鏡のなかでは、ザカードが透緒呼の頬にロづけたところだった。 「これではない。以前のことだ」 告げながら、ザカードは笑いだしそうだった。 さそかしの衝撃だろう。知らなかったザクーシャとわたしの関係が、暴かれるのだから。す べて知っていると思い込んでいたのならば、なおさらになるだろう。 「まえ、だと ? 」 蒸気のような音とともに、九鷹は言葉を押し出した。 「おや、知らぬか ? 」 大げさに、肩をすくめてみせる。そんな自分のしぐさが、九鷹にどんな影響を及ばすか、承 知していた。 「忘れているか ? わたしとザクーシャがいくど見え、幾夜を共にしたかを」 含み笑いをし、ザカードは鏡を振り返る。 なごり 名残惜しそうな彼女を残して、ザカードが身をひるがえす。風が巻き起こり、雪がつむじを 群巻いた。 烙「ザクーシャに逢うたのは、幼子のころに、いちど。 , ~ の春にいちど。夏に幾夜かをかさね、 苹一・セラ日ニア 太陽の地で、数度。おお、そのほうもその時はいたな」 まみ
くる。笑われでもしたら、立ち直れないだろう。 透緒呼は笑わなかった。次の、彼の言葉を待っている。 すぐにはつづけられずに、亜羅写はロごもる。 どう、説明したらいいのだろうか。今の、この気持ちを。 〈空牙衆〉の一員として清和月宮にいてはいけない気がして、亜羅写はここを離れた。叛乱軍 に加わって、けれど満足に働けないままそれは終わってしまった。 まだ、居場所は見つからない。納得できない。 くら あせりと不安は募ってゆくばかりで、九鷹と自分を、較べてしまうばかりで。 どうにかしたくて。どうにもできなくて。 十日が過ぎて、ただ過ぎてしまって、けれどひとつだけ亜羅写は気づいた。 オレ、エセラがなければ使えない。 セラⅡニアで過ごした十数年はただ逃げるばかりで、何かを覚える余裕もなかった。カウス れ Ⅱルーに住むようになってからも、暇と呼べるほどの時間はなかった。 の亜羅写は〈空牙衆〉としてのちからを、エセラひとつにしか持たない。透緒呼も九鷹も、戦 華 士としてもかなりの腕をおばえ、真梛でさえ、一通りのことは学んできているというのに。 恥たとえば明日 ) 急に目がっかえなくなったとしたならば。 つの
叛乱は不発に終わり、獅伊菜たちは雲隠れしてしまって。 「オレは、ダレなんダロウ : : : 」 亜羅写は立ち止まっていた。つぶやきが、床に落ちる。 鏡を見ればそこに映っているはずの自分が、今の彼には見えない。い の自分は見える。けれど、それが「どこにいるべきの」「だれなのか」がわからない 工セラ 亜羅写。セラ日ニア人。呪殺眼。 九鷹。半セラ日一一ア人。〈太陽契約者〉。 ふたり、並べテモ、ソンナ違わないハズなのに。オレは。 「オレは」 くら やり場のない、言いようのない気持ちに彼は支配されていた。九鷹と自分を較べる。そもそ やめられない。 もそれがおかしいのだと、わかっていて、 れクヨーはうまくいった。クヨーは居場所がある。 すく のそんな思いが、こころの隅に巣喰っている。 華 クヨーには、トオコもいて。ソウシュに望まれて〈空牙衆〉に入って。 失くしたものがあるツテ、わかッテんのに」 や、ばんやりとした顔
言うよりも早く、ザカードが降下をはじめた。透緒呼を抱きしめたまま、地上へ向かう。 「送り届けよう」 清和月宮へ連れてゆく、とザカードは言った。透緒呼ははツと身じろぎした。 「私を、置き去りにするの ? 」 「今はな」 ためらいのない答えに、透緒呼は震えた。 私を、捨ててゆくの ? ひとりばっちにしてゆくの まみ 「案ずるな、すぐ迎えに参る。ふたたび見えよう。用意がととのい次第、連れてゆこう」 「どこへ ? 」 「我が城へ」 ザカードの城を、透緒呼は知っているような気がした。行ったことが、あるのだろうか。 雪の下に、王宮の屋根が見えはじめる。 「この先は、ひとりで行けるな。わたしが降りると、騒ぎになるゆえ」 群「行ってしまうの、帰ってしまうの、ザカード」 烙透緒呼はすがりついた。清和月宮なんて、嫌だ。あなたと一緒に行きたい。 華 「呼べばいつでも現れよう。そのほうと、共にある。いつの世でも」 ほほえ 微笑んだザカードは、透緒呼の頬にロづけた。ひやりと、氷の触れたように冷たい。
いわよっ」 肘をまもる防具がばしんと鳴った。打たれたのだ。 痛みはそれほどない。透緒呼が手加減しているのか、防具のおかげなのか。 くそ , つつ。 こんなはずじゃない。 はらわたが煮えくり返る。オレはこんなんじゃない。 「右から来なさい。刃をまわす ! 」 透緒呼は教えているのだ。怒りに包まれた亜羅写の耳に、声は聞こえる。けしててひどく打 、。ナれど。 ち負かそうとはしていなし チクショー 思うようにからだが動かない気がする。目がかすむのか、よく透緒呼の木刀が見えない。 見えないから、よけられない。言うとおりに打っことができない。 いなずま あきらかにオレはにぶいと、痛感した。透緒呼が稲妻なら、亜羅写は木から落ちる花びら だ。もしくは、地中の生き物 れ : ナンだよっ。 群 烙透緒呼への怒りが、次第に自らへ矛先を変えはじめる。 華 どうしてできないんだよ、言われたとおりに動けないんだよ , それだけ稽古が足りないのだ。言ってしまえばそうだが、亜羅写は認めたくなかった。否、 ひじ ほ、一さき
みとめようとするほど、考えは働いていなかった。 悔しさだけがつのる。ただつのる。 チクショウ、チクショウ、チクショウっロ 目の奥が、熱い と。 せん からだのなかで何かがひらいた。栓をあけたように、翡翠色のものが矢のように飛んだ。 視界が、緑に染まる。 「危ない透緒呼ツ」 伏せなさい。 声がした、気がした。目の前を黒いものが横切る。だれかがうめいた、気がした。生あたた かいものが、亜羅写の頬を濡らした。 ふたたび物が見えるようになったとき、透緒呼が彼に向かって走ってくるところだった。 ひすい
ひとりの婦人が、彼に手をさしのべている。 闇のなかからすっとのびた手は、だれのものかわからない。ほっそりとした白い指それ は、果たしてどんな意味を持っているのか。 いぶか 助けを求めているのだろうかと、彼は訝しがった。そのわりには、なんら意志を持たないよ うに見える。 その手は、ただ彼の前にさしのべられているとしか思えなかった。何かを掴もうとするよう でも、すがりつけるものを探すようでもない なんだ ? れどうして、こんなところに手があるのだろうか。こんな、何もない山のなかに。 けものみち さび 烙彼は、寂しい山道にひとりきりだった。獣道のように荒れ果てた、踏み固めた土のほそい 華 流れが、ただ彼の前につづいている。木の幹は節くれだっていて、黒かった。 : : : 季節は、冬 齠なのだろうか。 断章火影の陰地 つか
信じられずに、透緒呼は食い下がった。本当に、私は思い出すことができるのだろうか、す 「ええ」 ざんにん 矢禅はふっと言葉をとぎらせ、目つきをわずかのあいだ変えた。それが、残忍に透緒呼には 見える。 「そんなこと、すぐ忘れますよ」 思わせぶりな言い方に、不安が走る。忘れる ? 忘れるって何よ ーー何を ? 「いいんですよ」 ごまかした矢禅は、透緒呼に笑いかけた。 そうね」 でも、と反論しかけ、急にその気が失せた。どうでも、 群通りになるのならば、それでかまわないと。 の 華 矢禅がため息をついた気がした。 「からだが大丈夫ならば、行ったはうがいいですよ。寒いなか待たせるって、きっと亜羅写が しいことになってしまう。そのうち元
232 そうね。私、嫌われてるのね。 納得、した。 そうでなければ、みんな、私に隠し事しないもの。はずれ者に、しないもの。 、もの。 「ここには : いられないわ」 空で透緒呼は立ち上がった。見上げてつぶやく 歩きながら、透緒呼はつづけた。まるで、夢を見ながら歩くように。 「・も , つ、 いられないわ : : : もう、ここにいてはいけないんだわ : : : だって : : : 殺されるもの ・ : 外されるもの : : : 」 ひとのなかに、いてはいけない。わたしはいけない。わたしはひとではないのだから。ひと を、きらわなくちゃ。にくまなくちゃ : 目の前が暗くなった。透緒呼はその場に、すとんと座る。もう、亜羅写も蒼主も見えなかっ こころが支配される。知らずに冒されている。 背中を突き飛ばされた気がしていた。輪のなかから、はじき出された気がしていた。 「だからーーーこんなとこにいちゃ、いけなかったのよ : : : 」 透緒呼はこんな息苦しい場所で、ひとりだった。ひとのなかにいるなんて ! っ ) 0
婦人は、干からびていた。 みずみすしいのは腕だけだった。首も、肩も、顔も、足も、すべて土気色をしている。 しな ほお 萎びた頬は、不可解な紋様に見えるしわにちちんでいる。痩せこけてくばんだ頬。口が。苦 尸するようにひらかれている。 足は棒切れのようにほそく、突っぱねるように外へ曲がっていた。つめが黄ばんでひび割 れ、土のこびりついたような跡を残している。 これは : : : 」 うめ 純彼は呻いた。描いていた甘やかなものは、消し飛んだ。 烙女の、ミイラ。 しゅうあく 華 それはひどく醜悪だった。いまにも、ばかりと開いたロのなかから、白い虫がはいだしそ がんか うだ。その、眼窩からも、 : ・・ : 否。 も 心、ん どさりと目の前に横たわった婦人に、彼はをのんだ。ひッとのどを鳴らす音が、遠くまで こだまする。