真梛は頬杖をついた。言葉を選ぶように、かるく首を傾げる。 「そうね。 : むずかしいわね。私が感じたのは、ヘ陽使〉臭のようなものだったから。あの とげ 娘に触れたとき、変な感じがしたの。棘を指に刺したような」 「それッテ、〈ョウシ〉なの ? 」 真梛の〈命〉が、〈陽使〉に対してどう反応するのかを、亜羅写は知らない。い つも、そう なのかと思ってたずねた。 しようき 「気のせいだと思ったわよ。〈陽使〉が近づくと、いやな瘴気をかんじるけれど、ちがったも の。ただ、私のなかの何かが、あの娘を警戒したの。 そんなこと、いちどだってなかったわ」 透緒呼の正体がわからないうちも、と暗に言っていた。彼女が妹をどんなに思っているか、 亜羅写はよく知っているつもりだった。それを、このことで否定する気はない。 そんな真梛が感じた疑いだからこそ、正しく価値のあるように思えた。 「困ったわ。なんだか、あの娘熱に浮かされているみたいだし。あなたに褓古をつけるって、 群かなりはしゃいでた」 烙「 , つん : : : 」 華 きり 頼みにいった時のだるそうな様子が、嘘のように消えていた。まるで、霧が晴れ行くよう かし
180 あた 今がどの季節なのか、彼にはわからなかった。不思議と、寒さも暑さも感じない。辺りはう す暗く、どの時刻なのかもわからない。 雨は降っていなかった。 いっから、彼はここにいたのだろうか。思い出すことはできない。ずっとのような気もした し、つい先ほどからとも思える。 歩いてここまで来たのか。気づけば、ここにいたのか。 彼はおばえていなかった。 きり 目の前に女の手がある。それに気づいたときに、 霧が晴れるように、彼の頭ははっきりとし たのだ。ものを考え、動かせるようになった。 まるで、その瞬間までは、彼は人形だったかのようだ。 とにか / 、、・彼はそこに、こ。 闇からのびた手は、微動だにせすそこにある。彼が見つめていることも、知らないかのよう 中指に、ほそい銀の環がはめられていた。何の装飾もない、ただの指環。 けれど、なんてきれいに見えるのだろうか。 指環は安物だった。彼だったら、それを星の数ほど買える。星の数ほどの集めたその指環と 同じ値の、たった一つの指環だって、幾つも買うことができる。
「わたしはひとりなの」 つぶやいた。だれも「否」とは言ってくれない。 ムは、ひとり・。 「ひとり、なんだ : : : 」 つぼ 識ったとたん、透緒呼は空から落ちた。王宮のテラスから壺を投げ落としたように、まっす 、地へ向かう。 がくん。 すぐにからだは止まった。風の精霊が、下から支えている。彼女を落とすなど、あり得ない ことだった。 精霊の働きに、透緒呼は気づかなかった。抱えた膝の上に目だけのそかせて、凍りついてい ひじ る。肘が、わすかにわなないていた。 私、ひとりなのね。 れ ひとり、なのだ。 群 烙雪が、腕に肩に降り積もる。透緒呼の黒髪を、白く染めてゆく。 ふところ 華 王宮は見えない。雪が彼女を世界から閉ざし、懐のなかにとじこめている。まるで、透緒 呼一人が世界の外に放り出されているように感じる。 せいれい
116 「ですから」 「わかった。もう言うまい」 悔やむような思いを押し殺して、蒼主は答えた。過ぎてしまったことだ。もう、あのこと 二度と繰り返したくないと矢禅が言うのなら、止めるつもりはなかった。いいだろう、彼は そうすればい、。 自分が、違う策を取るように。 「そうですか」 矢禅は眼鏡のふちを指で押した。ちら、と視線を横に流してから、つづける。 「ですが蒼主、おばえておいてください。僕は悔やんでいたからだけで、透緒呼に告げたわけ よ、一しま ではないんです。邪な気持ちがなかったとは、言えない」 ど , つい , っことだ ? 」 思いがけない告白に、気持ちが引き締まった。邪な、 せかす思いが、目つきを険しくさせる。 「だれかをいじめたいと、僕のなかの血が騒ぐんです。戦うこと、人を撃っことに悦びを感じ る。その血が、わけもなく騒ぐから、透緒呼に言ったんですよ」 おそるおそる、たずねた。かってはなかったことだ 「〈陽使〉の血、か ? 」 よろツ一
くそっ。 苛立ちが、わき起こる。こんな扱いをされるいわれなんて、ないはずなのに ! 「あなたたちが透緒呼を気づかっていたのは、わかってました。けれどですね、隠して何の解 決がありますか、蒼主。いっかは、わかってしまうものです。知る時期が遅くなったからと、 彼女の痛みがやわらぐんですか ? 」 蒼主はロをつぐみ、部屋は静まり返った。 、矢禅・ : 矢禅は彼を見ていた。ためらいも迷いもなく。 本当に、こころからそう思って矢禅は話したのだ。透緒呼に、告げたのだ。 まなざしから、強くそれを感じる。 しず だから、蒼主は二の句を告げなかった。矢禅の言葉は、あやまりではない。たしかに、、 たず れ透緒呼は知ってしまっただろう。九鷹はどこ ? と訊ねてきただろう。 群その時が来れば、蒼主もきっと真実を告げた。嘘は、つかなかった。 烙矢禅の言うとおり、同じなのだ。今日告げようと、十日後に告げようと。 華 事実は、変わらない。 そうなのだが、と蒼主は矢禅を見つめたまま考える。
近くの椅子を、真梛が指し示す。亜羅写が本読みの大机を回ってくるあいだに、彼女も脚立 をおりてきた。 「どうしたの。何だか、顔色悪いみたいだわ」 自らも椅子に腰かけながら、真梛は彼を見上げるようにする。心配、しているようだった。 「ツカレだよ。目の奥が、ナンか重くって」 亜羅写は目をこする。もし目をからだにつなぎ止めている糸が、・目玉の後ろにあるとしたな ら、そのあたりが、鈍い痛みをおばえていた。 サヤメ シイナ 彩女領で獅伊菜の兵に対峙したとき、エセラを使いすぎて、やはりこんな感じがした。 「冷やしたほうがいいわ。ひつようなら、医局へ行って薬をもらって。なんなら、私がついて ゆくから」 クウガシュウ いたわりの言葉が、嬉しかった。亜羅写が〈空牙衆〉以外の者と、係わりたがらないのを、 おもんばか 、慮ってくれている。ふつうの人にとってま、、 ししまだに彼は『セラⅡニア人』で『得体が知 れない』者なのだ。急には、ひとびとの意識は変わらない。 じやけん 王宮づきの医師に訴えても、邪険にされるかと思うと、足が向かなかった。それを、わかっ てくれている。 「うん、じゃあ、アトで」 真梛がいると、こころづよい。彼女には、道端の石ころまでが、好意的な気がした。望月の モチヅキ
138 、、つ ) 0 錯覚、よね。 こんなところに、だれもいるはずがないのだ。透緒呼はひとり。この空に、ひとり。 かぜ 「そのほう、風邪を引く」 声が聞こえた。知っている。この口調。 「ザカード」 振り向いた透緒呼は、雪をよけるように外套をかざしたザカードを見つけた。溶けかけて凍 った雪が、白い外套に氷紋を作っている。 いつもよりすっと穏やか 薄氷のような水色の衣装を、透緒呼ははじめてみた。何だろう、 私の気持ちも、この人の顔も。 かってのように「ザカード ! 」と叫んで飛びのく気はしなかった。否、それどころか待って いた気がする。彼が、こうして自分を迎えにきてくれるのを。 ずっと、夢見ていた : 「冷えきっているな、そのほう」 指先が頬に触れた。つめたいか、と身構えた頬に、あたたかさを感じる。ザカードから、ひ とのような、体温を感じる。 「当たり前だわ、ここは寒いのよ。私は、寒いのよ」
8 「こうならずに済めば、ずっと黙っているつもりでしたよ。あのひとに。側にいることだけ っと を、考えてました。いられるように、ただそれだけのために努めてたんです。この夏まで、僕 はあなたと同じ十六歳だった。笑ってもかまいません。その辺の子供と、同じだったんですか ら」 「叔父上を、 : : : 好きだったの ? 」 ためらいながらも、たずねた。彼の言葉は、まるで告白としか聞こえなかった。 「今でも好きですがね。あのころはもっとまっすぐでした。役に立ち、共に生き、共に戦場を 駆け抜けることだけを、夢見ていましたから」 戦友でした。 彼がばつりともらす。その気持ちに嘘はないと、打たれるようにつよく、透緒呼は思った。 矢禅は、叔父上だけを見てきたんだわ。だれよりも誰よりも、側にいようとしてた。 気持ちを、わかることができた。似たような思いをした覚えがあった。 好きだから、側にいたい。 ひきよう 「透緒呼、僕を卑怯だと思ってくれてかまいません。僕の望みはただひとつだけで、そのほか のことはすべて切り捨ててきました。〈陽使〉だとあのひとに告げなかったのも、そのせいで そばにいられなくなることを、きっとどこかで恐れていたんです。 だから、あなたにも言えなかった。悩みも知ってました。あなたを昔から見てきている。僕
加に、共にこの空の牙を駆ける、友でありたい。かわらずに」 かって、ふたりは戦友だったのだと、蒼主は思う。敵だらけだった王宮を取り戻し、自分が 施政を敷いてゆくあいだの支えは、矢禅だった。 この先も、それは同じでありたい。たとえ〈陽使〉が滅ばうとも、困難が消えるわけではな わざわ 、。災、ま、いつでも起こるだろう。 あわ 「おまえが清和月に戻るのを、私が許したのはくだらない憐れみではない。おまえが〈陽使〉 と、覚悟の上だ」 嬉しかったのだ。彼が帰ってきたことが しし。そうだ、いいんだ。わたしたちは、形を変えながらでもやってゆ 「前と同じでなくとも、 ける。そうだろう ? 」 自分の考えが矢禅の考えでないことなど、どうでもよくなる。ふいに蒼主は気づいた。わた したちは、新しくはじめられる。少年王とその腹心ではなく、王と側近として。 蒼主と矢禅、として。 いま一一一一口える、確かなことはそれですべてだった。矢禅の苦しさに、そうやって彼は答えよう とした。 矢禅が自らの額を押さえた。よろめくように、蒼主の肩にもたれかかる。 「ありがとう : : ご、います : : : 」 ひたい
細い針が胸に刺さったような痛みを感じ、透緒呼は動きを止めた。急なことに、からだがが くんと傾ぐ。 「あっ」 矢禅の木刀が、右肩を突いた。一瞬のことだった : 透緒呼の思考はそこで途絶えた。かあッと目の前が赤くなる。彼女を満たしていた熱いもの が、瞬間吹き出した。 「覚悟オっ ! 」 ちょうやく 跳躍し、木刀を振りかぶった。今までは寸止めで来ていた。けれど、今回はそうはいかよ 。とどめだ ! 心の臟 矢禅の顔がこわばった。青ざめるのが、透緒呼にわかる。 カレ 」うばう 顔を庇うように、彼は手をかざした。眼鏡をむしりとる。紫の双眸が光ったー 「透緒呼、それは人殺しの顔です」 ひくいささやき。