王子はかれらの信用を裏切ったようなものだった。 おど また、ある者たちは王子がそんな振る舞いにでたのは、ユラス王太子が彼を脅していたため ではないかと噂した。 やさ 王子は優しいひとがらだ。乱暴者の兄に詰め寄られれば、首を縦に振るしかなかったのでは いきりよう さまざまな噂が生霊のように乱れ飛び、ひとびとの間でちからを振るった。王子はいくど も王位を譲った理由を問われた。しかし王子は部屋に閉じこもったまま、 っさいそれらに耳 を貸そうとはしなかっこ。 いつばう、鼻息を荒くした王太子の一派は、王子のその一言でちからを得、王子派の意見を 退けた。王子派の者たちは彼の嘆願を「気の迷いだ」としてひるがえそうとしたが、ユラスた ちはそれをみとめず、そのまま強引に王位についた。 あわ 慌ただしい即位で、王宮内が混乱したまま、シャーンは新しい御世を迎えることになった。 ちつじよ 青それが十日過ぎて、ようやくもとのような秩序を取り戻しはじめたのだろう。 脈「王子さま、お聞きになられていますか ? あなたさまが、陛下のはじめてのご政務なので 血 蘭 かさねて言われ、王子は我に返った。はツと気持ちが引き締まる。 わたしが、兄上のはじめての政務。 たて
部屋の壁の隅に、三十六本の傷がある。ひとつの夜が明けるたびに、王子が刻んできたもの ひぎかか あの夢を見て、起きるたびに王子は膝を抱えた。膝のあいだに顔を埋め、思い出した。 兵士に引き据えられて部屋を出た王子は、太い柱の陰に身をひそませるようにして見てい る、若い男と視線を合わせた。 彼とは顔なじみだった。図書寮で働きはじめたばかりの、職員だった。 男は衛兵にかこまれた王子を見て、びくりと肩を震わせた。気まずそうに、目をそらした。 遠目だったのに彼のあぶら汗も青ざめた顔色も、よくわかったものだと、王子はいまだに苦 笑したくなる。 それが、すべてだ。火を見るより明らかに、王子を罠に陥れる片棒は、あの男が担いだの だと知れた。 青彼ならば、王子が何を読んでいたかすぐに知れる。彼ならば、王子と同じくらいには古書の じゅじゅっ 脈なかの呪術に通じていたはす。 じゅそ の呪詛を書き写すくらい、わけもない。 蘭 裏切り者 : ・ いちどだって、王子が彼につらく当たったことがあっただろうか。仕事になれない彼がしく を。 わなおとしい かっ
大勢の足音がし、荒々しく扉が開け放たれた。 十人を越す衛兵に踏み込まれたとき、王子はわけがわからないといった顔をしていた。 たった今まで、眠っていたのだ。 よろい 足音に起こされてみると、鎧をつけた男たちが険しい顔をしている。なにかあったのだろう 「王子」 隊長がやがて口をひらいた。刺すような目つきだ。どうして ? 篇 彼はユラス王太子派と王子派にわかれたシャーン王室で、王子派に立っている男だった。い まなぎ 脈つだって、王子を見守るような眼差しをしていたのに。それが、なぜ今日はちがうのだろう 血 のカ ? ・ せいむ 蘭 「ユラス国王陛下が、本日即位なされてはじめての政務をおとりになります」 固い声で、彼はそう言った。王子はあいまいにうなずく。 けわ
わきばら サヤメジョウ トカゲの脇腹をそっとっかみ、顔を自分のほうに向ける。彩女城で見たお芝居を、彼女は懸 めい 命に田 5 い出そうとしていた。 「ああ、王子さま。あなたは、ふれいでりい王子さまなのですね ? 」 しゃべ まね ふいに紫万は喋りだす。精一杯、芝居のなかの姫君の顔つきを真似していた。 : 王子の名前は、ふれでりくだったような気もした。 のろ 「こんな : : : あられもない姿に変わってしまわれるなんて。いったい、どんなおそろしい呪い がふりかかったことでしょ , つ」 〈あられもない〉ではなく、〈見る影もない〉だっただろうか。 いばら 「それでも、来てくださったのですね。この荊の壁をよじのばって」 その芝居では、姫はとじこめられていた。だれかが助けることのないようにと、するどい棘 をもった荊におおわれた塔のなかに。 「王子さま、おけがを。ああ、なんてことでしよう」 青荊の棘に、トカゲの王子の腹は真っ赤だった。一足ごとに、棘にからだを切り裂かれる痛み 天 をこらえながら、彼はここまで来たのだった。 脈 血「すぐに手当てを致しますわ。 ああ、魔王が ! 」 みずか 蘭 姫が自らの衣を裂いて、トカゲの腹に巻こうとした瞬間、塔には恐ろしい足音がとどろく。 姫を取り返そうとやって来た王子に気づき、魔王がやって来たのだ。 けん
青 天 脈 の絶叫で、目が覚めた。気づくと、王子は寝台の上にいこ。 蘭 ひどい寝汗だった。衣服の背が、べったりと張りついている。 ゅめ : ・ 悪い 王子が図書寮の職員よりもまじめにそこへ通っていたことは、王宮のだれもが知る事実だっ 。王子を探すなら、図書寮かルイズⅡデアリナ姫の家のどちらかだ、と言われるほどだっ 文献を探してつかった古い呪詛。 それは、犯人が王子だと言うために作られたようなものだ。陥れるための、黒い罠ー 「わたしじゃない ! 」 だれも耳を貸そうとはしなかった。衛兵隊長は首を振り、それから、おもい声で告げた。 けず 「王子さま、あなたはいまこの時より、その名から王族の『ケ・アカバ』の文字を削られま ゅうへい す。謀叛の罪により、国王陛下の命と名により、ダマカレスの塔に幽閉いたします」 こ 0 「わあッ ! 」 わな
それよりも、ユラスから逃れられたという点で、彼女がうらやましい。 ルイズ、今日もユラスがあざ笑う。わたしを笑っている , あなたはいま幸せか、ルイズ。自由になったのか ? それとも、泣いているか ? ルイズ、ルイズ。お願いだ、わたしを連れていってくれ : そう声がした。 ルイズ日デアリナのものだったのか。そうでなかったのか。 王子にはわからなかった。すでにおかしくなっていたのかもしれない。 王子は立ち上がった。声のしたほうに手を伸ばした。 たましい かっしよく その手を、褐色の細い女の手がっかんだ。ずるりと、魂だけをその手は引き出し、王子は 空に連れていかれた。 おいて :
192 王子はまたたいて、衛兵隊長の顔を見つめた。 ふうしゅう シャーンには、奇妙な風習がいくつかある。そのうちのひとつが「王のはじめての政務」 というものだった。 あらたに玉座に就いた王は、宮廷内でなにかひとつ新しいことをする。たいていはそれは、 たんせい ギ一・トつ、一う わずら 長患いについた祖母を行幸したり、丹精こめてそだててきた花を、宮廷一の貴婦人に捧げた りするていどの、ほのばのとしたものだった。 おおきく政にかかわってくるような、事は起こさない。「王のはじめての政務」は、あた らしい御世を祝うため、みながこころ優しくなるためのものだ。 : とい , つ。 それに、王子が選ばれた : 、身にあまる光栄に存じます。兄上の御世に、幸多きことを」 きまりきった祝いごとを述べて、王子は左胸に手をあてた。 兄上が、わたしになにをしようというのだろうか。 かたほお いつも意地悪く片頬をゆがめていた兄と、かかわり合いになりたくないと思っていたのを恥 ずかしいと思いさえする 嬉しかった。やっと、厭味以外のものをもらえる : 「残念ながら、王子」 にが 衛兵隊長は、苦り切った顔をしていた。 まつり′】と
王子は飛び上がった。鼓動がいきなり早まる。 ルイズが ? 忘れていたひとらしいこころの動きに、彼は驚いていた。まだ、彼ははっとする事ができる のだ。 どっと汗が吹き出した。身投げ。その言葉がぐるぐると回った。ルイズ日デアリナが死ん 死んだ 「なぜだ」 せ 問うた声は、しやがれていた。のどの奥に詰まるものがあるように、王子は咳き込む。 外の声のぬしは、答えなかった。去ってゆく。サンダルの音が次第に遠ざかっていった。 なぜだ : ・ うと 残された王子は自分に問う。彼女も、ユラスに疎まれたのだろうか ? 父が生きていたころ、ユラスを諌めたのは、父とルイズⅱデアリナ姫だけだった。ュラスは 父を嫌っていた。それとおなじように、ルイズⅡデアリナ姫をうるさい女だと思っていたのか もしれない。
な こよみ 暦が新しい月に移った十日ほど前、兄のユラス王太子は、亡くなった父・ケラスドニア三世 のあとを継いで、シャーン王国・アカバ王朝の四人目の王となった。 父の死から、二十四日目のことだった。 あの日、ルイズデアリナ姫の屋敷から帰った王子は、その足でユラスのもとへ向かった。 うすものをまとった女たちを従えて、寝そべっている兄の前で、王子はひざまずいた。床に ひたい 額をこすりつけて願った。 どうか、一日も早く玉座についてください : ちゃくなん たんがん 王子の嘆願により、王家の争いは避けられた。正妃の嫡男が、兄とはいえ、妾腹のユラス ゆず に王位を譲ったのだ。 血で血を洗う争いこそなくなった。しかし、宮廷はふいの砂嵐に見舞われたようなさわぎと よっこ 0 『正嫡の君が、血筋の貴さを主張しなかった』 それを「兄に対する敬意の表れだ」と受け取った者はわずかだった。多くの者は、王子はア カバ王朝の血筋、ケラスドニア三世の血筋をないがしろにしたのだと、ひどく傷つけられたよ うに田 5 った。 正嫡の君に、・ とうでもいいことのように扱われるような血筋を、我らは王家として崇め、守 ってきたのだろうか っ
・ほほえ うか、微笑んでくれるだろうか ? 「ルイズ はツと顔を上げる。王子は、夜明けのうす闇のなか、壁に向かって座っていた。ダマカレス の塔の塗りこめられた部屋のなかにいた。 「いまのは ? 」 夢か ? : まばろしか ? 首を振る。あれはうつつだと腹の底で感じた。この気の狂いそうな暮らしの見せた夢なんか じゃよ、 ルイズ日デアリナは逝ったのだ : 彼はこんな塔に置き去りにされた。みじめな姿で。 今日もまた、陽は昇る。いつもとおなじように、看守は食事を運んでくるだろう。王子は空 青腹をこらえられず、みじめさを噛みしめながら食べるだろう。 脈そうして、一日一日、過ぎてゆく。 のわたしは死ねるのだろうか。 蘭 姫のように。 王子には、ルイズⅡデアリナの身投げのわけが何だったのかは、どうでもよくなっていた。