・世 31138 ツ・ー第 ふうけいえし のらに風景絵師として ほくさい まえた 豐一こ 北斎の前に立らふさがる男・ ーー歌川広重・ うたがわひろしげ とき この時はまだ家計の助けにと びじんが 美人画などを描く いえし 一介の絵師にすきません えが たす アレ、おもしろい よう 、、、ごめん : せんじろう 善次郎・
北斎の「奇行」は、時代に対する精いつばいの抵抗だったとする 解釈があります。この本をご覧になった方は、「あの有名な北斎が 一生あんなに貧乏だったとは思わなかった」という感想をもったか もしれません。 「当代一の売れつこ画家だから、さぞや大もうけをしたにちがい ないと考えるのがふつうでしよう。ところが、いまとちがって、 そのころは、幕府お抱え絵師以外は経済的には恵まれていませんで した。これは絵師だけにかぎらず、芸術家一般にあてはまる現象で ちんせつゆみはりづき なんそうさとみはつけんでん す。『椿説弓張月』『南総里見八犬伝』といった超ベスト・セラーの たきざわばきん 作者滝沢馬琴あたりが、やっと原稿料だけで生活することができた といわれる時代だったのです。その滝沢馬琴との交流については、 この本のなかでふれたとおりです。 武士だけがいばっている世の中に対する北斎の精いつばいの抵抗、 それが「奇行」だったとみることができるのではないでしようか。 あんどうひろしげ ところで、この本の終わりのころに登場してきた安藤広重が、よ 肌旧いい 不朽の名作『富嶽三十六景 144
て尸 はの い、 い、 カー やはり : たたの旅絵師 とも思われぬ 筆づかー 、ったら よカ うちてお茶 夢ても・ お食事 ても・・・ おまりに なりますか 。、ロド
おこと : レ豸 ) ” いや、すまん : ・ ひるま しつは昼間な : とうしたんたえ ? なにかんが 何か考えごとしてた みたいたけと : ・ 絵がやりたくて絵師に なったんしゃねえのか わからねえ おまえさん
葛飾北斎と その周辺 」和田哲男静岡大学教授 監修のことば いまでも、芸術家や学者などの中には、世間の常識に背をむけて かっしかほくさい 生きているような人がいます。本書の主人公葛飾北斎も、まさにそ うした一人でした。 この本の中でもふれられているように、一生の間に九三回も引越 しをしたというのは、もしかしたら、ギネス・ブック入りかもしれ ません。号を三十数回変えたというのも、絵師としては記録破り ったことでしょ , つ。 ふつう、絵師というと、ある一人の師匠について、その画風を習 しだいに一本立ちしていくというコースをとりました。ところ 、北斎の場合は、この点でも常識はずれの生き方をしていました。 かっかわしゅんしよう かのうゆうせん はじめ、勝川春章の門をたたき、そのあと、狩野融川の弟子とな 、狩野派の画法を学びました。それだけでも " 異端とみられて た時代、北斎は次からつぎへ、先生を代えています つつみとうりん はっきりしていることだけを追ってみると、そのあと、堤等琳 たわら について漢画を修得し、さらに住吉広行について土佐派を学び、俵 常識はすれの生き方 142
じつに七〇年におよぶ ほくさいながなが 北斎の長い長い えしじんせいはじ 絵師人生の始まりでした : ・ 、、宀、 04 一へな ) レしし 0 ゝ ) ゝ きヾし あんた !
飾北斎 ゴーギャンも絶賛 / ハ方破れの絵師人生 大江戸 パワフル人物 おお ぜっさん はつほうやぶ えしじんせい マンガアンべ幸 監修小和田哲男 かっしかほくさい ピエゾコミック 静岡大学教授 草斐化
ひとし そして、人知れす ひろしげ 広重・ この英泉にかきらす うたがわは ライハルの歌川派の くになお 国直・ えいせん くによし 国汚・ ほくさ、 北斎のまわりには なせか流派を超えて わかえし 若い絵師たらが 集まるのでした おみよ ? 0
かしほんやほ 貸本屋も彫り師も きようみ それそれに興味ぶかく きようてつ 器用な鉄はそれなりに こなしていましたが : ・ ーーちがうのです 見るものすべてを かうつ 描き写さすにおれない せいへき おのれの性癖を おいら、絵師に なる : ・ なるったら なるんた ! 鉄蔵は知り ぬいていました てつぞうし ・ 1 い一ェ粤
やた また矢立て 下けて・ : あれかね 絵師ってのはみんな あんなもんかね てつ おや、鉄つあんは お出かけかい ? なりふりかまわず そこらしゅう写して まわって : ・ なにかって工と 屋根のばって : ・ うつ 0 も。 へべ ひと うちの人 くらいてすよ * 矢立ては、筆と墨汁がセットになったもの でかけるったって えか そこらて絵を描いてる くらいたってん だから : ・ でもまア さけ 酒もバクチも やらねえし