「さくら・ : : ・」 涙に、にごった目をして、吹雪王が桜姫を見つめた。心から驚いている。 「今の、〈声〉で言ったね : : : 」 「言ったわ」 頷いた。 今までにはなかったことだ。桜姫は人の〈想い〉を聞き取ってしまうだけだった。 それが、語りかけた。吹雪王の、いに、直に。 ( どうしょ , っ : : : ) 桜姫は、何かを踏み越えてしまったような、心地悪さを感じた。 人の心をのぞいてはならない。人の心にも語りかけてはならない。 心はその人だけのものだ。誰も踏み込んではならない、神聖な場所であるはずなのに。 幼い日、桜姫は一人の男の〈声〉を聞いて " 蕾の姫〃となった。今、兄がまたそうならない とは限らない。、、 心に踏み込まれたことを恐れ、頑なになってしまったら。 中 ( 吹雪王 ) みは 燈見つめた彼は、はりつめた桜姫の表情にかすかに目を瞠った。すぐに、微笑みを見せる雨上 がりの、雲の切れ間のように。 ふえな 「あなたは本当に〈笛鳴り〉の姫なのかも知れないね。まるで神業だよ、桜。 じか かたく かみわざ
二人ははね起き、桜姫は胸元をかき合わせた。だれ ! 「桜姫、そちらか」 引帷をかき分け、一人の男が姿を現した。 「お兄さま」 桜姫は思わず叫び、わずかに身をそらした。 もう一人、吹雪王がいた 薄汚れた神官の衣をまとい、肩で息をしている。頬には土がこびりつき、目がいつもよりも なまなましい血の赤をしていた。 ものけ 「おのれ物の怪か ! 」 のうし ほうえ 直衣の吹雪王が、桜姫を背にかばった。乱れた衣のまま、法衣の吹雪王に立ちはだかる。 まばろし 「幻とやり合う気はない。桜、そのわたしを退けてくれ。あなたがわたしを恐れると、その わたしが、わたしを倒そうとするだろう。桜姫、わたしが物の怪ではないと、あなたならわか るだろう ? 」 中 燈答えられず、桜姫はふたりの吹雪王を見つめつづけた。 自信がなかった。そう。そもそも、ここはどこだというのだろうか ? やしき こんな邸のこんな部屋に、見覚えなどない :
けもの ふたりは小さな獣のように目を覚まし、はっと辺りをうかがった ひづめ 藪がざわざわと動いている。枝を振り払う音がする。小さな舌打ち。蹄が木の根を踏みつけ 「おにいさま ! 」 桜姫の口から、泣き声が迸った。膝を引き寄せるように擦り寄る。それを、吹雪王はいっ そう引き寄せた。 これは近い。 本当に近い 「立って、桜。はやく ! 」 両脇を支えられ、桜姫は立たされた。その右手を、吹雪王が素早く握りしめる。 「声とは別のほうへ行くんだ。急いで。枝が生い茂っているから、それほど早くは進めないだ ろうから」 中 膝からカが抜け、桜姫はその場に崩れかけた。引き上げられたが、足に力が入らない。 燈 ( 見つかる。もう、見つかってしまう ) 闇 唇がわなないて、桜姫はいやいやをした。人の気配が、近づいてくる 「桜姫、歩いて ! 」 る。 ひぎ
黄ばんだ、何の飾りもない笛に桜姫はひそかに眉をひそめたまるで貧しいものから奪った ような品に見える。 器用にそれを指先で回し、男は笛を口に当てた。 ひゆるりい 、一う 小さな涼やかな音が香のようにふわりと立ちのばり、消えた。 ざあっと、桜姫の体を風が包む。草むらを渡る青の嵐が、体のなかを抜けてゆく。 ( この者の声と、同じ音色 ) 音の高さはまるで違うのに、なぜかそう思えた。荒々しいのに、そればかりではなくすがす 力しし ほほえ 男は桜姫に微笑みかけ、何事もなかったかのように笛をしまった。 いや 「この音色は、お嫌ではないね ? 」 桜姫は答えなかった。危うく、つり込まれて頷きそうになるのをこらえた。 もとのように、ちゅういぶかく心を閉ざす。 " 蕾の姫〃になるように。 ( お兄さま以外の方に、心なんてひらかない : そのほうがいい と、どこかで声がした。それが誰のものなのか、桜姫にはわからなかった。 あらし
( けれど、それがこんなにつらいことだったなんて ) 甘かったのだ、桜姫は。 たみ 〈鳥名〉貴族の姫が、民と同じように暮らせるはすがない。その手を荒らして、田を耕し、獣 を取って生きてはゆけない。 着物さえ、ひとりでは着替えられない。 ( それが、わたし からす だんじよう たた いままで、鴉の姫、壇上の姫と讃えられてきたのは、自分の徳ではなかった。望まなかっ によにん たにしろ、女人としての最高の誉れをはしいままにしたのは、彼女が桜姫だからではない。 さきのさきのみかど ( 前々帝の血を引いた、鴉王の姫、だったからこそ : : : ) 「桜姫」 吹雪王が、そっと離れた。 両手で肩を掴まれ、まっすぐに見つめられて、彼女は視線をあげた。 へび 吹雪王の目は、真っ赤になっていた。いつもの蛇の目よりも、濃い色に。 中 「まだ、 わたしを愛している ? 」 燈たずねられ、桜姫は唇を噛んだ。涙が盛り上がる。 ( そんなこと : : : ) そうに決まっていた。いまさら、聞かれすとも、心は変わらない。一度だって、変わっては つか たがや
と、桜姫は気づいた。 「千寿・ : : ・」 「困った甘えん坊さんですわね。こんなお姿をお兄さまに見られれば、笑われてしまいます よ。・追い返してまいりましょ , つか ? 」 「いや ! 」 くちもと 驚いて顔を上げた桜姫を見て、千寿が吹き出した。くすくすと、手でロ許を押さえて笑い転 げる。 「いやですわ、冗談でございますよ。姫さまはお兄さまにお会いになるのを、楽しみにしてい じゃま たんでございますもの。この千寿が、どうして邪魔をいたしましようか」 「もう、ばか。千寿、きらい」 まゆ ふく つら みずか 桜姫は膨れつ面になり、横を向いた。千寿は面白そうに、手を取ってきた。自らの手で繭の ように包み込む。 「さあ、お兄さまが参りますから、わたくしは下がりますね。何かございましたら、どうぞお 呼び下さいまし。どこからでも、いつでも」 もすそ すい、と千寿が下がってゆく。音もなく、その裳裾さばきは、鮮やかなものだった。 「そんなところで、何をしているの、桜」 桜姫の肩に、手が触れた。
どう : もく ふいの申し出に、桜姫は瞠目した。 何を、言いはじめたのだろうか。この、盗賊の頭領は。桜姫を東宮妃と、吹雪王を〈御児 し、よう・き かば 方〉の神官と知っていて、庇おうとするなんて、正気ではない。 はんきひるがえ それは帝にたてつくことと同じだ。叛旗を翻すようなものだ。 「なぜ」 しんちょう 廩重に、言葉を押し出した。 うかっ 迂闊なことを言えば、すぐに弱みを握られそうな気がする。首根をつかまれた異国わたりの くじゃく 美しい孔雀のように、その手を締められれば、桜姫の命は消えるだろう。 「なぜ、と言われるか」 また、男は笑う。今度は押し殺すように、片手で鼻の頭を軽く押した。 「あなたが『桜の姫』であられるからだ」 ( それでは、わからないわ ) 桜姫にとって、それは答えではない。なぜ陽は沈むかと問うて、陽は赤いからと答えられた ようなものだ。 「それだけだ」 男は、困ったようなあやふやな表情を浮かべ、懐に手を差し入れた。細長い笛を取り出す。 ひ とっくに
ひょいと頭領に顔をのぞき込まれ、桜姫は心の臓の音を乱した。床に打ち伏す。 ( なんて 隠している女人の顔をのぞくなど、考えられぬふるまいだった。対面していて、たとえ御簾 とのがた がめくれ、そのかんばせがちらりとのぞいたとしても、すっと目をそらしてみせるのが、殿方 ではないだろうか。 つか 怒りで、抑えようもないほどに体が震えた。その桜姫の両腕を男が掴む。半ば、引き上げ くずお すぐに、腰を抱え上げる。崩折れるのを許さぬというかのように、びったりとその身に添わ せた。 動く力も起きないほど、桜姫は怒りにつつまれていた。されるがまま、人形のように立っ 中 男はふたたび、桜姫を見つめる。なにか見透かそうとするように、目を細めた。 燈視線を合わせぬように、桜姫は意識をそらした。ばんやりと金の面がかすんでゆく。 闇 「お頭 ? 」 けげん 男たちが怪訝そうな声を出す。 っ ) 0 こ。
桜姫は身をよじった。この手に捕まったら、また、また : 「ほうら。お姫さん、捕まえちまうぞ ! 」 その手が、幾度も袖をはたいた。 その気になれば、男にはすぐ桜姫がっかめるのだ。それを、あえてしない。 からかって、いたぶっている。猫のように。 ねずみ この男にとって、桜姫は鼠でしかないのだー 「立ち去れ ! 」 吹雪王が振り向きざまに、男に二本指を突きつける。 物の怪の叫びのような、おそろしい音とともに、二本指から、火の玉が吹き出す。神官の術 「ぎやっ」 鼻すれすれをかすめた青白いものに、男は手綱を放り投げた。背をそらし、飛ばされたよう にふいに消える。 にぶ 鈍い音が、風の中からとぎれとぎれに聞こえた。落馬したと桜姫は知る。 ものけ そで ねこ
くはなかろう」 男は楽しそうに肩を揺すって言った。 人だからこそ、恥ずかしいのだと桜姫は歯がみする。ああ、なんということだろう。 「いがいと、おつよい姫でいられるな。もう、気は失わぬと見た。大したものだよ」 声が、ふと和らいだ気がして、桜姫は顔をそらして目を閉じる。 くちょう 嬉しそうな口調が、怖い。なぜ、そんな風に言うのだろうか。 めはし 桜姫にはわからなかった。貴族の姫はおっとりとおうようで、目端のきかぬのがいし冫、 っている。それなのに、この男は逆のことで褒めたのだ。 そうとしか、聞こえない。 ( このおとこ、何者・ : ・ : ) 今までに知らない、まったく出会ったことのない男だった。馬に乗った荒くれ者。気の強い 女を、褒める人。 でもなぜ ? おかん 悪寒が走り、彼女は背を震わせた。 「寒いのか ? もう少し、辛抱がおできになるか ? じき、つく。それまで、おれの懐にし がみついていられよ」 言いながら、男の手が抱き寄せる。桜姫は、思わずそれを払いのけた。 やわ しんばう ふところ