121 蘭の血脈《天青篇》 こぶし 九鷹が、ふたたび何かはげしく喋った。拳を硝子に打ちつけている。 けれど、それはもう透緒呼には聞こえなかった。その仕種もそのわけも、彼女の想像を越え たところにあるものだった。 こんな顔の九鷹を知っていると、ばんやりと思い出した。あれはセラニアだ。ザカードの わな 罠にはまり、同士討ちをしそうになった九鷹は、彼女を遠ざけようとした。 ふう その時の顔が、こんな風だった。 まさか、また同士討ちになるというの ? 冷たいものが、背筋を駆け降りる。 トオコ ! 〉 必死の表情に、透緒呼は首を振った。何も聞こえなかった。伝わってこない。 しゃべ
威圧するような黒のなかに、何かが見えるようだった。誰かの怒った顔。つり上がった、細 まゆ い銀色の眉。 「ねえさん ? そこにいるの ? 」 つぶやいた。 ザカードに連れられてきた。その意識さえも、透緒呼からは欠落しているようだった。も う、わからない。 もう、忘れた 「どうして怒っているの ? 」 ワタシナンニモシテナイワ。 「みちびかれただけよ。本当のことに ザカードに。 「ねえ」 っ 青闇が揺らぎ、見えたと思った真梛の顔は消えた。燃え尽きた薪のように、銀の煙がひとすじ 天 上がる。そのあとに、ふたたび炎が立ちのばった。 脈 血赤い、その影に透緒呼は眉をひそめる。 蘭なぜ、こんなものが見えるのだろう。 四不快だった。目をそらしたくなる。それは、彼女の〈導き手〉がそうさせるのだろうか。 いあっ まき
大勢の足音がし、荒々しく扉が開け放たれた。 十人を越す衛兵に踏み込まれたとき、王子はわけがわからないといった顔をしていた。 たった今まで、眠っていたのだ。 よろい 足音に起こされてみると、鎧をつけた男たちが険しい顔をしている。なにかあったのだろう 「王子」 隊長がやがて口をひらいた。刺すような目つきだ。どうして ? 篇 彼はユラス王太子派と王子派にわかれたシャーン王室で、王子派に立っている男だった。い まなぎ 脈つだって、王子を見守るような眼差しをしていたのに。それが、なぜ今日はちがうのだろう 血 のカ ? ・ せいむ 蘭 「ユラス国王陛下が、本日即位なされてはじめての政務をおとりになります」 固い声で、彼はそう言った。王子はあいまいにうなずく。 けわ
178 三度目の攻撃の前に、矢禅は彼女の足元めがけて矢を飛ばす。 射抜け ! あめ 矢は飴のようにぐにやりと曲がって床に落ちる。またか じゃま ちょうだい 「邪魔しないで頂戴 ! これは私の獲物だわ ! 」 うな 透緒呼が唸り声を上げた。・ サカードの手助けがはいっていると、きちんと気づいているの くすんと鼻を鳴らすようにして、透緒呼が笑う。矢禅を見つめ、目を細めた。 「いらっしゃい。ばらばらにしてあげる」 人ではない 「透緒呼、それは人殺しの顔です ! 」 とな 矢禅はあわてたように唱えた。透緒呼の顔はひとでも〈陽使〉でもなく、ただ血に飢えたも のだった。 あくりよう 悪霊や、山ほどの死体を築き、その血を浴びなければこころを安らかに保つことのできな たぐい い類のものと同じだ ! くすくすっと彼女は笑った。それが答えだった。 コロサレル。 さと そう悟った。殺される。確実に、矢禅はいのちを断たれる。 ョウシ
172 「いやよ。冗談じゃないわ ! 」 醜いものを見、吐き捨てるような顔をする。汚いものにでも触れたように、手を振り払っ ・ : 私はごめんだわ ! あんな所、大嫌い 「帰る帰るなら、ひとりで帰るんだわね。 絶対、戻ってなんかやるもんですか ! 」 そむ つば 顔を背けて唾をはく。言葉にしただけでぞっとするのか、こまかくわなないていた。 くだ 亜羅写が矢禅の片手を砕いたあの時を、思い出しているのだろうか。 透緒呼の視線が光を失い、内面に沈み込むように弱々しくなる。 みけん 眉間にしわが刻まれた。何かつぶやくように、しきりにくちびるが動く。 、んな・ : 、わたし : : : 」 顔色を失って透緒呼はふるえた。 「あらしやはわたしをねらったのよ、わたしをきらいなんだわだからエセラなんかっかったの よ、そんなところへかえれないわ、みんなわたしをだまして、わたしひとりなんだわひとりな のよ」 単調なコトバがあふれだす。 「透緒呼 ! 」 落ちつかせないと。
涙が、ふたすじ流れていた。汚れた顔を、にじむように耳のほうへと伝っている。 まばたきもせす、彼は片手を動かした。傷ついた左手がもたげられ、紫万を招く。手のひら が、黒髪の上に乗った。 うなが 促されるようにして、紫万は彼の隣へ寝そべる。獅伊菜は空を見上げたまま、抱いた彼女の 頭を撫でつづける。 「一緒に生きようと、やくそくしましたね」 つぶやかれた声があまりにも静かだったため、紫万は飛び起きるのをためらう。そうだと、 さっきから言っていると、怒鳴るのをやめる。 「やくそくしました。だから、わたしたちはここに来た。落ち着いたんです。落ち着くという のがわかりますか ? 」 「うん : : : 」 たず 訊ねられ、あいまいにうなずいた。見つかりにくい場所にひそんで、ふたりはホッとしたの 天 「こころが静かになると、怖いんです。紫万、あなたとふたり生きて、生きてゆく先ずっとに 脈 血黒い雲がかかっている。後ろから、たくさんの手と血まみれの顔と、うめき声が追いかけてく 蘭 る。 わたしは、それを振り払えないんですーー」 、、つ ) 0 こわ
言ったよお : かっとう 紫万にはわからない。彼がどんな葛藤のなかにいるのか。憎しみと怒りで両手と領土を血の 色に染め、それらすべてを捨てて逃げてきたことが、どんな痛みになっているのか。 ちからを、戦いには使わない。人を傷つけるためには使わない。そう誓ってきた少年時代を 過ごしてきたのだから。 紫万が悪夢を見ることはなかった。まだ。カョウを辱めた男をなぶり殺したことさえも、 夢に見るにはいたらない。 いまだけで精一櫂だ 0 た。れてゆくような獅伊菜だけが頼りの、この狭い世界に暮らすだ けで、やっとだった。だから。 だから。 ため息のように、、 さく。かすれさせて、獅伊菜が笑ったようだった。 ほお 驚いた紫万はしやくりあげる。頬を乱暴にこすって彼を見た。 どろ あおむ 獅伊菜は、大の字になって仰向いていた。泥だらけの顔で、空を見ていた。 その顔を、紫万は這って行き、上からのぞいた。 獅伊菜さま ? はずかし
ザカードは怒ってはいなかった。 「責めたのではない。ただ、そなたがなにゆえにそのような顔をするのかが、知りたかったま でのこと」 「私、そんな顔してないわ」 「もうよいのだ」 ーカーカ 繰り返したザカードの声は、どこか苦々しげに聞こえた。色の濃くなった瞳は、何か思いめ ぐらすように揺れている。 「よい ふいに、彼は腰を浮かした。覆いかぶさるように、透緒呼を抱きすくめる。 ばんかん ため息がもれた、ようだった。ザカードは何も言わず、まるで、万感の思いを抱えた恋人の よ , つに、きつく抱きしめる。 青「ザカード ? 」 とまど 天 彼らしくもない弱気にもとれる行為に、透緒呼は戸惑いの声を上げた。どうしてしまったと 脈 血 いうのだろう。彼が彼ではないように感じる。言葉をなくすなんて、ひどく : : : 人間臭し の な 蘭 ザカードは彼女に答えす、しばらくそのままでいた。髪を撫でることもせず、指先すら動か 幻さず、ただ、透緒呼を腕のなかに卵のようにかかえこんで。 おお かか くキ一
跖つばいの腕が、わたしを掴もうとしました。仕打ちを忘れたのかと。 だから、わたしの左手がいけないのです。左手を埋めてしまえば、みんな理まってしまう。 だから : : : 」 「わかんないよっ、 そんなのい」 からだじゅうから吹き出すような怒りに任せて叫んだ。両手を知らすに突き出し、紫万は彼 あた の首の辺りに体当たりしていた。 よわい獅伊菜のからだが、横へ倒れる。そのうえに転がった紫万は、はね起きた。土くれを つかんで、彼の顔へ投げつけた ! 「ばかつい」 二度、三度と、彼女はそれを繰り返す。息をつけない獅伊菜が、顔をかばう。かまわないー 「ばか ! そんなことしないでよ、わけわかんないよ ! やめてよっつ ! 」 左手が何 ? つみ ? 手の罪 ? 埋めれば ? すべて ? わかるもんか、そんなのわかるもんか ! 「ばか つめ 爪が固い土を引っかいた。投げつけるものがなくなり、紫万は彼に馬乗りになった。首を絞 め上げて揺さぶる。揺さぶる。 「ねばけんなよ ! 喋れんなら、まいンち喋ってよ ! ずっとひとりにして、ひとりでこわい しゃべ
192 王子はまたたいて、衛兵隊長の顔を見つめた。 ふうしゅう シャーンには、奇妙な風習がいくつかある。そのうちのひとつが「王のはじめての政務」 というものだった。 あらたに玉座に就いた王は、宮廷内でなにかひとつ新しいことをする。たいていはそれは、 たんせい ギ一・トつ、一う わずら 長患いについた祖母を行幸したり、丹精こめてそだててきた花を、宮廷一の貴婦人に捧げた りするていどの、ほのばのとしたものだった。 おおきく政にかかわってくるような、事は起こさない。「王のはじめての政務」は、あた らしい御世を祝うため、みながこころ優しくなるためのものだ。 : とい , つ。 それに、王子が選ばれた : 、身にあまる光栄に存じます。兄上の御世に、幸多きことを」 きまりきった祝いごとを述べて、王子は左胸に手をあてた。 兄上が、わたしになにをしようというのだろうか。 かたほお いつも意地悪く片頬をゆがめていた兄と、かかわり合いになりたくないと思っていたのを恥 ずかしいと思いさえする 嬉しかった。やっと、厭味以外のものをもらえる : 「残念ながら、王子」 にが 衛兵隊長は、苦り切った顔をしていた。 まつり′】と