組 - みる会図書館


検索対象: 人間の壁〈上〉
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1. 人間の壁〈上〉

くの府県がやっております。つまりこれには一一つの目的会議はそれからあと、一時間半もつづいた。庄司春子 がある。一つは財政の窮乏を教育にしわよせして、教師は山形県や北海道や熊本県における反対闘争の事実を語 り、結局、教職員の結束の堅かったところでは、被害が の犠牲によって赤字財政の埋め合せをやろうということ。 もう一つは、その事によって教職員組合を弱体化し、保すくなくてすんでいること、孤立していては精神的に敗 北してしまうことなどを、実例によってこまかく説明し 守党の反動政策に対する教組の抵抗を弱めようというこ こ 0 保守党の立場から言えば、一石二鳥の名案であるかも志野田ふみ子は終始ひとことも発言しないで、黙って 知れません。けれども、それで一体児童の教育はどうな聞いていた。何よりも大きく彼女の心をうったのは、教 るのか。これが問題です。県財政のつじつまが合えば、組の幹部の人たちがこんな仕事をしているのかという驚 教育はどうなってもいいのか。教組の抵抗力を弱めるたきであった。良人はただ自分一個の名誉欲や出世欲ばか りで動いているように思っていたが、この庄司先生は全 めには、民主教育を犠牲にしてもいいのか。 私たちはもともと、保守党でも革新政党でもありませく違った立場で、違った目的で、教組の仕事をしている ん。教育と政党とを結びつけることには反対です。教育らしい。彼女はいままで組合というものを、何となくい は政治から独立した清潔なものでありたいと望んでいるやなもののように感じていたが、間違いであったかも知 れないと思った。その事が一番大きな収穫であった。 のです。 しかし事態がここまで参りますと、教育の現場を圧迫 この日の協議会は最後に、勧告をうけている先生たち し、私たちの職場を危うくする政党の態度には、どうし全部が、その進退を組合支部長に一任するということを ても反対せざるを得ない。不当に退職を要求されて、泣決定した。支部長は県教組と密接な連絡をとりながら、 正式に市教委に抗議する。問題は教委と組合との交渉に き寝入りするわけにはゆかないと思うのです」 上 彼女の肥った頬には血の気がさし、眼がかがやいていうっされることになった。 のた。一見やさしく見える母性的な容姿のなかから、思い今日まで、先生たちは孤立していた。退職勧告に抵抗 する力は自分ひとりだけであった。しかし今から後は組 人がけない婦人闘士のおもかげが浮んで来たようであった。 121

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しまう。暴風雨のなかで、根の浅い木が吹き倒されるの 「よかったわね」 暗いなかで、彼女のささやく声がした。心の苦悩からと同じだった。根の浅い弱い木を助けるために、植木屋 救われた者の、自然に胸からあふれ出たような言い方だの職人は木から木へ横木をわたして、数本の弱い木を一 っこ。 つに結びつける。一本の木は倒れるが、横木で連結され た五本の木は、もう倒れない。その横木の作用をするも のが、労働組合であった。 緑の季節 津田山市における退職勧告は、幾人・かの教師をやめさ せることに成功した。しかしその代りに、教職員組合支 教組津田山支部が、有馬教育長とどんな交渉をしたの部の運動を活発にし、学校分会を刺激した。それまで教 か、先生たちは何も知らない。しかし十日あまり経って組に関心をもたなかった幾十人の先生たちに、あらため から、教組の専従の書記長から学校へ電話がかかって来て組合の意義を知らせることになった。それは逆効果で て、須藤先生も志野田先生ももう大丈夫だと知らせてくあったかも知れない。 おそらく来年からは、退職勧告は一層困難になるだろ れた。いまから職員の配置がえをするのも面倒なことだ う。教委が勧告を発するまえに、教組は対策を協議しス し、転勤させられる先生も迷惑にきまっている。 教育長はどこかほかの学校の先生を、うまくやめさせク一フムを組み、一丸となって対抗する手段をとるだろう。 て員数を合せたのかも知れない。組合活動の不活発な学そのようにして、教育行政と教育現場との、両者の食 校分会では、勧告をうけた先生をだれも支持してくれないちがいは大きくなって行く。教組の抵抗が大きくなる い。校長が積極的に応援してくれる学校ならば、先生もと、地方教育委員会はそれをどうすることも出来なくな 懸命に頑張るけれども、校長が教育長の御機嫌をとるよる。問題は県の教育庁にうっされ、県教組とのあいだで 上 うな所では、先生たちは泣く泣く退職願に判こをおして解決がはかられる。 のしまう。 しかし食いちがいが更に大きくなってくると、教育庁 人 結局、組合活動の弱い学校の教師だけが犠牲にされてもそれを解決し得なくなる。今度は日教組本部が文部省 123

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ですけど、教組に対する政治的圧迫はだんだん強くなる くうなずいた。 一一人だけのあいだで、思いがけなく心が通いあったよでしよう。今のままではだめですよ。組合は負けてしま いますよ。内部からかためて行くことが必要じゃありま うなかたちであった。 組合活動の経歴からいえば、庄司春子の方が三年もなせん ? 」 「いや、僕は思うんだが、もう今となっては一つ一つの がかった。そのことを志野田はいくらかひけ目に感じて いた。県の執行委員になったのも春子の方が一一年もはや県教組が県庁や教育庁を相手にして闘争をやっている時 い。志野田はそれを意識すると、かえって高いところか代じゃないね。相手は政府ですよ。国会ですよ。問題は ら物を言うような態度をとっていた。負けまいとする虚そこまで根がふかくなっているんだ」 「ええ、解っていますよ。しかしそのためには各県の教 栄心があった。 「とにかく土地柄が、こういう封建的な場所なんだから、組がしつかりしなくてはいけないわ。あなたなんか、や 何をやるにもむずかしいね。まあ、五年計画でも十年計れる人なんだから一つやって下さいよ」 「だめだよ」 画でもいいから、ゆっくり地道にやって行くんだな」 「だめじゃないわ。婦人部はみんなで先生を支持するわ。 春子は手袋をはめながら、 「そんなのんきなことを言ったらだめよ」と言った。彼本当ですよ , 低い声ではあったが、熱をおびてくると歯切れのいい の方にまっすぐに向き直って、たしなめる口調だった。 「 : : : 先生がそんなことを言ったらいけないわ。私は先物言いをする女だった。県教組の総会や中央委員会で、 生にとても期待しているのよ。教組の仕事って、これか婦人教師の問題に関する質問などが出されると、肥った らが本当にむずかしい所でしよう。それにはやはり新しからだでゆっくりと壇上に立ち、やさしい口調ではある い人が幹部になって、新しいやり方をしなくてはいけなが明快な答弁をする、有能な執行委員でもあった。 汽車がホームにはいって、乗客がいっせいに立ちあが いと思うの。先生なんか一番適任よ」 ったとき、彼女はそのざわめきのなかで、からだの支え 「おだてるんじゃないよ」 ・ : ねえ先生、ここだけの話を求めるような姿勢をしながら、ふと志野田の手を握っ 「いいえ、本当のはなし。

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人間の壁 ( 上 ) そう言い残して、竹越先生は自席へもどって行った。 教育犠牲者。 : : : 日本じゅうで毎年、どれだけの犠牲 ささ 拡大闘争委員会 が教育のために捧げられていることだろうか。修学旅行 中の事故、臨海学校で起った事故、運動会その他のスポ ー教組の吉沢執行委員長は、予定よりも半日遅れて、 ーツのあいだに起った事故、児童の登校下校のあいだに 起った事故。何千人という生徒と教師が、教育のために朝の汽車で帰郷した。東京駅から三等寝台をとった。寝 台料金は出張旅費にははいらないので、彼の自弁だった。 命をうしなっているのだった。 浅井吉男もその教育塔に祭ってもらえるかも知れない。帰るとすぐに会議がある。会議にそなえて、寝ておこう それは尾崎先生にとって一つの救いだった。生前はだれというつもりだった。 からもかえりみられない孤独な子供だった。だれからも東京へ行ったのは、日教組本部で情宣部や調査部の資 しか 愛されたことのない、叱られ、憎まれ、きらわれ、うと料を見せてもらい、教育界全般の情勢を正確に知ってお こうという目的であった。また、ー教組の今後の闘争 んぜられた子供だった。 けれども尾崎ふみ子はあの子が何を求めていたかを知について、共闘部の意見を聞き、書記長の指示をもとめ、 っていた。工作の時間に見せたあの熱心さ。できあがっ同時にー教組の現状を報告しておくためでもあった。 中央の執行委員の眼から見て、ー教組のような組織 た作品をほめられた時の何とも言えない柔らかな表情。 浅井吉男は愛されることの喜びに飢えていたのだ。彼女力の弱い、闘争力の弱いところには、あまり注意をはら はあの子の霊をなぐさめてやりたかった。不幸な短い人っていないような様子が感じられた。吉沢委員長の報告 生を終って、あれきりではあんまりだと思った。せめてを、彼等はすこしばかり退屈そうにして聞いていた。そ んな報告はどこの県にもあることで、珍しくはなかった 死後の霊を安らかにしてやりたかった。 のかも知れない。中央組織の人としては、やはり闘争力 の強い府県に多くを期待し、ー県教組などには何も期 待してはいないような口ぶりも察せられた。 353

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っており、地方政治も警察も検察権も、教育権をすらも 8 党議員たちは、 「われわれは県の教職員組合と対決するのだ」と明言し一手に握っている。われわれ教組はこの大きな圧迫と、 どうやって闘ったらいいのか。諸君の腹蔵のない御意見 ている。 先生たちの勤務評定をやるかやらないかという程度のをうかがいたい。・ 間題について、政権を担当する大政党の県支部が、 ( 対朝の九時半から午後の二時半までかかって、こういう 決する ) というのも大げさすぎる話であり、県教委と県風なたくさんの報告が出そろってみると、拡大闘争委員 教組とのあいだで解決すべき教育問題に、政党人が直接会の委員たちすべてが、どうしていいか解らないような 乗り出してきて、 ( 対決 ) するというのは筋道が違って混迷におちいった感じだった。みんな手をこまぬいて、 いた。 考えこんでしまった。「四面楚歌」という古い言葉が思 しかし問題をさらに追及して行けば、筋道は違っていい出された。右も左も前もうしろも、みんな敵だった。 くうけん ないのだ。それは愛媛県だけの問題ではなくて、保守対強力な敵にとりかこまれて、先生たちの方は徒手空拳、 革新の政争であった。少なくとも保守党側はそういう考何の武器も持ってはいない。頼りにするのは教師の団結 えであった。したがって教組に対する圧迫は人目をはば力であるが、団結が必ずしも最大の武器ではない。 からぬものがあった。 と協力して行こうとすれば、幹部はもう 十月一日、任命制の教育委員会が発足し、愛媛県教育保守党の圧力に屈服しているという。母親たちとの提携 委員長には右翼的人物といわれる竹本氏が就任し、教育をかためて行こうとすれば、母親は保守系の婦人会の方 長には中西氏が任命された。自民党は中西教育長にむかへ連れて行かれてしまったという。活発な青年たちと歩 調をあわせて行こうと思うと、青年層の幹部たちも保守 って教組弾圧を強要し、 「存分に、遠慮なくやってくれ。君の骨は拾ってやる」党の圧力と資金とに屈して保守系の青年団を作ってしま といったと伝えられている。 った。教師のなかにすらも、保守系の資金で動く第二組 愛媛県だけではなく、自民党は全国的にわれわれ教組合が作られている。現場の教師たちは八方ふさがりだ。 と対決する方針を定めているらしい。自民党は政権を握それのみならず、文部省の命令によって各県の教委は、

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「まあね、原則から言ってね、県教組は一つの自治体な ー教組は追いつめられている。闘争よりほかに、生イ んだからね、特別な問題のあるときはともかくとして、 きる道はなさそうなところまで追いつめられてきた。執 一般に起り得る事態に対しては、県教組独自の判断と努行部は責任を問われている。七千人の教職員が昇給をス 力とでもって、事を処理してもらいたいな。もちろん中トップされているのに、執行部は何をしているのだ。何 執としては、役に立っことならどんな援助をも惜しむものための組合だ。われわれが組合費を払っているのは執 んじゃないが、四十六都道府県は、一応は自己の責任に行委員を遊ばせて月給をやるためではないぞ。われわれ おいて組織をかため運営をやってゆくことだよ。今後のの正当な権利を擁護できないような組合なら解散してし 情勢は一々報告しておいてくれたまえ。こちらはこちらまえ。解散すれば保守党の弾圧もなくなって、われわれ で考えよう。もちろん必要な処置はとる。しかし県教組は却って楽になるかも知れない。執行部は一体どうする 自体の闘争力を、うんと養っておくことだな。それが第つもりなんだ。 ・ : この六月に定期大会がひらかれたと 一だろう」 き、執行委員たちは完膚なきまでに罵倒され、 ( つるし 言われるまでもなく、そんな事はわかっている。そん上げ ) られたのだった。 な文句を聞くために上京したのではなかった。闘争力な執行部がこれほど罵倒され、つるしあげられたという どと言っても、県単位の教組にはおのずから闘争の限界ことは、執行部の責任問題であると同時に、一般の組合 がある。限界以上の闘争が必要なときが来たら、全国五員たる教師たちが、もはやこれ以上は我慢できないとこ 十万組合員の支持がなくてはやりきれない。 ろまで追いつめられたことの証拠でもあった。昇給はス 法律でもって許された正当な要求でも、その要求を貫 トップされたのみならず、その昇給分を請求する権利を くためには ( カ ) が必要だ。力が足りなければ正当な要将来にむかって放棄させられた。しかもこの十月以降、 さらいねん 求さえも不当な行為とされてしまう。勝てば官軍だ。正二百五十九人の人員整理をやるという。来年も再来年も、 義がカであるよりも、カで押し勝った者が正義の旗を握二百六十人ずつ首を切るという。昇給予算は県財政のな ふらち る。 ( 力は正義なり ) という不埓な言葉が、今の世の中かに一円たりとも認めないという。 ではむしろ真理に近い。 要するに向う何カ年にわたって、月給は絶対にあがら ばとう

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しかし彼女はそれから後に、良人の別の一面をも見た。 吉沢は一度も、志野田建一郎から報告させようとはし 自分を反省することの少ない男。従って、前進する力はなかった。彼はただ吉沢のとなりにあぐらをかいて、煙 1 あるが、その力に伴うべき心の秩序が足りない。自分を草をすっていただけであった。勢い執行委員たちの質問 規律するものがない。だから、吉沢からあれほど罵倒さも委員長だけに向けられていた。 れても、案外そのことを自分で理解していないのだった。志野田建一郎は吉沢のつめたくなった気持を、痛いほ 障害に突きあたれば、突破して行くだけのことだと思っど胸に感じていた。代表者会議に出席した自分が、まる ていた。 で無視されている。吉沢の鞄持ちについて行ったという 実は、その障害は吉沢ではなくて、志野田建一郎自身程度にしか認められてはいないらしい。これは危険な状 であった。彼は彼自身の性格につまずいたのだった。そ態だ。このままでじっとしていれば、吉沢は執行部や組 してそのことが自分では解っていなかった。彼は、県教合員に対して、何等かのはたらきかけをするだろう。建 組の選挙で吉沢に勝っ方法ばかりを、考えつづけていた。一郎の足場を崩す工作を始めるに違いない。 先手を取らなくてはならない、と彼は思った。吉沢を ー市の駅につくと、二人はすぐに教組の事務室へ行委員長の席からたたき落さなくては、自分がたたき落さ った。ひと休みしてから、臨時の執行委員会がひらかれれる。落されたら動きの取れない立場になる。 る。番茶だけしか出ない事務的な会合。場所は三階にあ津田山市立中学に教師の籍は残っているが、教師の空 る六畳の日本間。十人も坐れば一杯になるような部屋だ席はない。学校へもどって行っても、彼の坐るべき机は っこ。 ないのだ。しかも学年の途中からでは、ますます割り込 吉沢が東京における代表者大会の様子を報告した。新むことは困難だ。結局、ろくに授業時間をもたない、肩 教育委員会法案に対する教組の闘争方針について、闘争身のせまい、なかば失業者のような教師になるより仕方 に対する各府県教組の実状について、婦人教師の人員整がない。それは彼にとって、耐えられない屈辱だった。 理について、定期昇給が遅れている地域の対策について、建一郎はいらだたしく煙草をすいつづけながら、委員 等々。 会が終るのを待っていた。終ったのはもうタ方だった。 おっと

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「ほら、新町の角に交番がございましよう。あの二、三 りますわ」 「なるほど。 軒裏の方の、大工の子ですわ」 : いや、そんな事もないでしようが、 「はあ、あれですか。あれが、どうかしましたか」 ・ : そうですか。よくきいてみましよう」 「いいえ、駄目よ先生。黙っていらして。先生は知らな「あの子、ねえ、・ : : ・何とかなりませんか。うまい具合 に、 e< 組か O 組へ、まわしてやる訳にゆかないでしよう いことにしておいて頂く方がよろしいわ」 咋日の母の会の様子を、彼女はもうことごとく知ってかしら。あの子びとりいるために、組はクラスが乱れ いるのだった。彼女のグループはどの学年の母親にもまて駄目なんですの。このあいだもわたし、参観しました ちょう椴うもう んですよ。そしたら私の方ばっかり見ていましてね、あ ざっている。それが和田澄江の諜報網であった。 彼女は全部の教師について消息を集める。私生活の内かんべえをして見せたり、机の下へもぐり込んだり、算 部にまで立ち人って、ニースを集めておく。先生たち数の時間だのにクレオンで絵をかいたり、無茶苦茶なん の弱点を知っておくことによって、彼女は一層つよい発です。うちの子供はすぐ近所にお席があるもんですから、 そりや迷惑しますわ」 言権を握る。 先生ばかりではなく、母親たちについても裏ばなしを「ふむ、そんなに悪いですか」 「とにかく手におえない子ですわ。志野田先生はほった 知りたがる。甲の母親が後妻であり、乙の母親はもと芸 しか 者であったということ。の母親は金がありそうにしてらかしで、別に叱りもなさらないの。あれもどうかと思 いるが、実はこっそり質屋へ通っていること。の母親いますわ」 ・ : まあ一つ、研究してみましよう」と は遊郭で生れた娘であること。 0 の母親には情夫がある「そうですか。 校長は言った。 とい、つこと。 「話はちがいますけどね、校長先生・ : ・ : 」彼女はテープ学校の内政に干渉するような和田澄江の発言は、あき 上 らかに不当なものであることは解っていても、それを簡 ルの上に身をかがめて、小声になった。 単に拒絶するわけにはゆかない事情があった。それは学 の「五年組の浅井吉男っていう子、御存じ ? 」 びんらん 校自治の紊乱である。その紊乱は、校費の不足と、その 人「浅井 : : : どんな子でした」 135

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て彼女に良人があったことの証拠であった。それを見る件までが、みんな正面衝突になったり交渉決裂になった と志野田建一郎は、この女教師の生理を感じた。女でありして、結局は教組が損をしているんじゃないかという ることを、なまなましく意識した。右手には、自分で編気がするんです」 んだらしい毛糸の手袋をはめたままでいた。不器用な編「ー県の教組はうまいよ」と志野田先生は隣接した県 み方であった。家事とか手芸とかいうことには向かない、のはなしを持ち出した。「 : : : あそこは労働運動の歴史 こうかっ やはり外で働くたちの女であるらしかった。 が古いからね、県教組だってなかなか老巧で狡猾だね。 「わたし、近ごろときどき思うんですけどね : : : 」と彼県の教育委員だとか県議会の文教委員とかいう連中と、 女は男の方に顔をちかづけて言った。「組合の闘争方針、しじゅう連絡をとっているんだ。いっしょに酒なんか飲 ・ : というよりも、闘争技術みたいな事なんですけど、 んで、仲間になっているんだよ。八百長じゃないかと言 : 先生、いまのままでいいと思っていらっしやる ? 」われるくらい、よく連絡がとれているんだ。だから何か 「どんなことさ」 問題がおこると、教育委員からまず相談があるんだね。 「つまり、 ・委員長はいつも強気でしよう。どうせ組つまり話しあいの場があるし、そういう段階がある。そ 合の闘争ですから強気でいいんでしようけれど、ねえ、 れでだめな時はストでも何でもやるよ。やる時はまた激 すこし強気すぎるんじゃないでしようか」 しいからね。炭労も国鉄も電産もみな歩調をそろえてや 「そういうところはあるね」 るだろう。労組がそれだけ強いから、教育委員会の方だ 「わたし思うのよ。闘争一本槍で、どんな時でも真正面って大事をとって、事前に話しあいをする必要も認めて から相手にぶつかって行くような組合闘争っていうのは、いるわけだ」 もう古いんじゃないんですか。もちろんそれが一番いい 「その方がお互いに、利ロなやり方ね」 場合だってありますけれど、何て言うのかな、つまり政「うちの組合はそういう話しあいというものがない。い ( 治的折衝とか政治的工作とか : : : 」 つだって、お互いに敵だという格好になっているが、あ の「そういう所はちっとも無いね」 れはすこし考えた方がいいね」 人「そうなのよ。だから、もっとおだやかにすみそうな事「ええ、そう思うわ。ほんとにそうよ」と庄司春子は強 やり 4

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島氏の代々の主君の霊をまつったところ。松と桜との古うかべた。そして、「教育庁もだいぶ慎重になりやがっ 木がくらく茂っている。堀川の反対側にはひと筋の道がたな」と、先生らしくない乱暴な口をきいた。 あって、まばらな商店のあいだにただ一棟、木造一二階建教組の書記局はなかなかいそがしかった。遠くの漁村 ての洋館が目立っている。それがー市の教育会館で、 の小学校から長距離電話がかかってきて、退職勧告につ 県教組、ー市支部、高教組 ( 高贐校教 ) など幾つかの事いての指示をもとめてくる。東京の、日教組本部から電 務所の寄りあい世帯であった。 報がくる。土地の新聞記者が取材にくる。一方では謄写 また同時にそれは、 co ー県における学校教育者の本拠版を刷って各支部に指令をながす仕事、他方では執行委 であり、十年つづいている保守政党内閣の、年ごとに月員会をひらいて事務処理やら運動方針やらの協議。 ごとに重圧を加えてくる ( 反動文教政策 ) に対する、日 またそこへ、革新政党の県会議員が最近の情報をもっ 教組の抵抗運動のひとつの拠点でもあった。 て打合せにくる。打合せというのが、教組の支持を確保 この古い建物は窓が小さく、風通しがわるくて、曇っしておいて、この次の選挙のときにも応援をしてもらお た日には朝から電灯をつけなくては仕事ができなかった。 うという計算もあるのだ。 小さなぼろぼろのストーヴが一つだけ、置きならべた机執行委員長はラジオのインタビューにつかまる。それ のかげで、かすかな火の気を保っている。志野田建一郎 が終ると今度は教育関係の出版社の人がやってきて、夏 とら はレインコートをぬぐと、ストーヴの煙突を両手で握っ休みのワークプックとか社会科の ( 虎の巻 ) とかいうも て、こわばった指をあたためた。 のについて、教組の推薦をしてくれという。裏の方では 教育庁から電話がかかってきた。 ( 十一時に面会を申雑用のおばさんが昼飯の支度をするらしく、いわしを焼 込まれているが、教育委員は人員整理の問題について、 くけむりが書記局までながれてくる。会計部では専従の 十時半から県側と協議することになっているから、面会執行委員と事務員とにわたす給料の計算をしている。 は夕方にしてほしい ) というはなしであった。 しかしこの日、何よりも大きく書記局の感情をう・こか 吉沢執行委員長はそれを聞くと、机のわきの繼かごしたものは、京都大学総長をはじめ、関西の大学総長や の上に両足をあげて、やせた黒い顔に線のつよい笑いを学長たち十三人が発した、教育制度改正についての反対 むね