その石けんは、誠治郎が焼けあとで掘りあてた皮カバンから出てきたものだった。 廃虚の町を歩きまわると、衣服も肌もほこりまみれになった。かいがいしい敏子が、いつもみん なのほこりをはたいてくれる。でも鼻の穴や耳の穴までよごれていて、ねぐらへひきかえすまえに は川で体を洗うのが日課みたいになっていた。そんなときでも使わずにとっておいた石けんだ。 いっこ、つ もとやすがわかこう 陽ざしが強くなりはじめたころ、一行は元安川の河口までやってきた。 「泳ぎにきたんじゃないよ。ちゃんと体を洗、つのよ」 あし 美枝子と敏子は芦のしげみにしやがんで体を洗いはじめたが、男の子は四人とも服をぬぎすて、 すつばだかになって、さっそく泳ぎまわっている 真弓はアカコをはだかにして、まず頭を、 ついで全身を洗ってやってる。 「アカコはえらい。アカコはえらい」 ふしをつけて歌うみたいにあやしながら。 ついで真弓は、冨士男と晋平の体を洗ってやった。 「は 1 のおんな。はのおんな」 晋平が、またわけのわからないことをいってる 真弓はとりあわない。晋平は、歯の女といってる 一ん第 0
よしのりしんべい 義則が晋平の頭をひつばたいた。 いつも歯の女を楽しむ晋平だけど、足の女を楽しんでいたのだ。 ひつばたかれた晋平はけげんそうに義則をふりあおしたか、、、 、、、、 ' 、へつだん気にもしていない。 A ャも 「おいみんな。夜はいつも、このランプを灯しつづけようぜ」 ひろひこ 広彦がいったら、つづいて義則が、 せいじろ、つ 「これからは、おれと広彦と誠治郎が市場で仕事をみつけて、金をかせいで、ランプの火をたやさ ないようにしてやる」 それを聞いて、みんなはどんなによろこんだことかランプは地下のねぐらだけではなく、心の やみ 中まで明るく照らしてくれることを知ったからだ。闇を照らし、心の中まで照らしてくれるランプ は、なんといいものだろ、つ くろ、つしんばい 「こんな廃虚のすみかでも、その日さえ暮れてしまえば、もうなんの苦労も心配もないわ。食器や と、も いるし えいえん きゅうそ′、 衣類は片づいてるし、ランプは明るく灯ってるし、こうして手にいれた夜の休息は、永遠であるべ きよ。すくなくとも永遠の味をもっているべきよ」 まゆみ 真弓が、仲間たちに語り聞かせている。 かんしん なんだかりつばな話なので、だれもがひどく感心してうなずいた 「きのうまでのばくらは、スズメだった」 150
「きみたち、きようだいなの ? 」 真弓が問いかけたら、 「ちがう。どこのやっか知らんか、ずっと ばくについてくるんじゃ」 小さい子のほうか、めいわくそうに いいたてた。 名前と年令をたずねたら、 みやもとふじお 「宮本冨士男。六さいー 大きいほうは間のびした声で答え、 「ばく、ひらいしんべい。しんべい。しんべい。 五さいじゃ。五さい。五さい」 」さいほ、つはそ、っそ、つしく答えた。 しんべい 漢字で書くと平井晋平だったが、 おさないからそこまでは 知らない。冨士男も晋平も、 親にはぐれたことをあいまいな言葉でつげた。 3 し
だれも知らない。 母ちゃんに呼ばれて ふじお しんべい 晋平や冨士男が母親を恋しがって泣きだすと、目に涙をもりあげたアカコが、 「ないたら、だめつ 自分も泣きかかった声で叱っている 「会いたいのはあたりまえよね。みんな、お母さんのお腹から出てきたんだから。お母さんの命か ら分かれた命なんだから」 真弓は小さい子らを両わきに抱きこみ、 「おまえも、おまえも、おまえも、お父さんとお母さんに作ってもらったんよ」 「どうやって ? 」 ねんど とたずねる晋平は、お父さんとお母さんが粘土をこねるようにして、自分を作ってくれたような気 がしている。 「だいたい夜、だれも見ていないところで、こっそり作ったんじゃ わけ知り顔の義則かいう しか なか
「お母ちゃんの名前は、お母ちゃんじゃ。お母ちゃん。お母 ちゃん。お母ちゃん」 ふしようしゃ 名簿をしらべたあと、病室や廊下にあふれている負傷者の あいだをさがしたけど、けつきよくだれの身よりにも会えな かった。 陸軍病院を出て、どぶ川ぞいのいちじく畑をすぎたところ しんべい で晋平が鉄かぶとをひろった。 鉄かぶとをかぶった晋平は、 「これでもう、爆弾が落ちてもばくだけは死なない。おまえ も、おまえも、おまえも、みんな死ぬ」 まゆみひろひこ ふじお 真弓と広彦と冨士男を指さしつつ、びよこびよこ跳びはね しようど かんのんまちきゅうごじよ ている。観音町の救護所や国民学校をたすね歩くうちに、早くもその日の太陽が、焦土の市内にタ 映えの色をそえていた。 「真弓ちゃん。きようのねぐらを、どこにしようか」 「そうね。また大手町あたりのビルにしようか」 と話しつつ、四人で大手町に足をむける。 ばくだん ゅ、つ
うめくような声でいって、にじんでもいない涙を上着の袖でふいた。 「おじいさま。ばくはこ、つして仲間たちと暮らしているときにも、日ごと夜ごとに、おじいさまの ことを気にかけておりました」 「おお、わしとて一日たりとも、おまえのことを考えぬ日はなかったわ」 「おじいさまっ」 ひろひこ 「広彦よ。わしの、かわいい孫よ」 おおげさな身ぶり手ぶりで、芝居つけたつぶりにいいかわしている。 まつおかじゅんさ このふたり、どういうつもりかいな、といった顔つきで松岡巡査はうかかい見ている あとのいくにんかもロのはたに笑いを浮かべ、ちょっとあきれたようにながめやっている 「広彦くんのおじいちゃん」 しんべい おとなふたりが団らんの輪にまじったところで晋平がよびかけ、 ちよきんきよく 「おじいちゃんは牛が百びきも買えるほど、貯金局にお金をあずけてたん ? 」 「ははは、広彦がほざきよったのかこやつのいうことをまともに聞いてはいかん」 おじいさんは歯ぐきをぜんぶ見せて笑った。 鉄かぶとの上から晋平の頭をなでつつ、 「広彦が、ちょうどおまえくらいの年じゃったころの話をしてやろう」 そで 237
一階の階段は空にむかってとぎれているけど、風向きのかげんで、そこはまずまずしのぎやすかっ ちかしつ た。すでに地下室は、腰までつかるほどの水たまりになっている 吹きに吹き、降りに降りまくった風と雨も、夜中にはまず雨がピタッとやみ、ほどなく風もおさ まった。台風は、どうやら通りすぎたようだ。 朝になってみると、地上のそこかしこに真っ平らな水たまりができていた。その土色の水たまり たいしようてき げんせん す と対照的に空は青く澄みわたり、愛と命の源泉である太陽が、あたらしいねぐらをさがして歩く子 て らのゆくてを明るく照らしている 「やられた、やられた」 「びしょぬれの服もズボンも、おてんとうさまに乾かしてもらうしかないぜ」 ふじおしんべい かぜ 「みんな風邪ひくなよ。もっとも冨士男と晋平は、風邪なんかひかないけど」 「どうして ? 」 わら よしのり・ と冨士男が義則をふりあおぐ。大きい子らは笑いあってる 「冨士男も晋平も、元気だからよ」 まゆみ 真弓がいいそえると、ふたりともびよこびよこ跳びはね、うれしそ、つに笑った。 じようだんをいいあい、ふざけてもつれあい、どの子も気落ちしたふうもない。 「ばくらはもともと、なくすものがすくないから気らくなもんだよな」 かわ
まゆみ ふろ、つじ そして真弓は、浮浪児以外の人間になれることを、仲間たちに訴えかけた。 ひろひこ いせん しんべい 「以前はみんなが、どこかのだれかだった。広彦はひょうきんな子。敏子はやさしい子。晋平は元 よしの。り・ 気な子。それが焼けあとの町にいると浮浪児でしかない。だれからも浮浪児として見られて、義則 こゅ、つ せいじろ、つ ひとがら だとか誠治郎だとかいった固有の名前も、個性も人柄も、なんにも問われない 真弓はここで言葉をきり、仲間たちの表情をうかがった。 「みんな、それでいいの ? 」 その真弓の問いかけに義則がわりこみ、 しゅうよ、つじよ 「おまえら、親を殺されて、家族を殺されて、すなおに収容所へ保護されるつもりか」 こわ なかま しせん 声たカ ( しし 、つのって、仲間たちにするどい視線をおくった。 アカコがおびえて、泣きかかった顔を真弓のスカ 1 トにうずめた。ほかのみんなは義則と目があ ふじお しんべい 、つのをさけて、あらぬほうを見まわしている。おおきなあくびをした冨士男の頭を晋平がひつばた 「こいつらの話を、まじめに聞いてやれ」 と注意した。 いけん 「誠治郎は ? 誠治郎はどうなんだ。意見をきかせろよ」 義則がいったら、誠治郎は義則の顔色をうかかいつつ、 ひょうじよう うった AJ 252
「いやだ。ばくはみんなといっしょのほうがいい」 しんべい ふじお 晋平がいいたて、冨士男もうなずいている としこ みえこ 真弓は腰をあげて、美枝子と敏子がいる階段のほうへ しりそいた。 「どこへ行くんだよ」 「も、つ寝ちゃ、つから」 「話しあいをしてたんじゃないの」 「話しあいは終わりよ」 「どうして ? 真弓ちゃんが終わりだと きめたから ? 「そうよ」 「なんでもかんでも真弓ちゃんがきめて、 したが ばくらはそれに従うだけ ? 」 真弓は布カバンに頭をのせると、 いひきをかくまねをした。 「ずいぶん子どもつほいことをするじゃないか 彡・クま
「アカコなんて、かわいそうじゃないの」 真弓が異議をとなえる そこでふたたび、あさこ、あしこ、あすこ、あせこ、 しようわ あそこ、あたこ、あちこ : : : と唱和している 「アセコかいし アセコ、アセコー しんべい ちびの晋平が、びよんびよん跳びはねつつ口をいれた。 「どうして ? アセコなんて、へんよ」 「あせくさいから、アセコ、アセコ」 「おまえだって汗くさいぞ」 あか 「おれらはみんな垢だらけで、汗くさい じゃないか」 「そしたらみんな、アカコにアセコに アカオにアセオだな」 あらこ、ありこ、あるこ : : : と、 とな ひととおり五十音を最後まで唱えてしまった。 「アホコかいい」 々ル冖ー