172 愛してない。 こんな時にわかる。この女は、龍二を愛していない。 たいめんとっくろ 龍二は体面を取り繕う人形。自分を飾るアクセサリー 昔から知っていた。けれど心が冷える。責めたてる母親への怒りと、この大声を近所に聞き つけられるかもしれないという隹 . りも入り交じり、龍二は声を失って震えた。 「なんとかおっしや、 しい」 口にできる一一 = ロ葉なんてなかった。何を言ったって、聞いてはもらえない。 わなわなと唇を震わせ、青ざめた母親は彼を見つめる。答えがないとわかると、激しく喘 ぎ、ぶちまけるように言った , 「龍二 ! あなた、自分の立場がわかっているのあなたはこの高苗の家と : : : 」 「そんなに欲しけりやてめえで継げ ! 」 ろうか 廊下を踏みしめ、龍二は絶叫した。 ( 立場だーー 幼いころから言われつづけてきた言葉。あなたは、高苗家の跡取りなんだから。他に兄弟は いないのだから。 行儀良くしなければ駄目。成績よくいなければ駄目。高苗家にふさわしい振る舞いを。恥ず かしくない振る舞いを ! 嫌というほど聞かされてきた。当たり前だと思って過ごしてきた。 あえ
くら・もめ・ よしぎき 「男子、蔵森。女子、吉崎」 ワイシャツを着崩した、若い担任の声。プローしたさらさらの前髪が揺れる。 「男子、高苗。女子、淵」 ことさら楽しそうな顔つきで、担任は名前を読み上げつづける。積み上げられた四つ折りの のぞ 紙を、つまみあげ、覗き込むように鼻をのばしてひらく。 ( むなくそ悪い ) 「男子、高苗。女子、吉崎」 そこで、龍二の下に書かれた正は、クラスの過半数を越えた。教師がほっとしたように歯を 見せる。 「男子は決まりだな、高苗龍二」 龍二の心臓が、大きく鳴った。 ・ : なにも不思議なことではない。今までずっと、「委員長」と名のつくものは、彼が一手 に引き受けてきた。 まくしゅ 制服の四十人が、一斉に振り向いた。わらわらと、まばらな拑手が来る。 まなざ なれきった眼差し。選挙などしなくとも、はじめからわかっていたというように。次点だっ た蔵森だけが、うつむいている。
とっさに行動が掴めず、担任が立ち止まった。かまわずに、龍二は窓辺へ駆ける。机を蹴っ て手すりを乗り越え、窓の外に身を躍らせた。 助かるとわかっていた。ここは二階 , あわ 女子の悲鳴が、背後から弧を描いて聞こえた。窓辺に鈴なりになる生徒たち。教師は泡を食 ろうか って廊下に走りだす。 腰までしびれるようなショックとともに、龍二はアスファルトに着地していた。二階から飛 び下りるなんて、しよっちゅうやっている。怪我をしない自信もあった。 クラスのざわめきのなか、鞄を拾い、ゆうゆうと校門へ向かう。 「高苗 しっそう うわば 全力疾走で追ってきた担任が、上履きのまま駆けてくる。いまにも校門を出ようとした所 を、龍二は肩を引かれて振り向かされた。 「たっ、高苗、高苗」 息を切らしながら繰り返す教師が、おろかに見えた。その声も、まるで壊れたレコードの繰 り返しにしか聞こえない。 8 「どうしたんだい 0 たい、なにが不満なんだ。先生に、先生に言 0 てみなさい」 白けるセリフだ。と、見下した。どうせなら、もっとましな言葉にすればい、 なぐ もしくは、危険な行為をしたと殴ってみせる、とか。 ( それもャだけどな。熱血なんて、はやらねえ ) しものを。
ずる この間の一件で、龍二の母と栄兄弟は最悪の関係になっているといってもいし たかなえ 無論だ。〈高苗家〉に頼るつもりは初めからない。あんなものクソだ。雑魚だー 「もっと、上がある」 「上 ? 」 おうむ返しにされて、うなずいた。 高苗の、本家。 「そこに、俺の金がある」 しめ 言って、龍二はくちびるを舌で湿した。 ( そう。やがては俺の金だ : : : ) いずれ、そこまで登り詰めるのなら、そういう風に、レールが敷かれているのなら。 先に少し使うくらいで、文句など言わせはしない。 誰に・も。 ( 俺は、サチを使って自分を正当化しているだけなのかもしれない ) 龍二は思った。結局、決められた道を行くことを、誰か一人にでも認めて欲しいというよう 狡い、汚いとわかっている。 わかっているが、やめる気はなかった。 ( どうせ逃げられない。ならば、絶対に頂点を奪ってやる )
ように口をあけしめした。 「た、高苗。おまえ今日おかしいぞ ? 」 「おかしいと思いたいだけだろ ? 」 はなじろ 鼻白んで切り返した。担任は、自分の扱いやすい生徒がクラス委員になることだけを考えて いたはずだ。 龍二は暗い眼をしていた蔵森敦を見た。 「おまえがやれよ」 かるく笑って声をかける。 やりたい奴が、やればいし 。それで、すべて丸くおさまる。 「じゃあ。そういうことでヨロシク」 かばん 言い置いて、龍二は鞄を取り上げた。我に返ったように、担任が歩を踏み出す。 「どこへ行く気だ ? 」 「帰んだよ。これ以上あんたと話しても、しようがないだろ ? 」 「 ! 待て、高苗 ! 」 教壇から担任が動いた。逃げだした飼い犬を捕まえようとするかのようにのばした両手に、 龍二は寒けを覚える。 誰が二度と帰るか、捕まるか ! 掴んだ鞄を、あいた窓の外へ放り投げる。 あっし
ひるむつもりもないー 言葉を失ったクラスのなか、チョークを持つ手をだらしなく下げた担任が瞬いた。魚そっく りの顔で、ロをあける。 「あ : : : はははははツ。どうしたんだ、高苗。夢でも見たのか ? 」 それでフォローしたつもりなのだ。白々しい笑い声が、教室いつばいに響く。思考回路が停 止しているのか、とっさに彼の行動を冗談だと思い込もうとしているのか。 「やんねえよ」 かたまゆ す 片眉をあげ《にらみ据えたまま言った。斜にかまえて下げた右肩に、投げ出した両足。これ を見てもまだ、教師は夢だと思うのだろうか。 「高苗 ? んー ? どうしたんだ ~ ? 投票で、男子のクラス委員はおまえに決まったんだぞ 機嫌を取り結ばうとしているのか、笑い話で済まそうというのか、担任はことさらおどけて みせる。 「やんねえよー 龍二は繰り返した。 めじり 本当はずっと、笑うと目尻につり上がるようなしわの走る、この男を嫌いだった。女生徒受 ねら けを狙っているのが見え見えの、服装と髪形。 すべてを、たとえば黒板の誤字を指摘されても、わざとらしい乾いた笑いですまそうとする しゃ またた
たかなえりゅうじ 「高苗龍一一」 「はい」 名前を読み上げられた龍二は立ち上がった。決められたとおりに体育館の端へ歩いてゆき、 だんじよう かんかくたも 前の生徒との間隔を保って壇上へ進んでゆく。 こんなもの、繰り返し練習 予行演習には一度も顔を出さなかったが、間違えることはない。 をせずにも、先頭の者を見てさえいればすぐに出来る。 。しくら「あまり時間」とはいえ、単調な儀式をなぞっているだ 受験終了から卒業式までま、、 けでは時間の無駄づかいのような気がする。 たいした緊張感もないまま、龍二は少しずつ進んでいた。 とうじ 答辞を読まなくてもすむ。比べ物にならないほど楽だ。 今年は小学校のときとは違い、 日かー
51 PURE GOLD な後継者 : す ていおうがく ゅうが 中学まで公立で揉まれ、そのあとは私立で優雅に過ごし、帝王学を学んで社長の椅子へのば る。 きれいな肩書の、〈いい子〉。非の打ち所のない、立派な成績をおさめた息子。 あの女が望むのは、そういうことだった。 とっ せいりやくたかなえ 母親は、一族内の政略で高苗家に嫁いだ。 ひとつぶだね 一粒種のーーそれも、息子。 て′一ま 人の上に立つ、手駒となるものはたった一つ。 つまりそれが龍二だった。龍二は犬として生まれてきた。知らずに。 しつぼ 事実を見せつけられるたびに、吐き気がした。首輪。尻尾。引き綱ー ( 俺は人形じゃねえ ! ) まくら 龍一一は枕を殴りつけた。繰り返し繰り返し、殿りつけた。 ( 居場所なんて、どこにもない :
210 「出たぞ、高苗だ ! 」 人の流れが変わった。紫の特攻服をまとった男たちが、一斉に向かってくる。 前回、特攻隊長の横井を倒したことで、恨みを買っている。 「ラアアアアリ」 こぶし 繰り出された拳を彼はよけた。こんな下っぱにかかわり合っている時間はない。 ( 和泉さんは ) 警棒が唸りを上げる。その腕をかいくぐり、脇の下に一撃を入れる。 ( どこだ 前方で悲鳴が上がる。龍二はそこを目がけて駆けた。 もみあう男たちのなかから、額を血に染めた少年が転がり出てくる。自分と同じ黒い特攻服 の彼に、龍二は思わずしやがみこんだ。 しつかりしろ」 「・ : ・ : たかなーー」 痛みにか、声が続かない。少年は体をふるわせ、はげしく喘いだ。 「ぜんぜ、歯がたたね : : : 」 「和泉さんは ? 」 輪の奥を彼は指さす。 「まだ無事なのか ? 」 ひたい うら あえ
「ヒマじゃねえっ 入学式までに、死ぬほど予習するべージがある。他人の飯の心配などしていられない。 「きったねえそサチ。ジャンケンだよジャンケン」 「じゃあ、俺が落ちたら責任取れよな」 「つ。 悔しがる龍二に、栄は声をあげて笑った。 きせき 空に一筋、飛行機の軌跡が雲となって残っている。 よく晴れている。この冷たい風と空の色を、龍二はきっと忘れないだろう。 高苗龍二、一色栄。共に、十五歳。 ちょうちょう 「おまえの試験終わったら、〈蝶々〉行こうぜ。和泉さんが、みんなの合格祝いやるって」 チーム〈狼〉。彼らはふたたび、メンバーと走り出す。夜を。 このまち 湾岸を。 ごうおん また一機、飛行機が離陸してゆく。その轟音のなか、風が証書のかけらを ひらり、 駅舞い上げた。 ヘル、ウンド いずみ めし おわり