Ⅷ刪ー厮 えど 江戸っ子は喜びましたが どうぎようしやひょうはん 同業者の評判は さんさん : ・ アホか ! そのとおりですよ 言ってくたさい なに考えてんた おやじ あの親父 いわく や はったり屋 : 酔狂な やったせ すいきよう めだ 目立らたがりーーー ・ : だとさ 4 イ・朝一 おことさんや くろう でし 弟子たちの苦労が しの 忍ばれるせ みマ・五郎ト 4 なにね、ちょいと しごと 気どった仕事が うざったくなって やってみた かったんてすよ
おいら こうなんた : とうしてか せんせい 先生 : ごろはち 五郎八よう : ・ にんげん 人間なんて あっけないもん たなア : かんせい ねん 寛政一〇年 ( 一七九ハ年 ) 、三九歳のおり てつぞうそうりなでし 鉄蔵は宗理の名を弟子にゆすり ほくさいときまさ 『北斎辰政』の名乗りをあけました ねん
′第■■ いま、ちまたしゃ そうり 宗理のそそとした びじんひょうばん 美人が評判さ なに、歌さんの いきびじん 粋な美人ほと しゃないがね よう、先生ってば よう : せんせい つうう なんにち こうして何日も たの 頼んてるのに やかましいわ 気が散る ! いいかけん弟子に くわ 加えてくたさいよう そうりせん 宗理先・
しそうか まさに『師造化』の ばんぶっしぜん 款のとおり万物・自然 ないものはないという えが 描かれようで かん そうかあ・ : ? これをひとっ本に なさいませんか : ・ ? ほん : 師匠は たくさんのお弟子さんや えなら ちまたの絵を習われる えてほん ひと 人のため絵手本を 出されるとか・ ししよう おな それと同しような ししよう もくてき 目的で、師匠なりの よなか 世の中 おも 思いっかれたものを 絵になされては : ・ ? おもしれえ 4
イ - たの りんばししよう ありや琳派の師匠に 頼まれたからた いじよう これ以上はめんとう くせ工 言ってるたろ おいら弟子なんて がら とれる柄しゃねえって そうじ たって宗ニさんが いらっしやる それにあんた なりは町人たが もともとはお武家 の出たって ? ちょうにん おいら。と煙は きれ でえ嫌えた ! 師匠 5 ししよう まあまあ ごろはち 五郎八さん あれてほんとに 気に入ってなかったら くち ロもきかない ひと 人ですから ちょいとぶらっと してくる
せんじろう 善次郎はすっかり なついてしまいましたな おもしろい男よ かねこま オレが金に困ってるもんたから やたら和印を描けと一一 = 0 う : ごを よ , っッ ととや 魚屋の : ・ ほくさい でしととやほっけい 北斎の弟子 : ・魚屋北渓 つうしようはつごろう 通称・初五郎 , 物ャ たしよう オレも多少は描いちゃ いるがな・ かみとりしま 一時はお上の取締りが きびしかったから あっちは 落ち着いてんたが オレのやりくりが へタでよ がりよう 画料をそのへんに ポイボイ置いとくからさ * 和印とは、いかがわしい本のこと ししようちか 師匠 : ・近ごろまた お身内がお金の むしん 無、いに : ・ ? ・ ( ( ( し ) かね
そのころの北斎は えか さし絵描きとしてひっぱりだこで いそが 忙しい毎日をすこしていました ひょうばんよみほん あの評判の読本 ですよね なんでこんなに までし いつの間に弟子が ふ 増えたんたか : ・ かず・まさ ほくじ物 ほくさい 一 0- タロ一 師匠 ! ありや ひょうばん すごい評半ですよ ! ししよう 0 アッこら がしつ 画室はさわ るな " " へたにかたづけられると かって 勝手がちがって おちつかん ! で : ・でもこれしゃ あんまりたから : ・ : ・ 0 さあねえ : ・ こてんまちょう 小伝馬町に てんじんわき 天神脇・ やまて 山の手 : せんせい : 先生はこれで なんかいひこ 何回引っ越し ましたかね工 そうしする くらいなら 引っ越すわ !
生来、絵を描くのが好きで かがみしつ とても鏡師を継きそうも なかったので・ : ようけ りようしんかれほうこう 養家の両親は彼を奉公に 出しました かしほんやこぞう 貸本屋の小僧 はんぎほ しでし 版木の彫り師の子・ : と経て せしらしえか ーー生まれついての びようきし 病気知らす よくねん 翌年には師の字をもらって しゅんろう やくしゃえ 『舂朗』と名乗り、役者絵で デピュー ねんがんえし 一九歳 : ・鉄蔵はやっと念願の絵師 かっかわしゅんしようでし 勝川舂章に弟子入りします さいてつぞう おおお」てつぞう タフで大男の鉄蔵には 働くことは苦になりませんでした D ア
ノ△′ィ 川に ほくさいまんが / / 「北斎漫画」は / - へん この後、一ニ編まで はっこう めレ / / / 発行され明治までも つづだい 彡 / 彡 / 続く大口ングセラーと なるのです・ : せんせい 先生、ごせいが 出ますな つぎに出される えてほんしたえ 絵手本の下絵ですか ? なごやでし 名古屋の弟子 まきばくせん なんですか・ : まる この丸や しかく 四角は・ : ? お、つッ オレなりのまア さくがほう 作画法って やつよ 第「新 , ををを談 ばんぶつかたち 万物の形は ほうえんっ 方と円に尽きる ! 方と円 : ほうえん はあ : たいていこの まわ ぶん回し ( コンパス ) と じようぎ 定規でできちまうのよ け . いけん オレの経験や せいようさくがほう 西洋の作画法から 考えるとな ィ明物 )
葛飾北斎と その周辺 」和田哲男静岡大学教授 監修のことば いまでも、芸術家や学者などの中には、世間の常識に背をむけて かっしかほくさい 生きているような人がいます。本書の主人公葛飾北斎も、まさにそ うした一人でした。 この本の中でもふれられているように、一生の間に九三回も引越 しをしたというのは、もしかしたら、ギネス・ブック入りかもしれ ません。号を三十数回変えたというのも、絵師としては記録破り ったことでしょ , つ。 ふつう、絵師というと、ある一人の師匠について、その画風を習 しだいに一本立ちしていくというコースをとりました。ところ 、北斎の場合は、この点でも常識はずれの生き方をしていました。 かっかわしゅんしよう かのうゆうせん はじめ、勝川春章の門をたたき、そのあと、狩野融川の弟子とな 、狩野派の画法を学びました。それだけでも " 異端とみられて た時代、北斎は次からつぎへ、先生を代えています つつみとうりん はっきりしていることだけを追ってみると、そのあと、堤等琳 たわら について漢画を修得し、さらに住吉広行について土佐派を学び、俵 常識はすれの生き方 142