北斎の「奇行」は、時代に対する精いつばいの抵抗だったとする 解釈があります。この本をご覧になった方は、「あの有名な北斎が 一生あんなに貧乏だったとは思わなかった」という感想をもったか もしれません。 「当代一の売れつこ画家だから、さぞや大もうけをしたにちがい ないと考えるのがふつうでしよう。ところが、いまとちがって、 そのころは、幕府お抱え絵師以外は経済的には恵まれていませんで した。これは絵師だけにかぎらず、芸術家一般にあてはまる現象で ちんせつゆみはりづき なんそうさとみはつけんでん す。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』といった超ベスト・セラーの たきざわばきん 作者滝沢馬琴あたりが、やっと原稿料だけで生活することができた といわれる時代だったのです。その滝沢馬琴との交流については、 この本のなかでふれたとおりです。 武士だけがいばっている世の中に対する北斎の精いつばいの抵抗、 それが「奇行」だったとみることができるのではないでしようか。 あんどうひろしげ ところで、この本の終わりのころに登場してきた安藤広重が、よ 肌旧いい 不朽の名作『富嶽三十六景 144
彡毒要 たきざわばきんいえ ーー滝沢馬琴の家 書をなえ そんな汚い絵 描けるけえ ! えそらごと 絵空事しゃ ないか らんとうじよう 乱闘場へおもむく 気せわしさが てればいいんた くちどろ 口に泥そうり くわえさせろ なんて : ・ あーツ、も , っ がまんならねえ , や朮るフてんら しや、あんた やってみなせえ !
ぶんかねん 文化三年 ( 一八〇六年 ) ばきん ・まくさ、 北斎は馬琴との しごと 仕事のあいまに きさらずあそ 木更津に遊んでいました す組くそ るめの のはく で最ミせ し局 たの 三刃み 朝と め″物 おまえさん、あの人一工。 いつまてうちに いるんてす ? しごと 仕事なのた しかた 仕方なかろう ねん ひと ばきんてつぞう 馬琴と鉄蔵は 舂朗』のころからの つきあいでしたが せいかくせいはんたい 性格か正反対で おお なにかというと大ケンカ ばきん 馬琴よう : ・ 刄間なんて あやふやなもんたな : ・
おお : ・ ~ , ご・こ・に ) いると 胸の内が せいせいして 【ぐるな ~ " ばきん : 馬琴よ
\ へゅ 一第 0 かえ お帰りなさい やし ! けえったせ かって んなもんは 勝手に言わせとけ 0 うへッ しんけいしつ ・あの神経質 おやし オレにはもっと大事な もんがある あんた ! いいだまちばきんせんせい 飯田町の馬琴先生から さいそく さし絵の催促が : 大事なことって そば食いにく ことですか ? せんせい 先生、そんな いやがってないで チャッチャと やってしまったら どうです ? ととやはつごろう 魚屋の初五郎 おめえも ( 何ノ、か 9 ・ そうですよ とうかいとう 「東海道 : ・」も ひとだんらく 一段落つき ましたし ありさかごろはち 有坂五郎八 ほくば
やそうり 屋宗理の二代目を名乗っているので、琳派、すなわち、光琳派の画 しばこうかん 法を修得していたことがわかります。また、司馬江漢本人に習った かどうかはわかりませんが、西洋銅版画の技法を習っていたことは 確実です。 そして、貪欲なまでのこの北斎の好奇心が、北斎の画風を築きあ げていったことはまちがいありません。 滝沢馬簧らとの交流 このような常識破りの生き方、それに、さきにもふれた何度もの とうがらし 引越し、絵が売れないときには唐辛子売りをやっていたなどという 経歴が加わり、いっしか「奇人」とよばれるようになったものと思 われます。 」斎自身もそのことを認めていたらしいことは、「画狂人」とか 「画狂老人」という号を称していることからもうかがえます。 へんくっ ただ、こうした偏屈な生き方だけが強調されると、たんなる「変 がんこ わり者、「芸術家肌の頑固な老人、という印象をうけるだけで終わ ってしまいます。実際はどうだったのでしようか。 りんば 143