ないしのすけ ことあるごとに、父帝の典侍だった母は、彼にそう言った。 たしかに、そうなのだろう。 みよ こうきゅう しりぞ ひとりの帝の御世が終われば、その帝に仕えていた後宮の女たちは、すべてそこから退く。 な によう′」 子を成した女御もお手のついた女房も、ふつうは実家へ返される。 後宮は、あたらしい帝の女御たちに渡されるのだ。 その決まりごとにもかかわらず、彼らが後宮で生活できたのは、帝の許しがあったからこそ あわ だづた。帰るべき実家のないわかい典侍を、憐れと思う帝がいたからこそだった。 ( とはいえ、それがどれほど肩身の狭いものだったか ) 隼王の母は、新しい後宮中から軽んじられた。女御たちよりも、それを取り巻く女たちに、 とりわけその意識が強かったようだった。 いそうろう 〈居候の身で〉 そんな目つきで見る者が、あちこちにいた。前帝の典侍とはいえ、母はまだ二十歳にもなら ない娘だった。帝のお心次第では、競い相手とならぬとも限らない。 沖局の物がなくなること、されることは毎日のようにあ 0 た。実家がないために衣装のとと くちぎたなののし まれ 籠のわない母を、ロ汚く罵る者も稀ではなかった。 ( そのなかで、帝が何をしてくれたか ) キ一きの 何もしてはくれなかった。表立って前典侍をかばい立てるのも、波風が立っと、わかっては きそ はたち
を考えているのかと。 「亡き父帝に、感謝せねばならぬ」 へいふく 平伏したまま、言葉が出せない。 きんじよう 今上が前帝を忌ま忌ましいと思いはすれ、ありがたいと感じているはずなどなかった。 かって、なぜ、過ぎた御世の残りものを、後宮に置かねばならなかったのか。父帝の気まぐ いっとき れにより、一時でも帝はひやりとせねばならなかったのか。 とうぐうくらい 隼王は生まれたその時に、今上の次の東宮の位を、いちどは約束された。 アメオトシマ 〈雨の音洲〉で、女帝や女東宮の立っことは、ほとんどない。 , その昔、女帝の続いた時代に大 いまし きな災いがあったことの、戒めのためだという。 けいふ 女東宮を立てるのは、帝の系譜にひとりの男子もない時のみ。 おとこみこ 今上は、隼王に三つちがいの今東宮が生まれるまで、男御子を持たなかった。兄や弟もなか その決まりごとにより、そのままいけば、今上の一の姫が女東宮となったはすだった。 隼王は、その邪魔をした。彼の知らぬこととはいえ、今上の血に連ならぬ者が、行く先を おびや 脅かしたのだ。 しんか 帝にとっては幸い、前帝は隼王をすぐに臣下に降ろした。 っこ 0
浦「心は余も知らぬ」 帝はさらりとそう言ってのけた。まるで、何が彼らを駆り立てたのかなど、どうでもいし とのようだった。 事実、そうなのだろう。 トリナ この帝が、〈鳥名〉の血につながる王子と姫の罪に、顔をしかめることはないはず。 ( なぜなら、あなたも罪人ですから。主上 : : : ) 隼王の思いなど知らず、帝は続けた。 くわだ 「とはいえ。墨染めの鴉の企てたは、悪しきこと。天に弓ひくは自らの胸に矢を受けると、そ れを知らねばならぬだろう」 罰を下す。 帝はそういった。そして、その役目は隼王のものだった : 「羽末衣。そなたがそれを引き受けてくれたとはな。余ほどの果報者もおるまいよ。二人と な」 くすくす : 忍び笑いが、聞こえた。 うそ ( 嘘を ) 言葉は、帝の心ではない。押し殺した笑い声。そちらこそが本心だった。 ばっ かほうもの
殿の天井から、彼の魂は、部屋を見下ろした。うずくまる自分がいる。そして御簾ごしに、 帝・がいる。 きト ` う・そく 脇急にもたれた帝は、面白そうにしていた。隼王の次の言葉を、待っているようだった。 みや 笑みを浮かべたまま、御簾むこうを見遣っている。 魂の抜けた体だけの彼は、青い顔をしていた。 おび その顔が、ひどく醜く思える。おびえた、怯えつづけてきた男のものだ。負けるなと言い聞 かせ、けれどどこかで負けつづけてきた。 「例のないことゆえ、いろいろあると思う」 帝の声が、どこか遠くからのようにばんやりと聞こえた。 「だが、とくに許す。近衛大将と、よく決めるよう。取り計らうよう : ・・ : 」 けびいし 隼王は近衛府の者。逃亡した者を捕まえるのは検非違使の者の役目だ。 めん しかしそれをあえて許そうというのだ。隼王の帝を思う気持ちに免じたと、そう、言うのだ 籠傍らでこれを聞く勅使の者にすれば、隼王の願いが、叶ったことになる。帝のありがたいお 闇 彼は報いるべきだと、思うだろう。 いな ここで拒むのは、一生の終わりを意味していた。否やは、帝に叛意アリと言ったと、同じ かたわ むく はんい
「鴉王」 じか 直に帝の声がし、鴉王はいすまいを正した。これまでそうしてきた、その癖が出たのだ。 「よく聞け。嵐王は、余の皇子だ」 わずかばかりの間、気を失っていたのだろうか。気がつくと、鴉王は息子に支えられてい 「嵐王・ : ・ : 」 ミカド だから、おまえは帝に似ていたのか ? とうぐう おんなあさ 当時東宮だった帝は、名うての女漁りだった。何をしても許される身。ずいぶんあちこち しんのう 、親王になれない、身分ひくい御子たちがいるという。 、中には帝を帝と知らす、一夜の相手とな 0 た女人もいただろう。 「父上。 しいえ、そうお呼びするのもこれが最後」 つぶや 呟くような嵐王が、見下ろしている。 中 「殿」 燈常磐が、立ち上がった。鴉王の前に膝をつく。 「そうお呼びするのも、これが最後」 常磐が手を差し出した。白い紙包みが握られている。 っ ) 0 くせ
しかし、わずかな間でも、彼の存在を憎まなかったとは言えまい。父帝を、忌ま忌ましいと 思わないはすがない ( それが、ロばかりそう言うのか ) うやま 親を敬いなどしなかったはずだ。父を敬えるのなら、成さぬなかの母である、前典侍をあん な風に扱いはしないだろう。 ( あなたは、母を ) ふたたび、苦いものがこみ上げ、隼王はそれを飲み下そうとこらえた。 「隼王どの。感に耐えぬでしようが、お返事申し上げぬと、失礼に当たりますそ」 勅使の者がたしなめる。その声は、彼の耳をかすめて消えた。 「隼王どの」 おかた 「どうした ? 余とそなたの父帝は、たいへん徳の高い御方だったよ」 帝の言葉が、ざらざらと聞こえた。 その声の含んだ毒に、隼王は気づいた。心が捕らわれる。もしゃ ! わな 沖 ( 罠か 籠 かわしもしない約束、出しもしない言葉を持ち出して、帝は彼をはめようというのか ? 闇 勅使の者が側にいる。それこそが、何よりの証ではないのか ? 隼王はふかい忠義をもって、帝に仇討ちを願い出たと、人は噂するだろう。 , そして彼は評判 あかし
. な、い . 0 四の姫を、陥れたりなど出来ない : ・ 「馬を盗られ、決意したとか。まことのことか ? 」 わ 沸いた湯のように揺れる隼王の内面に、水のような帝の声が飛び込む。すっと肝が冷え、そ ひょうし の拍子に彼は我を取り戻した。 がくぜん おもて 愕然とし、隼王は面を上げた。帝よ、、 。しま何と言った ( 決意 : : : ? ) 身におばえがない。帝と約束をかわしたりなどしていない。いちどたりともー こんわく 聞き違いかと困惑しながらも、隼王は問い返すという非礼に気づいた。再び面を伏せ、詫び る。 「失礼を致しました。おそれいります、しかしわたくしにはいずれのことか : : : 」 「今朝がたのことも、忘れたか ? 」 いぶか 訝しげに、帝はたずねる。 何のことだろうか ? 何のことだろうか 血の気が引く思いで、彼は懸命に記憶をたどる。 実家をあとにした隼王は、何かにすり替えることの出来ない想いを抱えて明け方まで歩い と おとしい わ
むね それでは仕方がないと急使は納得し、その旨を報告すると、あっさり引き下がったのだ。 あんど しゆっし 今日の出仕で、自らも上司にそう言い訳すればいいと隼王は、一時は安堵した。なのに。 ( これはなんだ ? 今朝わたしは言っていない。何も言っていない ) 召されてまで確かめられるような言葉は、ひとことも発していないはずだった。 急使には馬を盗まれたと、それだけを言った。しかし、決意などするものか。何に対しての 決意だというのか し あんうん 暗雲のたれこめるような、いやな予感に彼は包まれた。綿で首を絞め上げられてゆくよう な、じっとりと湿った不安が生まれる。 そういえば、なぜまだ勅使の者がここにいるのか。 彼は、帝の私的な雑用をこなす役目の者。だが、その用向きはもう果たされている。隼王 しようでん は、帝に召され、すでに昇殿したのだから。 本来ならば、彼に退室を許してから、帝は隼王と話しただろう。たとえば、次の除目もまた 断るのか、などと。 少なくとも以前はそうだった。 それが、帝は退室を許さずーーそのまま話をはじめた : ( これは : : : ) わた 0
きんき き裂かれ、禁忌の罪を犯した者として、石を投げられる。 それならば、どこかで。どちらにしろ、戻れはしないのならば。 「わたしには、出来ぬことだから」 四の姫を連れてゆけはしない。御所に火を放つ大胆さも、すべてを捨て去る勇気も、彼には . な、かつ」。 ( 四の姫。わたしに文を書かせようとした、かわいらしい姪。あなたは、もうほかの殿方か ら、文をもらっただろう。わたしが、書いてはあげられなかった、恋の文を ) あの時の約束も果たせす、成人したあとも、隼王は彼女のために筆を手にしはしなかった。 無理だった。 どんなに焦がれても、あの帝に四の姫をいただきたいとは願い出られない。帝を目にするた びに、思い出すのだ。その紫の香の香りに、思い出すのだ。 白い、片膝 : ・ あの日、隼王は帝に、完全な敗北をした。 こども かな 童では敵わないのだ。大人には、あの異母兄には。 まなざ 見据える眼差しが、恐ろしかった。 隼王の命は、、 しつも帝に握られていた。九重典侍の命が、そうであったように。 逆ら , つまい めい
彼が誰と遊ばうと、帝はかまわぬふうではあった。けれど、まわりの女御たちは、快く思わ なかったし、あえて、無理を押してまで、帝は隼王を引き立てようとはしなかった。 「おかあさま : : : 」 心の底に、氷のように冷たい恐れが生まれた。後宮で見かける帝は、、 しつも無感動に彼を見 下ろしている。 腹違いとはいえ、弟であるのにと思うと、哀しい気持ちになった。 ( やはり、主上さまは、自分の御子さまほどには、弟はかわいくないのだ ) 弟なんて、いらなかったのかも知れない。 にこりとも笑わぬ帝に、隼王はそう思った。 あの、目が怖い : 一ふきよう 母よりも歳上の異母兄は、彼にはよくわからない。ただ、御不興を買ってはいけないのだ と、そればかりを聞かされて育ち、そう思ってはいた。 「おじちゃま、四の姫とごいっしょに、お花をつんでくださいな。ないしのすけ、およろしい でしよう ? 」 そで たいめいおお 四の姫が、九重典侍の袖をつかみ、揺さぶった。彼女にしてみれば、父から大命を仰せつか ったのだ。はたせないとなると、困るのだろう。 「おかあさま。行っても : : : よろしいですか ? 」