、、 ゃなぎた 柳田国男 みんぞくがくしや しようかい てめーみ しようわてんのう ひょらはん
一九四一 ー夫妻、・ラジウム発 ードと知り合う。また土宜法竜とも出会う。 = 八考古学、人類学、宗教学などを独学し 0 つ、大英物館の図書目録など九八 ) 。 治安洋法できる ( 一九 0 〇 ) 。 の編集にたすさわる。 かったいえいはくふつかんえつらんしつ 印英同調 ( 一九〇ニ ) 。 三 0 孫文と知り合う。一一月、大英博物館閲覧室でいやがらせをした館員を ライト兄弟、飛行機ではじめて空を飛 きんそくしよぶん なぐり、禁足処分に。 ぶ ( 一九 0 三 ) 。 たいえいはくふつかんついはう 再び暴力事作を起こし、大英博物館を追放される。翌年から浮世絵販売」。。。、・。」。《こ。〕。、 日罇戦争 ( 日本海海戦 ) はじまる ( 一九 せいかつひ などをして生活費をかせぐ。 0 四 ) 。孫文、東京で中国命同則会 癶、いー一ゅ、つトっ : 、つ当ご きこ ,. 、わかやま 三 = 一十月、イギリスかみ帰国。和歌山で地衣類・藻類・菌類の採集調査をはじ 一九 00 成 ( 一九 0 五 ) い める。 印露協約調印 ( 一九〇七 ) 。 きいかっ、つら 伊博文暗殺される ( 一九 0 九 ) 一九 0 一 三四孫文が和歌山にきて再会を果たす。ャ月、紀伊勝浦におもむく。以後、 「大逆事件」おこる。日韓併合条約調印一 那知日山にこもり採集を行、つ。 じ : たむらまっえ 一九 0 六 三九宮司の四女・田村松枝と結婚する。 うんどうしようねっ すうねん 一九 0 七 四〇神社合祀反対運動を起こし、数年にわたってこの運動に情熱をかたむけ「大逆事作の幸徳秋水ら死刑」国減 亡 ( 孫文らによる辛亥革成功 ) ( 一九 る。 ちゅうがっこうらんにゆうまうこうしけんお 一九一 0 四三八月、神社合祀反対運動のことで中学校に乱入、行事件を起こし監獄一こ。 明治天皇没す ( 一九一ニ ) 。 に入る。 ゃな、たくにおふんつ、つ 鰰一次世界大戦に参加 ( 対ドイツ宣戦 四四柳田国男と文通をはじめる。 がっすえやなぎたくに、 ) らいはう 布告 ) ( 一九一四 ) 。 一九一三大正ニ 一一一月末、柳田国男来訪。 めしかんながと しようわ がつついたらしようわてんのう しんこうわんきんひょうはんロシア革命 ( ソビエト政権成立 ) ( 一九 一九ニ九昭和四六月一日、昭和天皇を神島にむかえ、お召し艦『長門』で進講。粘菌標本 0 百十種を進献。 孫文死去 ( 一九、ニ五 ) 。 ( 力に体の調發がおとろえ、 一三し月、の採集中にケガをし、その後、こ ) 、 ニ・ニ六事件おこる ( 一九三六 にちごん日中戦争はじまる ( 一九三七 ) 一二月、娘の文枝に「今片物語集」を形見としてあたえる。 第一一次世界大戦はじまる九三九 ) ' 、 0 六時三〇分死去 ( 七五歳 ) 太平洋戦争はじまる ( 一九四」 ) - 一八九五 一八九七 0 かっ そうるいきんるい よくねん かん ) ッぐ 0
初え きみよう この奇妙な かいけん 会見ガ にほんみんぞくがく 日本民俗学の にだいきよじん 一一大巨人のただ いちど であ 一度の出会い たった ゃなぎた はじ 柳田です 初めまして
昭和天皇とくまぐす 第五章 ノ当 、ヾ ふたり これまで一一人は かずおお 数多くの手紙の やりとりをして いたガ それらはヴべて ろんぶん 論文にひとしい ないようおも 内容と重みを 持っていた てがみ / イ 」 , フて こちらです ゃなぎた 柳田です せんせい 先生は ざいたく ご在宅で しょ , フか
その日の夜 ちょうこくか 彫刻家 やすだりゅうもん 保田竜門によって テスマスワガとら れた げんぞん 現存ヴる このテスマスワは ふかようぼう 彫りの深い容貎を 浮ガびあガらせ てつじん ギリ、ンヤの哲人を れんそう 連想させる よる ツィ 7 、い・ツ にち 翌三十日 おおさかていだ、 ししカくぶ / 大阪帝大医学部 じよきようじゅ 助教授チー乙ガ 駆けつけ : / イっ