ノーザン - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年7月号
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1. 新潮 2016年7月号

さんは遠くの牧場に泊まり込みで乗り方と世話の仕方を習っ みつく暇もなく振り落とされた。強く腰を打ち、動けなくな った。ノーザンはたいそう興奮していた。どうしてなのかは て来ていた。山へはいちばんおとなしいノーザンで行った。 ノーザンは小さいし乗りやすかった。ソレイユは大きいし和わからない。たいしたものでなくても馬は突然驚いたりす 田さんが専用で乗っていたし、まことはしよっちゅう暴走する。自分の屁で驚き立ち上がりかけるのも見たことがある。 それでもノーザンがこんなに興奮するのははじめてだった。 るからこわかった。馬は馬小屋から離れるのを嫌がるから、 そしてまだそれをうまく操作できないから、山へ人るのにひ手綱をつかみ直し、ノーザンを落ち着かせようと低い音を出 と苦労したけど何とかなだめすかして山へ入れた。せり出しすがノーザンはとてもおびえた様子で、ぼくを中心にしてぐ るぐる回ろうとする。とにかく足を止めさせなければこのま ている木の枝に何度も顔をぶつけそうになりながら、ノーザ まだと乗れない。ようやくノーザンを止めたとき、離れた場 ンを山の奥へずんずん人れた。しばらくは【谷】の音が聞こ えていたが、しまいにそれも聞こえなくなり、山の音とノー 所のクマザサが音を立てた。ノーザンは後ずさりしながら白 目を見せている。何かいる。戻らなきや。もう戻らなきや。 ザンの呼吸する音と蹄の音しかしなくなった。原生林ではな く人の手で植えられたものだったから木は整然と並んでい慌てて乗ろうとするがノーザンは立ち上がりかけたり、後ろ て、それが少しつまらなかったけど原生林ならこんな風に馬足をはねあげたりしてじっとせずぼくを乗せようとしない。 で、ぼく程度の技術で、中まではこわくて人っては行けな乗らなきや戻れない。クマザサの揺らぎはさっきより大きく なっている気がする。ノーザンだけここで放してしまうこと い。コッコッコッと固い何かで木を小刻みに叩く音が聞こえ はできない。一人で戻ってくれればよいがそうしてくれると てきた。音は上からしていた。見上げても音の出どころがわ は限らない。馬がいなくなったとなれば大問題になってしま からない。音はあたり全体から聞こえていた。何だろう。ノ う。とにかく乗る。あぶみに左足をかけて、たてがみを左手 ーザンを進ませてみた。大きな黒い何かが木の幹に縦にい た。鳥だった。それが動くたびに音がした。あれがこの音を で強く掴んで、右手で手綱を馬の顔が上を向くくらい強く握 出しているのだ。キツッキだ。・ けんにくちばしで木をつつい ってからだをあげた。あげる最中にノーザンがビュッと動い たので左足があぶみから外れたけど、またがれてはいたから ている。木をつつくからキツッキというのだからそうだあれ とにかく落とされないようにしがみついた。またがったとた がキツッキだ。キツッキの上には葉がしげり、その隙間から んノーザンは走った。何かを飛び越えたりしながら走った。 日がさしている。キツッキの背中に日が当たっている。当た ったそこは茶色に見える。ぼくはノーザンの背でそれを見上飛び越えたりもするのだこいつは。こわい。早すぎる。手綱 を引いて速度を落とそうとするが馬がいったんこうなればい げていた。突然ノーザンが何かに驚いて立ち上がった。しが

2. 新潮 2016年7月号

どういうことだろう。どうしてサイロ棟がないのだろう。 所にいたすべての人たちの全部が遠い。遠くて、薄い。いず れこの【谷】もそうなる。 せつかく建てたのにどうしてないのだろう。 スタンドを消した。からだの右に窓があり、カーテンを開 視界が下がった。草しか見えない。それは夏の草じゃな けると少し離れて馬小屋が見えた。月は出ていないが、雪の い、勢いのなくなった、しかしまだ緑色を保つ、雪が降る前 白でぼんやりとそれは見えた。カーテンを閉じて、布団を口 の草だ。ぼくはそれを見ている。 のあたりまで引っ張り上げる。今晩もとても冷えている。目 そうか を閉じる。寝息が聞こえて来た。自分のだ。 このあたりにぼくはいるのか あれがまた来た。前と同じだ。男だ。黒い服の、大きな男 だ。男は前と同じように、ぼくを探していた。ぼくがここに ぼくが寝ているあたりをぼくは見ているのか いることを男は知っている。ぼくがここにいることを知っ 男の目で、ぼくは、それを、見ているのか て、男は、そこに、いた。 馬小屋にはソレイユもノーザンもまこともいない。ノーザ 男が何かささやいた。 ンがいつもかじっている馬房の木の柵はそのままにあったけ どかじるノーザンはいない。馬小屋の前に立ち、食堂棟の方 しかし何といっているのか聞き取れない。自分の寝息が邪 へ目が向いた。知らない建物が二つ見えた。この角度なら見 魔をしている。 えるはずの馬場がない。あれだけ苦労して作った、馬場が、 ない。 ぼくの目の前に広がっていたのは山だった。それは【谷】 空は曇って、白い。からすが鳴いている。からすは同じ のサイロ棟の裏側に位置する、毎日見ている、ノーザンで人だ。 駐車場のほうへ歩いている、らしい。左に食堂棟が近づい って行った、見慣れた、山だった。しかしおかしい。この角 て来た。人の気配がない。誰もいない。煙突から煙も出てい 度からこの山は見えないはずだ。ぼくはぼくの寝ている部屋 のあたりにいる、らしいのだ。だとしたら山が見えるのはお ない。宿舎棟が見えた。稽古場が見えた。どこにも人がいな かしい。ここから山が見えてしまったら、サイロ棟がないと い。大の鳴き声も、しない。稽古場の前には山のように紙ゴ いうことになる。 ミが積まれていた。あのまだ真新しい、建てられてから一年 も経たない、大きな丸太で作られた稽古場はすすけて黒く、 サイロ棟がない。

3. 新潮 2016年7月号

ろした。降ろした丸太を二メートル弱ほどに刻み、整地され 「太陽って意味」 砂の敷き詰められた地面のまわりに一メートル五十ほどの間 と上野毛さんが教えてくれた。一期生の上野毛さんはとて も物腰の柔らかい人であまり話したことはない。上野毛さん隔で四十センチから五十センチほどの穴を掘って、刻んだそ れを突き刺し立てて、針金を張り巡らし柵にして、馬場を作 は二期生とあまり話さない。さけているという感じでもな っ ( 。 い。洗濯はしないらしく下着は使い捨てるのだと聞いた。さ ソレイユは馬場に人れられ、ずぶ濡れのままそこにいた。 すがに服はそういうわけにもいかないから上野毛さんの近く 太陽が濡れていた。雷が鳴った。雷が鳴るたびソレイユは後 に行くととてもくさい。なのにいつもまわりに女の人がい ろ足で立ち上がりいなないた。こわいのだ。ソレイユが立ち た。美人の奈良さんや、【先生】にダントツでよく叱られる、 それはたぶんおしゃべりだからで、しよっちゅう誰かとしゃ 上がるかたちが雷の光で何度も浮かび上がった。 馬小屋の建設は急いで行われた。夜になっても作業は行わ べって笑っている西原さんや大きな旅館の娘だという矢野さ れた。 んがいつも上野毛さんといた。 馬小屋が出来た。ソレイユ、それからあとから来た二頭、 ソレイユが来た日の夜大雨が降った。ソレイユは馬場にい ノーザンとまことを入れる三つの馬房と馬の食料のいろいろ 馬が来るということになり、まず馬小屋ではなく馬場を作と馬具を置いておく部屋がそこには作られた。二階は寝わら を保管しておくわら部屋で、はしごでそこへのぼるようにな った。逆のような気もするが計画はずっと前からそういう風 っていた。まことは茶色い雑種でノーザンはノーザン・クロ に決められていた。なぜかは知らない。なぜとも聞かない。 スという立派な名前のついた白い小さなサラブレッドだっ 【谷】の脇と山との間に流れる小さな川沿いの、一周二百メ こ 0 ートルほどの土地の整地はすでにされていた。その柵を作る ために山へ人って木をチェーンソーで切り倒した。チェーン ソーは主に和田さんと升野さんが使った。残りは切り倒され た間伐の枝を鉈で払えといわれていた。山では他の人がどこ にいるのかわからなくなる。何人もいるはずなのだけど誰と も会わなくて済むようになる。一人になれる。どっちを見て も木しかいない。葉がしげり薄暗いが切り倒されたところだ けが明るい。切り倒した丸太はみんなで肩に担いで山から降 進藤さんの家からお手伝いを頼まれたとリーダーの藤田さ んがいった。進藤さんは一番近くにある農家さんだ。かぼち ややるから取りに来いと呼ばれて行くとトラックで来いとい い再び出直してトラックで行くとトラックいつばいのかぼち やをくれたりする親切な人だった。農家さんはどこも親切だ った。親切でない農家さんもいたが親切でない農家さんとは

4. 新潮 2016年7月号

結局わたしらは付き合っていたわけではなかったみたいや し、そう思うとわたしのことあんまり見てなかったり聞いて 作業小屋でうたた寝してたら夢を見た。 なかったりしたこともすごくああなるほどって思うし、少し だけ悩みましたが、そういうことになりました。 「元気ないよねこの頃」 けいこがいった。 「わかってんだよ」 「そうかな」 「ないじゃん」 話すたびにけいこが強く吐く息が白く充満する。 「わたしだってシャパに男いるよ」 二人で車で話していた。夜だ。だけど極寒のこの時期の けいこがいってこちらに顔を向けた。顔の相が違ってい 夜、エンジンもかけずに車の中にいるのは死ぬほど寒い。ど る。目が血走り、鼻の穴が大きく開いている。こんなに大き うして車の中なんかで話すことになったのだっけ。 な鼻の穴をしていたのか。 「わたしが話そうっていったんだよ」 ああそうか。 「お前」 「腹立つんだよ」 「いったじゃん」 いったのか。 「何かすげえ腹が立つんだよ ! 」 「何なんだお前凵」 「いったでしよ」 「お前はちゃんと見てんのか ? ちゃんと聞いてんのか人の おぼえていない。音を立てて立ち木が裂けた。温度が下が っている。温度が下がると立ち木の中の水分が凍って裂け話、見て聞いてんのか ? 」 る。 山が、白くぼんやりと夜なのにとてもよく見えていた。雪 があれば、夏より夜は明るい。車の中にいるのによく見え 「シャパに」 「え」 「山ばっかり見てんじゃねえよ ! 」 「女いんのかよ」 馬房でノーザンが柵をかじっていた。ソレイユはじっと何 こんな言葉使いをするけいこははじめてだ。 かに耳を立てていた。まことは横になっていた。そうか。馬せ 「どうなんだよ」 し も横になって寝るのか。人がいたら絶対に見せない姿だ。 「いるんだろ」 「馬ばっかり見てんじゃねえよ ! 」

5. 新潮 2016年7月号

しばらく待って誰も出て来なければ帰ろう。家を背にして来 うことなんか聞かない。競馬の騎手ですら制御できなくなる た方へ顔を向ける。【谷】でこの向きにいつも見えている山 のが馬だ。あぶみに足がかかってない、かからない。木の枝 はここからは見えない。かわりに見えるのは傾斜地につくら が何度も顔に当たった。ここで振り落とされるわけにはいか れた畑だ。あれが右にせり上がり、ある場所から突然山にな ない。【谷】までたいした距離じゃない。すぐに木の隙間か る。だんだんにじゃない。突然、山になる。かってはあの畑 ら【谷】が見えるはずだ。それさえ見えれば大丈夫だ。枝が も山だったはずだ。畑は人が作った。 また顔に当たった。目に当たった。涙が出て、目があかな 玄関の前へ腰を下ろしてたばこに火をつけた。右に古い道 い。それでも落馬するわけにはいかない。後ろから何かが追 いかけてきているかもしれないのだ。何が。作業小屋の屋根具があった。立ち枯れした木にも見えた。たばこを消してそ こらに投げてもう一度家の前に立ち呼んでみる。返事はな が見えた。【谷】に戻ってようやくノーザンが落ち着いた。 い。再び家を背にして腰を下ろしかけたとき立ち枯れの木が 山でのことは誰にも話していない。 絞り出すように何かを吐いた。痰を吐いた。人だった。五分 進藤さんの家はまだ見えない。 刈りの頭に赤いタオルで鉢巻をしたじいさんだった。顔は赤 葉の一枚をちぎって振りながら歩いた。もう一枚違うかた ちのをちぎって両手に葉を持ち振りながら歩いた。まだ緑色茶色のくしやくしやで目玉がどこにあるのかわからない。こ こにいるのだからたぶんこのじいさんも進藤さんだろう、い をしたそれは空気の抵抗を受けてひらひらと動いた。鳥なら つもの進藤さんはもっと若い人だがそうだ、進藤さんのお父 このまま飛び上がる。飛んで空から【谷】を見下ろす。管理 さんかおじいさんだ。 棟が見えて稽古場が見える。作業小屋が見えて宿舎棟が見え 「こんにちは」 る。食堂棟の向こうにサイロ棟が見えて、その奥が馬小屋 といってみた。じいさんは反応しない。やはり何かの古道 だ。それらが谷底に並んで建っている。馬場には馬がいる。 具か立ち枯れした木かと近づいてみるとやはり間違いなくじ 今日はけいこが馬の係だ。【谷】から歩いて出て行く人間が、 いさんで、もう一度今度は大きな声で ぼくだ。 「こんにちは」 坂をのぼりきると山が視界から消えて景色が開けて左の下 といってみた。ようやく聞こえたのかじいさんは小さくう に進藤さんの家が見えた。茶色い屋根の古い家で、を横に なずいたように見えたが風に揺れていただけかもしれない。 したかたちの倉庫も見える。着くと誰もいなかった。家の前 ん ときどき強い風が吹いていた。しばらくそのままそこにいし まで行って呼んでみたが返事がない。【谷】に電話をしよう た。いながらじいさんを見ていた。気を人れて見ていないと にも電話などもちろんない。もう二度呼んでみたが同じだ。