浅井 - みる会図書館


検索対象: 人間の壁〈上〉
35件見つかりました。

1. 人間の壁〈上〉

が一つ。墨のすっかり乾いた黄色いすずりが一つ。中に父さんが早く亡くなり、兄弟も何もなくて、お母さんも はいっているのはそれだけだった。 病気で死んでしまったんです。二度目のお父さんと、そ 彼女は机のわきに立って、静かな声で子供たちに話しのうちのお兄さんはいたけれど、おうちが貧乏だったか かけた。 ら、いろいろ辛いことがあったのね。 「みんな、坐ったままで先生の方を向いてごらん。 辛いことがあんまり沢山あったために、浅井君はわざ と教室でいたずらをしたり、さわいだりして、みんなを いいですか。 この机。知っていますね。きのうまでは、浅井吉男君困らせていたらしいの。本当はとてもさびしくて、みん が坐っていたでしよう。・ ・ : けさ、浅井君は学校へ来るなと仲の良いお友達になりたくて、いらいらしていたん 前に、新しいノートを買いに行って、きっと、嵐があんだと、先生は思うのよ。だから、本当の浅井君はいたず まり激しかったために、よくわからなかったのだろうとら小僧じゃなくて、さびしい子供だったのです。 思うけど、踏切りのところで、走ってきた貨車にひかれ浅井君はきのうまで、さわいだり、ふざけたり、いた て、 : : : 死んでしまったのよ。本当に死んでしまったのずらをしたりして、みんなの勉強の邪魔をしたことがた よ。 びたびあったけれど、かんべんしてあげてちょうだいね。 二時間目と三時間目と、先生は浅井君のうちへ行って光田君は、肩にかみつかれて血が出たことがあったわね。 来たんです。もう仏さまになってしまったんだから、おあのこともかんべんしてやってちょうだい。本当はみん 花と、線香と、あげて来たんですよ」 なと仲良しになりたかったのだけれど、どうすれば仲良 五十幾つの緊張した顔が、一心に先生の顔を見つめてしになれるのか、その方法がよくわからなかったらしい の。 いた。身じろぎもせず、呼吸さえも止めているような、 みんな、わかりましたね。 : わかったら、浅井君の 真剣な子供の顔が、彼女をとりまいていた。 「先生は、あなたたちに一つ、頼みがあるの。聞いてちいろいろ悪かったことを、全部ゆるしてあげてちょうだ ようだいね。 い。これが先生のお願い : : : 」 浅井吉男君は大変かわいそうな子供だったのです。お肩にかみつかれたことのある優等生の光田悌一が、し 350

2. 人間の壁〈上〉

きっと何とかやってみますわ」 「どうもしない」 「そう。 : では、もう少し様子を見ることにしましょ この子はただ、先生の手を握っていたいのだ。先生の うか」と校長は言った。 手を握っていれば、孤独がなぐさめられるのだ。志野田 浅井吉男は知能の足りない子供だった。それはこの子ふみ子は手をあずけたままで、やさしく言ってやる。 の責任ではない。生れたときの肉体的条件か、遺伝的な「浅井君ちかごろ、良い子になったわね」 素質かがいけなかったのであろうと思われる。責任はそ「ふん : : : 」 の親にある。浅井は先天的にそういう不幸を背負って生「教室のなかでもずいぶんおとなしくなったわね」 れてきたのだ。 「ふん : : : 」 その事を、だれが責めることができようか。だれが憎「まじめにお勉強する子は、先生大好きよ」 むことができようか。志野田先生は可哀そうに思ってい 「そんなら光田君、好きなんだろ」 た。クラスのだれも遊んでくれない、淋しい子供だった。「光田君もよく勉強するから好き。だけど浅井君もちか 頭が小さくて、尖っていて、脳の発達のわるいことが一ごろ、なかなかよく勉強するから好きよ。もっともっと、 見して察しられた。 頑張ってごらんね」 体育の時間や、休みの時間に、志野田ふみ子がグラウ本当は、ちっとも勉強しないのだ。ちっとも良い子に ンドに出てゆくと、一番はじめに彼女を見つけて駈けよはなっていない。しかし先生は叱るよりも、はげまして ってくるのが、浅井だった。教室のなかでは見られないやりたかった。教室のなかでも、机のあいだをまわって ほど人なつつこい顔をして、はずかしいので少しまぶし学の指導をしてやるとき、彼女は通りすがりに、ちょ そうな眼ばたきをしながら、そっと先生の手を握る。 っと浅井の肩に手をふれてやる。あるいは鉛筆をもって 「先生 : : : 」 いる浅井の手をとって、 上 「なに ? 」 「今日うちへ帰ったら、爪を切ってくるのよ」とささや いてやる。 の「先生・ : : ・」 人「どうしたの ? 」 そうして、一日に一度は、必ずこの子のからだに手を つめ 137

3. 人間の壁〈上〉

ふれてやることにしていた。浅井はそれがうれしいのだ。ばかりであって、持っている才能を伸ばす機会はすこし も与えられないだろう。 たったそれだけの愛情の表現を、待ち望んでいるのだ。 きっとこの子は家庭生活のなかでなぐさめられるものが ( すべての児童は個性と能力に応じて教育され : : : ) と 児童憲章には記されている。しかしながら義務教育はす 無いのだろう。 工作の時間になると、浅井の器用さはおどろくべきもべての子供に画一的に課せられている。その国定の義務 のだった。さすがは大工の子だと思われた。道具の使い教育によって、この子はいかなる利益をも得られず、い しろうと 方が水ぎわ立っていて、考え方が素人ではない。鼻水をかなる成長をも遂げることができないだろう。 わきめ くちびる のみならず、逆に、劣等意識のみが育てられ、社会の たらし、唇をとがらせ、ふうふういいながら、脇目もふ らずに作業をやる。手順がきちんときまっていて、ほか敗者というそねみだけがっちかわれ、暗いひそかな反抗 の子供に見られる迷いというものが全然ないのだ。仕事が心のうちに蓄積されてゆくだろう。それは青年犯罪者 の出来具合については厳密だった。失敗すれば何度でもをつくる最大の条件ではないだろうか。 やり直す根気づよさがあった。ほかの学科のときには決むしろ浅井のような子供は、徒弟学校のような所に人 れて、その技能を育ててやる方がいい。ところが中学校 して見られない、根気とねばりとがあった。 この子には工作の才能がある。立派な才能だ。そしてを終えてから後にはそういう学校もあるけれども、義務 工作以外の才能はほとんど見られない。そのことから志教育学校にはそうした制度は無い。中学の三年のあいだ に劣等感を育ててから後では、もう遅い。 野田先生は、心配するのだった。 あと二年で、小学校はともかくも卒業させてもらえる。志野田先生は自分の机に坐って、指導要録をひらいて しかし浅井吉男が中学校へ行くようになったら、どうな見る。 るだろう。画一的な義務教育は、この子にもやはり英語浅井吉男ーーー津田山市新町一〇九番地、浅井与吉の三 を教え、物理、化学を教え、代数、幾何を教えることに男。父の職業、大工。母、死亡。戸籍には三男とあるが、 なる。そして工作を教えるのは一週に一時間もあるか無実は母の先夫の子であり、母は吉男を連れ子して浅井与 いかだ。浅井は自分の持っていない才能に苦しめられる吉に嫁したものである。家計は不如意。三年生のときに Z38

4. 人間の壁〈上〉

そういう環境における精神の不安定と絶えざる恐怖といぶかしい顔をした。しかしそれつきりだった。だれが から、吉男は知能の発達がおくれ、いつも寝小便をするこの本をくれたのか、深く考えてみようともしない様子 子供になった。教室のなかではときおり奇声を発し、人だった。 台風の朝、浅井吉男はノートを買いに行った。ノー の注意をひくためにわざといたずらをし、わるさをし、 札つきの劣等児になった。ただ一つ、工作の時間にだけを買ってもらうというのも、この少年にしてみれば珍し はどんな優等生にも負けない才能を発揮した。道具の使いことだったに違いない。新道の文明堂という新しい店 い方、計画の立て方、仕事の手順の正しさには、先生がへ行けば、二十五円のノ 1 トが二十二円で買える。嵐を しろうと ついてノートを買いに行こうとした少年の気持は、やは 感心するほど素人ばなれのしたものがあった。 浅井吉男は教科書も全部は買ってもらえなかった。理り学校の勉強をたのしみに思っていたのであろう。 科の教科書代は尾崎先生がいくたび催促しても持って来破れ傘をさしかたむけ、穴のあいた運動靴を素足には いて、むき出しの細いすねから下は雨でびしょぬれにな なかった。浅井与吉がかねを出してくれなかったのか、 りながら、浅井吉男は学校とは逆の方角へ走って行った。 もらったおかねを吉男が別のことに使ってしまったのか、 そこまでは先生には解らなかった。彼女は新しい理科の途中で浜野君に出あった。 教科書の裏表紙に ( 浅井吉男 ) と名前を書いて、この少「おう、浅井、どこ行くんだ」 年の机のなかに、黙って入れておいてやった。それは彼「ノート買いに行くんだ。新しいのを買うんだよ」 女の意地であったかも知れない。ずっと前に一条太郎先「そうけえ。学校おくれるぞ」 「平気だい」 生が、 「もしあなたがいやでなければ、その厄介な子供を、僕 たたきつけるような短い会話を交わしたまま、二人は のク一フスに引きとってあげようか」と言ったことがある。両方に別れた。新道へ出る手前に踏切りがある。十本以 彼女は侮辱されたような気がして、きつばりと断わっ上もレールが並んでいて、ぬれたレールは嵐の底でぎら のた。その時から続いている彼女の意地であったかも知れぎら光っていた。貨車の入れ替えをやっている。浅井吉 人ない。浅井吉男は机のなかの新しい教科書を見つけて、男はよろめきながら踏切りを越えて、文明堂まで走って 34

5. 人間の壁〈上〉

ほお やくりあげて泣いた。尾崎先生の頬をつたって、たくさ尾崎ふみ子先生はさらに一つの提案をしてやった。亡 くなった友達のために、クラスの文集を作ろうではない んの涙が浅井吉男の机のにしたたり落ちた。 これは女教師にありがちな、あまりに感傷的な集団指か。ガリ版にして、みんなに一冊すっ配ることにしよう。 導であっただろうか。 : 感情的な、あるいは感傷的なその文集は浅井君のよい思い出になるだろう。今日うち ふんいき 雰囲気をつくることによって、クラスの集団指導をするヘ帰ったら、みんなで浅井君のことを作文に書いてみよ ことは一番容易な方法である。子供たちはたやすく、感う。あした、各班の班長が集めて、放課後に原紙を切る ことにしよう。 傷の群集心理に引きこまれてしまう。 この、ひとりびとりに課せられた小さな作業は、子供 けれどもそういう指導がくり返されてゆくと、クラス 全体の空気が神経質になり、感情の振幅が大きくなりすたちに新しい反省の機会をあたえるに違いない。彼等は ぎて、統制をうしなってくる。教室における集団指導は浅井君に関する今までの記憶を心のなかで整理し、ある つねに理性的でなくてはならないし、正しく批判的でな種の評価をあたえ、それらの精神的活動の結果として、 くてはならない。浅井吉男の死に関する尾崎先生のはな感情的なしこりやわだかまりを解きほぐし、何かしらの しは、感傷的にすぎたであろうか。五十幾人の子供たち結論をみちびき出すことができるだろう。一つの悲劇を はみんな泣いている。全部の子供たちを泣かせるような悲劇のままで放って置けば、子供たちには心の傷になる。 その悲劇を理性的に批判し反省し整理することによって、 指導方法が、はたして正しいと言い得るだろうか。 かえ 悲劇が却って浄化作用となり、心の明るさをとり戻す機 しかしながらいま、ク一フスのすべての子供たちは、 浅井吉男を憎んではいなかった。あの不良少年に対する会にもなるであろう。子供たちはそのことによって、浅 けんお 嫌悪と憎しみの気持は、ことごとく浄化されていた。彼井吉男の悲劇から救われるのだ。・ 正午の休みになっても、尾崎ふみ子は全く食欲 . がなか 等は死んだ浅井君を今は愛していた。あの一人の友達と、 上 った。風はすこしおさまり、空に明るみがよみがえって もっと仲良くしなかったことに後悔を感じていた。 のそれが教育ではないだろうか。びとりの隣人を愛するこきた。校庭の木々も砂利も雨に洗われて不思議にきれい になっていた。 人と。それがあらゆる道徳の根本ではないだろうか。 351

6. 人間の壁〈上〉

ばれるというのは、滅多にあることではない。 「あの子が、どうかしたんですか ? 」 「ちょっと、みんな自習していてちょうだい。鐘が鳴っ 「うむ、うむ : : : 」と松下先生はうなってから、「踏切 たらおしまいにしてよろしいから、教室のなかで静かにりで、大けがをしたらしい」と言った。 遊ぶんですよ。わかったわね」 尾崎ふみ子は眼がくらんで、しばらく物が言えなかっ こ 0 彼女は生徒たちにそう言い残して、廊下へ出た。 「何の御用なの ? 」 「けがをして、どうしたんですの。死んだんですか」 「わたし、よく知らないんです。松下先生、とてもあわ「よくわからない。とりあえず駅の方で収容したという てていらっしゃいました」と少女は急ぎ足で歩きながらだけ、いま電話があったんですよ。どうします ? 」 答えた。 どうするもこうするもない。とにかく行って見なくて 職員室には理科の先生がいるだけだった。彼は松下校はならない。彼女は物も言わずに校長室をとび出した。 務主任が校長室へ行ったと知らせてくれた。 大工の子の浅井吉男は、浅井与吉の三男として入籍さ 彼女はすぐに校長室の扉をノックして、はいらた。校れてはいるが、本当は与吉がむかえた後妻の連れ子だっ 長と主任とが緊張した顔をして、向いあって立っていた。 た。その後妻は病死してしまったので、与吉の三男とは 「先生、私に御用でしたか ? 」 名ばかりで、吉男は赤の他人ばかりの家のなかで、たっ いそうろう すると松下先生は向き直った。眼がうろたえており、 た一人の居候であった。 くらびる 唇がふるえていた。 父の与吉はアルコホル中毒で、血の続かない二人の兄 「えらい事ができた」と彼は言った。「浅井よしぞうとは吉男を散々に邪魔もの扱いしていた。女気のない、荒 - いうのは先生のクラスですか」 荒しい家庭だった。この家庭のなかに、吉男の味方にな 「浅井吉男です。どうかしたんですか」 ってくれる人はだれもいなかった。家族すべてがこの少 あの子の事が、気になっていたのだ。新道の文房具屋年の敵であった。ある時には兄にいじめられ、すねから へノートを買いに行ったというのに、まだ学校へ来てい血を流しながら新町の角の交番へ逃げこんだこともあっ ない。尾崎先生は心臓がどきどきした。

7. 人間の壁〈上〉

巡査に礼を言って、彼女はその角から横町へはいった。 「はあ、そうです」 細い路地に、どぶ水のにおいが蒸れていた。三十戸か四 「何かあったんですか」 十戸ぐらいの、小さくかたまった貧民の町であった。破 「いいえ。家庭訪問に行くところなんです」 れたシャツや穴のあいたむつきなどが至るところの軒に すると巡査はうなずいて、 乾かしてあり、塩魚を焼いたけむりが低くながれていた。 「そうですか。吾々はここで見ているだけですから、く どの家にも門札がついていない。郵便もめったには配 わしいことは解らんですが、浅井という家にはいろいろ 問題があるようですな。よく調べてやって下さい」と言達されず、訪ねてくる人も多くないところらしかった。 っこ。 浅井の家と判別がついたのは、腐ったような軒に何本か 「どんな間題があるんでしようか。お聞かせくださいまの丸太や張い板が立てかけてあったからである。 製材の屑板を打ちつけた塀の、三尺ばかりとぎれたと せん ? 」 つぼ 「さあ : ・ : ・御参考になるかどうか知りませんが、小学生ころが門ロで、家の入口までのあいだに三坪ほどの空地 の子供が二度ばかり、兄貴に追っかけられて、この派出がある。その空地には木箱や古むしろや自転車のタイヤ すね 所に逃げてきたことがあります。一度は脛から血をながなどがころがっていた。 そしてそこに、一人の男の子が地面にうずくまり、五 していましたが、兄弟げんかにしてはすこし程度がひど くぎ かったようですな。浅井という大工さんはアル中でね、寸釘で土の上になにか描いていた。小柄で、肩がやせて しり いる黒い半ズボンの尻に穴があいて、裏の白いきれが 大して仕事も出来んじゃないですかな」 「いつでもそんな風に、家の中でいじめられているんで見えている。浅井吉男だった。 先生はこの生徒のうしろに立って、しばらくあたりの しようか」 「どうですかな。内輪のことは知らんですが、大体そん様子をながめ、吉男のすることを見ていた。子供はなに 上 なところじゃないですか。末の男の子はあの大工さんの、も言わない。緩慢な手つきで土の上に線を引きながら、 その線の先の方に、靴をはいた先生の足を見つけたよう の本当の子じゃないですからな」 人 だった。眼をあげて彼女の顔を見ると、吉男はまぶしそ 「そうだそうですね」 1 イ 1

8. 人間の壁〈上〉

をしたのだった。彼は、その劣等児を << ク一フスに引きと 親切ですけれど、あの子は私が何とかやってみますわ。 ることによって、和田澄江に恩を売りたかった。それに 今日も母親との会がありましたけれど、だれも浅井のこ とは言っておりませんでした。私は直接には、そういうよって、和田澄江とその母親グループとに、接近してお きたかった。またそのことによって、校長の困った立場 親たちの不平は聞いておりません」 を助けておいてやりたかった。校長にも恩を売っておき 「直接には言いにくいんだね」 こゝっこ。一石二鳥の名案である。 「そうかも知れません。でも、大丈夫です。校長先生かオカオ らも言われましたけれど、お断わりしたんです。わたし劣等児のひとりぐらい、一条太郎は何とも思わない。 その子を丁寧に教育してやる気などは持たないのだ。 はあの子が好きなんです。手に負えない子ですけれど、 だが、折角の交渉も、志野田先生の拒否にあって、駄 ちっとも憎いとは思いません。手ばなす気はありません 目になってしまった。和田澄江は今後も校長に注文をつ 一たん自分のク一フスに来たからには、どんなに手に負けるだろうし、担任教師に不満の意を示すだろう。一人 えない子供であろうと、それは担任教師の仕事であった。の劣等児の存在が、母親たちと教師との対立をまねくこ とになるかも知れない。一条先生はそこまでの先を見越 途中でほかのクラスに引きとってもらうなどということ して、うす笑いをうかべているのだった。 は、みずからを侮辱することにほかならない。彼女は、 浅井吉男を < クラスへやろうという校長や一条の提案に、 腹を立てていた。自分がそれほど無能な教師として見ら家庭訪問は数日後の予定になっていたが、志野田先生 はあの子のことが気がかりになってきたので、土曜日の れているのかと思うと、黙っていられない気がした。 しかしその話は全部、和田澄江から出たことであった。午後一時すぎ、特に予定をくりあげて、浅井吉男の家だ 自分の子供のクラスに邪魔ものが一人いるから、それをけを訪間してみた。 他のクラスへ追っ払おうというわがままな考えから出発新町の交番できいてみると、浅井の家はすぐわかった。 中年の巡査はどこかで彼女を見知っていたらしく、 したものであった。 その意をうけて、一条太郎が志野田ふみ子に直接交渉「東小学校の先生でしたな」と言った。 1 イひ

9. 人間の壁〈上〉

で自殺したのではないにしても、神様があわれんで、天ずっている。いつもと同じように仕事をしているのだ。 に引き取って下さったのではないだろうか。 彼女は自分でうろたえて、変なことを言った。 浅井与吉の家は前に来たから知っているはずであった「あの、今日は、浅井吉男さんは、学校へ : : : 」 が、彼女は見すごして通りすぎてしまった。それほどわ しかし、そう言いながら、彼女は自分の足もとから六 歩とはなれない上りかまちの下に、びしょぬれになった かりにくい小さな家だった。 また引返して板ぎれを打ちつけた戸口をはいると、荒担架が横たえられているのを見た。そこに、形の崩れた 荒しい風と雨の音のなかで、この家はしんかんとしてい 一つのかたまりが乗っていた。ビニ 1 ルの大きな布がか た。入口のせまい土間に人影が動いていた。彼女は傘をぶせてある。雨のしずくがたくさんの水玉になって、そ の上に並んでいる。 たたみながら低い軒をくぐった。 しんせき 坊さんもいない、葬儀屋の人もいない、親戚知人もい ビニールの布のすそから、運動靴をはいた小さな足が ない。家族に不幸があった家とは思われない静けさであ片方だけのぞいていた。それが浅井吉男だった。それを った。年とった大工の浅井与吉が、のろのろした怠惰な見ると尾崎先生は眼がくらんで、両手で柱につかまった。 手つきで、うす暗い土間に立って板をけずっていた。白あの子はやはり死んだのだ。 いかんなくずがくるくるとまるまって、彼の手の中から彼女はいま、これが全部、自分の落度であったような 足もとに落ちちらばっていた。 気がした。もっと早くこの子を救ってやる方法はなかっ 「ごめん下さい」と彼女は言った。「あの、 : : : 学校のたろうか。一体この家の人たちは吉男の死を何と思って 尾崎ですけれど : : : 」 いるのだろう。二人の兄はいない。与吉は大工仕事をし 大工さんは手を休めてふり向いた。しわだらけの顔はている。子供の死体はびしょぬれのままで土間に置きす 平静な表情をしていた。そのとき尾崎ふみ子は、自分はてられている。一本の線香を立ててやる者もないのだ。 間違ったのではないかと思った。死んだ子供は人ちがい尾崎ふみ子先生は胸のなかにわき上ってくる怒りを、 ではなかったろうか。一室しかないこの家のなかには、 おさえきれなくなった。たとえ血縁はないにしても、同 大工さんが一人しかいなかった。その大工さんは板をけじ家に暮してきた父と子ではないか。その父が、死んだ 3 イ 6

10. 人間の壁〈上〉

ることが少なくない。子供たちは何も言わずに、じっと立ち入って親の権限にまで干渉することは出来ないのだ。 志野田ふみ子はいまこの現実に直面して、教師という仕 耐えているのだ。 子供の忍耐力にはおどろくべきものがある。自活の能事の限界に立たされた思いがした。 力をもたないものには、自然に忍耐力が与えられている彼女は子供をそこに残したまま、浅井という大工さん のであろうか。大人には耐え得ないことまでも、子供はの家の軒端から中をのぞいて見た。二間四方くらいの土 間がある。大工道具やべニヤ板の切れはしなどが取り散 耐えてゆくのだ。 昼食を与えないという親のしつけは、しつけというよらしてある。土間につづく六畳ほどの部屋が、多分この りは刑罰にちかい。学校の教師は体罰を加えることを禁家ではたった一つの部屋であろう。四角な小さな食卓に じられているが、食事を与えないという刑罰は、体罰のむかって、大きな男が二人、あぐらをかいて食事をして なかの最も重いものであろう。子供は自分で自分の食べいた。畳は穴だらけで、家具というほどの物もない、さ ものを調達する能力をもたない。この子は黙って飢えをびしい部屋だった。 忍ぶよりほかに方法はないのだ。 「ごめん下さい」と彼女は腰をかがめて言った。「 : ・ 浅井吉男の涙を見ると、志野田先生は胸のなかにこみお食事中をおじゃま致します。吉男さんの学校の、受持 あげてくる怒りを感じた。教室のなかで先生たちが、明ちですけれど : : : 」 はし るい子供、のびやかな子供、素直な子供を造ろうと念願若い方の男が箸を持ったままふり向いて、いぶかしげ しているその努力が、みんな家庭でぶちこわされている。な顔をした。シャツの背に大きな穴があいていて、日に はだ 教室における浅井吉男の異常なふるまい、わざと騒いだやけた男の肌がのぞいていた。 り奇声を発したり机の下にもぐったりする行為が、この「何ですか」と彼は言った。 家庭の在り方と関係がないはずはない。浅井吉男のあわ「あの、私は東小学校の教師ですけれど、吉男さんのこ 上 れな学習成績は、そのままにこの家庭の父親の、父親ととにつきまして、いろいろ伺いたいと存じまして : : : 」 「あ、先生だってよ、お父さん」と青年は低い声で言っ のしての劣等な成績を示すものではないだろうか。 こ 0 人しかしながら学校の先生は、子供の家庭の内部にまで 1 イ 3