二人 - みる会図書館


検索対象: 新潮 2016年7月号
379件見つかりました。

1. 新潮 2016年7月号

んはなるべく泣かないようにと我慢して笑って、だけど泣い 出しあって作ったというそろいのスタジアムジャンバーを一 て、野添さんは眉間にしわをよせて怒ったような顔をしてい 期生たちは着て式に出ていた。趣味も好みもバラバラでどん て、二期生一人ずつに声をかけて、ぼくには な些細な話であっても意見の合わなかった人たちが同じュニ 「もっと人とちゃんと話さないとだめだぞ」 フォームのようなものを着ていた。【先生】が黒い記念のキ といって、やつばりジマさんの運転する車に乗って出て行 ャップを渡しながら一期生の一人一人に声をかけていた。声 った。 をかけられて一期生のみんなは泣いていた。何と声をかけら 安藤さんは一人で、バス停まで歩くといって、車に乗らず れていたのかはわからない。【先生】も泣いていた。間違い ない。【先生】は泣いていた。ときどき手を目にやり涙を拭【谷】を一回りしてから出て行った。 奈良さんと上野毛さんは「来たときからここを出るのわか いていた。マキさんも泣いていた。ロミちゃんも泣いてい ってたんだから泣いたりするのはおかしいよーと泣いている た。ぼくはそれを泣かずにずっと見ていた。仰げば尊しを一 ミランダさんにいい、そのことにミランダさんが腹を立て、 期生たちがうたった。【先生】は目を閉じてそれを聞いてい 何だか変な具合の空気の中、出て行った。 一期生が出て行くのをスタッフの和田さんと佐伯さんはじ 次の日、藤田さんが【谷】を出た。ジマさんとべンさんと っと見ていた。和田さんと佐伯さんはこのあともずっと ミュキさんがしやくりあげながら泣いてしがみついていたけ 【谷】に残る。二人は泣かなかった。卒業式でも泣かなかっ ど藤田さんは冷静で「またな」と何度もいい、少し離れたと ころにいたぼくたちにも「またな」といい、ジマさんの運転た。何もなかったここを今のかたちにまでした過酷な二年を 共に過ごして来た人たちがいなくなるのを、二人は少し離れ する車に乗って出て行った。最初に【谷】へ来たとき、どろ たところから泣かずにじっと見ていた。 どろになった赤いャッケを着て大きな鉤爪のついた棒を持っ 田中さんと金田さんは出て行かなかった。近くに家を借り ていた人だ。稽古場で人参しか人っていないクリームシチュ てもう一年ここに残ると出て行かなかった。近くに家を借り ーをたべさせてくれた人だ。リーダーだった人だ。 たのは【先生】に、しかし【谷】には住ませない、といわれ 次の日、升野さんと馬場さんが出て行った。二人はほんと たからで、この後一年、通いで授業を受けるのだそうだ。 うにあっさりと出て行った。泣く暇も作らせず出て行った。 せつかくだから旅行しながら地元へ帰るのだといっていた。 そしてあっという間に【谷】の人間が半分になった。間も 一日置いて、西原さんと矢野さんと野添さんが出て行っ なく新しい人たちが来るのだけど、それまでは二期生だけで た。西原さんは違う人みたいな顔になるまで泣いて、矢野さ

2. 新潮 2016年7月号

がついていた。目的地に近づいていたのだ。かかっていた曲 る人はたくさんのテレビドラマや映画の脚本を書いていたか に聞き覚えがあった。どこかで聞いたことのある曲だ。何か ら、二人が話題にしていたそのドラマは見てなかったけど、 の曲だ。何の曲だっけ。 いくつか見てはいた。見てはいたけどそのときのぼくはそれ 「知らないの幻」 がその【先生】の作品だとは知らない。二人は黙ってしまっ 二人がとても驚いた声を出した。川島さんが車を道の脇に た。大きなトラックが後ろから来て通過した。窓の外の道の よせてキュッと停めた。からだが前へつんのめった。日 , 島さ脇に冬の間中雪の下になっていたのだろう枯れた草が濡れて んは怒っているように見えた。怒っていた。 倒れていた。山にはまだたくさん雪があった。両側には木し 「それ、行ってからいわない方がいいね」 かない。再び車は走り出した。川が見えた。どこも護岸工事 月島さんがいった。 のされていない小さな川だ。鮭はいるだろうか。車はどんど 「知らないってことをね」 ん山の中へ人って行った。少し窓をあけた。空気が冷たい。 「【先生】の代表作だからね」 鹿だ。鹿がいた。鹿は真っ黒の目でこちらを見ていた。オス 強い調子ではなかったけど、立川さんがいった。かかって で大きな角が頭に二本ついていた。見えなくなるまでそれを いたのはあるテレビドラマのテーマ曲だった。ドラマのタイ見ていた。見えなくなる直前、鹿はくるりと後ろへ歩いて行 トルは聞けば知っていた。母が見ていたのはおぼえていた。 った。二人には話していない。 これから行く場所を立ち上げた人が、【先生】が、そのドラ 小さな集落を通り過ぎ、両側に広い畑を見ながらしばらく マの脚本を書いていたのだとそのとき知った。信じられない 行くと、校舎がひとっしかない小学校が見えて来た。それを という顔を二人はした。 右に川島さんが車を停めた。小学校をのどんっきにして細 「ほんとに ? 」 い砂利道が左にあった。目的地はこの先にあるらしい。 川島さんがいった。なら何を見て応募したのだ、と立川さ 川島さんが車を砂利道へ人れた。とたんにゴッゴッと音が んがいった。 し始めた。右に民家が見えた。左はこちらに向かって下って 「新聞。の募集記事」 くる傾斜した広い畑だった。空は曇って白かった。車が右に そうじゃなくて、と立川さんはいった。 大きく曲がりゆるやかな坂を下りはじめた。右の下に家が見 「そうじゃなくて、先生の何を見て、応募しようと思った えた。左に山が、続けて右側からもせまり、木が、その枝 が、車に覆いかぶさって来るように思えた。枝のひとつが窓 を叩いた。ト / さな川、さっきの川とは別のものだ、いや同じ 何を。何も見てない。いや見てはいた。【先生】と呼ばれ

3. 新潮 2016年7月号

屋に全員集まってちょっとした飲み会が行われた。その中で から女の人が二人出て来た。ぼくたちより少し前に着いてい たらしい。 誰かがそれぞれを何て呼ぼうかといい出し、それはそうだと なり、突然それぞれお互い何と呼び合うかの会議となった。 「千葉です十九です俳優志望です」 「そんなものだいたい自然に決まって来るものじゃないのか」 「原口です二十四です脚本家志望です」 というもっともな意見はもちろん出た。真田さんだった。だ 二人は作業服のようなものを着て出る準備をしていたよう けどそれももう始まってしまった会議の中のひとつの意見と で、ぼくたちも持ってきていた真新しい作業服に着替えて、 して取り人れられてしまった。誰かに決められたわけでもな 再び【谷】へ戻り作業へ加わった。 く自発的にノートを取り出して書記を始めた原口さんが上手 させられたのは、建てられている最中のここで最も大きな な字でそれを書くのが見えた。 丸太小屋、それは食堂棟と呼ばれていた、の足元に積み重な って層となった、冬の間雪に押し固められて凍った丸太や材 そんなものだいたい自然に決まって来るものじゃないのか・ の削り屑をツルハシで叩き割り崩してスコップですくい青や 緑や黄色の肥料袋に詰めて一輪車で一箇所に集めるというも真田 ので、そこには今日から加わったぼくたち五人の他にここで 最終的にこうなった。 同期生となる人が四人いた。男が二人、女が二人。男が真田 川島さんはジマさん。俳優志望。自分でそうしてくれとい さんと遠藤さん。女が佐々本さんと相田さん。 った。これでいちいち「か、わ、じ、ま」と訂正しなくて済 からすが鳴いた。顔を上げると緑のまだない山に残る雪の む。 間の木のあちこちにたくさんのからすがいた。だけど見えて 立川さんはタチ。昔からずっとそうだったらしくそれに。 いるからすは鳴いているようには見えない。鳴いていない。 俳優志望。 それでもからすの鳴くのは耳に届いた。 真田さんは、下の名前をカッジといったので「カツは ? 」 と誰かがいった。真田さんは嫌だといったけど結局、カツ。 次の日女の人が二人来た。前田さんと熊本さんだ。これで 俳優志望。 ここに住むことになる全員がそろった。男が川島さん、立川 遠藤さんは下の名前の勉の音読みでべン。脚本家志望。 さん、真田さん、遠藤さん、ぼく。女が千葉さん、原口さ 千葉さんは下の名前そのままでけいこ。ぼくと同じ年で俳 ん、佐々本さん、相田さん、前田さん、熊本さん。夜、男が 雑魚寝することになっているこの空き家でいちばん大きな部優志望。

4. 新潮 2016年7月号

が好きで友だちと撮ったりもしていたらしい。 して歌いはじめた。ところまではよかったのだけど歌いなが カッさんは実家が工務店で、偶然タチさんの実家も工務店 ら歌の合間に【先生】にからみ始めた。最初は「まーまーそ で、しかしそれは んなに怒りなさんな」だとか「怒っちややーよ」といったも 「偶然じゃないんじゃないか」 ので佐伯さんをよく知る【先生】もマキさんもロミちゃん と一期生の馬場さん、馬場さんは世界各地の僻地へ旅をし も、まったくあいつはしようがねえな、といった様子で笑っ ていたという俳優志望の男の人で、そこらにはえている草と ていたのだけど、そのうち佐伯さんの歌は勢いを増し、歌が か確かめもせず口に人れて食べられるかどうか判断する、が 勢いを増すのと同時にからみも勢いを増し「何だよえらそー いい に ! 」とか「いばんじゃねーよ凵」になったあたりから場の 「工務店の息子なら建設に使えるだろうという理由で試験に 空気は不穏なものとなり、佐伯さんが一升瓶の酒を口に含 合格したのじゃないか」 み、前で聞いていたぼくたちに吹きかけ「びびってんじゃね と馬場さんの隣にいた升野さん、升野さんは一期生で一番 ーよ凵」といい【先生】に向かって「やい凵」と叫んだとき リーダーの藤田さんが飛び出して佐伯さんの腹を蹴飛ばし背が高く、最も早くからこの【谷】に来た三人の男の人のう ちの一人で、あとの二人はスタッフの建築専門の和田さんと 木工職人の佐伯さん、がいうとみんなが笑い、そのあと前へ 授業は稽古場で、材で作った高さ四十センチほどの三人掛出たジマさんがトラックの運転手で大きなトラックも運転で 」るというと けの机の前に座布団を敷いてそこに座って行われた。 「あなたもさっきの二人と同じでしよ」 最初の授業は『取材』だった。一期生たちが新しく人って と一期生の女の人の中でいちばん美人の奈良さんがいって 来た二期生にいろいろと質問をし取材をするというものだっ ( 0 西原さんが手を叩き、またみんなが笑い、べンさんは小説家 を目指しているらしく何度もいろんな雑誌に応募したのだけ 取材される二期生が呼ばれて前に出た。【先生】はみんな の後ろ、呼ばれて前へ出た二期生の対面の窓際に置かれた大ど一次選考に引っかかったことが一度あるだけでそれでもあ きらめずに書き続けようとは思うのですが きな木の椅子に座っていた。 「どうでしようかね」 「好きな映画は」 と逆に一期生に質問して、これにもみんなは笑い、ケイち と野添さんに聞かれて聞いたこともない映画のタイトルを ゃんはとにかく大学の頃から【先生】に憧れており、一度就 こたえていたのはけいこで、けいこは公務員をしながら映画

5. 新潮 2016年7月号

「もういい」 劇の途中で【先生】が突然立ち上がり、止めた。 「何だこれは」 全員がそのときのそのままのかたちで止まってかたまっ 「これの何を君たちはおもしろいと思ったの」 野添さんと田中さんが名指しされてそういわれた。二人は 一期生の脚本家志望でこの出しものの作者であり演出家だっ ( 0 「ここでの生活をー 田中さんがしゃべりだした。田中さんも野添さんも正座 「ひとつの家族の話に見立てて」 ストープの中で薪がはぜた。 「見立てて ? 」 「見立てて、おめでたい場なので、喜劇にしようと」 「喜劇なの ? 」 【先生】がいった。 「はい」 野添さんと田中さんが同時に小さく返事をした。 「なら笑わせてくれよ ! 」 【先生】がいった。 「何ひとつおかしくないよ」 「むしろ不愉快だよー 「君たちはものを作っていこうと思ってる人たちなんだろ ? プロを目指している人たちなんだろ ? 」 「それがこれか」 「ぼくは恥ずかしいよ。今日はお客さんもみえてるんだよ」 お客さんといわれている人たちが七人いた。若くない男が 四人、女が三人。誰かは知らない。紹介されていたような気 がするけどおぼえてない。七人はまったく無表情だった。 【先生】に賛同している様子もなく、かといって叱られてい る一期生たちに同情するような気配もない。 「飲み会の余興だからってつまらないものを人に見せるんじ ゃないよ」 「君たちはぼくのいうことの何をこの一年間聞いてきたんだ 「何にもわかってないね」 出演していた女の人が二人泣いていた。一期生の俳優志望 の西原さんと矢野さんだった。 「君たちの一年は無駄だったのか ! 」 【先生】はそのまま帰ってしまう勢いだったけどさすがにぼ くたち二期生のための式だと思い直したのかその後の飲み会 に残った。しかしさっきのあとだ。盛り上がるはずもなく、 盛り上げられるはずもなく、静かに黙ってみんなが用意され た軽食をつまんだり、山のようにどこからか差し人れられた 酒を少しずつ口にしていると、スタッフの佐伯さんがすごい 勢いで酒を飲んでいて ん し 「俺、歌う ! 」 と一升瓶片手に立ち上がり一段高いところに躍り出た。そ

6. 新潮 2016年7月号

峯野の体の下にできた血溜りを踏まないように気をつけな がら、ポケットを弄ってレンタカーのキーを捜し、ズボンの うしろポケットから取り出して、これもカウンターの上に置 いた。 峯野が絶命したかどうか分からないが、体にはまだ生あた たかさが残っていた。 次に、三杯目のアクアヴィットを飲み干した梶に、スツー ルをプルーシートが敷かれてないスペースに移すよう促し、 二人でその作業を終えたのちシートを剥がして、峯野の体を 床の中央まで引き摺って行く。 「何やろ、これ」 と梶が峯野の上着の左ポケットを押さえて、つぶやくよう に言った。 「固いもんが人っとる」 梶はポケットから黒い棒状のものを取り出した。 「何やこれ、炭ゃないか」 「見せて」 トヨ子が手を差し出した。 「備長炭ゃね。何でこんなもん持っとるんやろ」 と言って、また峯野のポケットに戻した。 くる 二人は、峯野の体をシートで周りから包み込むように梱包 して、ガムテープで止めた。 梶は、興奮冷め遣らぬ状態で飲んだアクアヴィットの酔い まさぐ が回り始めて、トヨ子に何を指図されても唯々諾々として従 った。 彼女は店を出て、フォルクスワーゲンを店のドアの前まで バックで移動させ、シートで包んだ峯野の体を車のトランク に運び入れようとしたが、二人で頭の側と足の側から同時に 持ち上げても、八十キロを越す重量では地面から十センチ程 度持ち上がるだけで、積み込むのは到底無理であることが分 かった。すると、車の背後の闇から、サングラスを掛けた男 が突然現れ、二人に包みの両端を持たせ、自分は胴体部分を 両手で抱え込んで、三人で呼吸を合わせてひと息にトランク に運び人れることに成功したが、梶にはこの男が何者かまる で見当がっかなかった。 トヨ子は店に戻り、ハンドバッグとビデオカメラを持って 出て、店に鍵を掛けないで、梶を促し、ワーゲンに乗り込ん 。こ 0 紙谷の指示通り加太海岸に向かうのだが、発車して五分も たってから梶が、 「誰や、あの男 ? 」 と訊いた。 「通りすがりの人が手伝ってくれたんやないの」 とトヨ子が答えると、梶は返事をしなかったが、不審に思 っているようすではなかった。 フォルクスワーゲンは寝静まった市内を西に向かって走り かだ 238

7. 新潮 2016年7月号

さっき「悟」の字のついたリュックサックを背負っていた て、肉を骨から切り剥がしている。その様子をじっと見つめ 青年のことをふと思い出した。あれは褝ではない。孫悟空の る女性は目尻に深い皺の刻まれた真っ白な肌をしていて、頬 「悟」に違いない。孫悟空のファンクラブの会員なのだ。で の部分だけがかすかに桃色に染まっている。男はまだ二十代 も、あんなリュックサックを背負った少年が、マンガばかり だろう。上着を着ていないので、きっそうなワイシャツを通 読んでいるというだけの理由で、将来決して悟りの境地に至 して胸や腕の筋肉が盛り上がって見える。共通点が全くない らないと言い切れるだろうか。 二人が車椅子のおかげで一生離れることのない夫婦のように 建物の外壁に「サラダはまずかった」という落書きがあ見えるから不思議だ。車輪の徴妙な鋭角はまわりの人を安易 る。観光客の感想としては平凡だが、これだけ切り離して眺 に受け人れない。わたしだって、隣に立ってみても仲間人り めてみるとちょっと面白い。 はできないだろう。二人は二人だけの居間を町中につくりあ 「七つの願い」という名前の店があった。小さくて可愛くて げて、くつろいでいる。車椅子があるので、絨毯もソファー 役に立たない物ばかり売っている店。七つの願いをかなえて もいらない。テレビもない。コックが仕事しているところを やると言われたら、わたしはどんなことを願うだろう。毎晩ずっと見学できるなんて、どんな映画より面白そうだ。 死んだように深く眠れること、地上から軍隊が消えてなくな 手縫いの本皮製品がぎっしり並んだ店がある。財布、ハン ること、春みたいな顔を手に人れること、動物たちが人間の ドバッグ、手袋、ショルダーバッグ。おいしそう、と思わず せいで苦しむことがなくなること、一生一一一一口語的興奮に見放さ 声をあげたくなるような皮が波打っている。なめす、なめて れないこと、今飢えている人たちがすぐに食べ物を得るこ る、皮をなめてみたい。皮切り鋏のじよきじよきと気持ちの と、家族や友人たちが鬱病にかからないこと、東京を大震災 いい音が聞こえてくる。皮を縫う太い針のきゅるきゅるとい が襲わないこと。いつの間にか七を過ぎてしまった。あの人 う音も聞こえてくる。こんなにたくさん鞄を並べなくても鞄 と結婚すること、という願いが人っていない。どうやらわた 屋だということは一目瞭然なのに、やりすぎじゃないかな。 しはそれを望んではいないらしい。 値札は小さくて、恥ずかしそうに顔を伏せている。一枚め 細い道が枝分かれしている。そこに仲良く車椅子を並べ くると三百ューロだった。もう一枚めくると、二百五十ュー て、半地下を覗き見している二人。一人は白髪の痩せた女 ロだった。まあ予想通りの値段。ところが鞄の間になぜか缶 性、もう一人はエスプレッソ色の肌の若い男性。こっそり斜に人ったオリープ油が並んでいるコーナーがある。文庫本く め後ろから近づいていって見ると、半地下にはレストランの らいの一番小さい缶は四ューロだった。ちょうど買いたいと 調理場があって、白い帽子のコックが包丁を器用に動かし 思っていたのだ。昨日もおとといも町のどこかでオリープ油

8. 新潮 2016年7月号

ない。たとえばこのポスター 。タジキスタン喫茶でお茶はい味が比較的軽いのではないかという偏見に晒される。アメリ かが、と誘っている。中近東風の赤い絨毯を敷き詰めた部屋 カ人なら、そんな心配などしないで気軽に被るのだろう。た に赤いクッションを並べ、阿片窟にでも来たみたいな夢酔顔とえどこかの野球チームのロゴマークが付いていても、気に でお茶を飲んでいる美男の写真。 せずに被って美術館にだって人るのだろう。彼の場合は正面 に星のマークがついている。よく見ると星には六つ角があっ なんとなく面白そうだからというだけの理由でタジキスタ た。そんなロゴマークの野球チームがあるんだろうか。ピン ン喫茶につきあってくれそうな友達がわたしには少なくとも ク色のスニーカーにショート。ハンツ姿の女性が追いついてき 三人はいる。一人は普段あまり耳にしない国の名前を耳にし て、二人は表札の前で観光案内の本をめくりながら話をして ただけで目が輝き始める。二人目は小学生のようにわたしと いる。二人が立ち去ったあとで表札を見ると、「イスラエ 腕を組んで予想もっかない場所にでかけ、目的地に着くま ル・シナゴーグ・ゲマインデ」と書いてある。遠くからは読 で、一体どんな場所なのかあれこれ想像しながらおしゃべり めないくらい字が小さい。ひかえめな看板だ。イスラエルと するのが好き。三人目は、後で母親に話して驚かせるネタに聞いた途端に、それまで全く網膜にひっかからなかった警備 なるような体験をいつも探している。この三人のうち一人を 員二人が急に視界に浮かびあがってきたから不思議だ。イス 誘えるなら、タジキスタン喫茶に行くことができたのに。で ラエル関係の建物の前には必ず警備員がいる。 もベルリンで暮らすのにふさわしいこの三人はベルリンには 隣の窓には六つ角のあるダビデの星のシールがたくさん貼 住んでいない。ベルリンに最もふさわしくないあの人がベル ってあるからやつばりイスラエル関係の店なのだろうけれど リンに住んでいる。 も、張りつめた雰囲気は全くない。星は色取り取りで幼稚園 あの人がタジキスタン喫茶に行きたくなるその時まで待っ みたいで、外には聞いたこともないような食べ物の名前を並 ていたら、一生行かないまま終ってしまうかもしれない。ど べた手書きの看板が出ている。戸を開けたとたん、乾物屋と うしてもタジキスタンに行きたいわけじゃない。「タジキ」 メルヘン喫茶がいっしょになったような空間に吸い込まれ という響きの中から立ちのぼる何かを自分の目で確かめてみ た。コーシャのごま。ヘーストの瓶が並び、コーシャの袋詰め たいだけだ。 のクッキー、イスラエルの国旗などが押し合いへし合い助け 野球帽を被って、旅行ガイドを片手にもたもた歩いている 合い店を埋め尽くしている。クラッカーのお化けみたいなコ 三十代半ばの男はアメリカから来た旅行者に違いない。ドイ ーシャの乾燥。ハンの箱が床から塔のように積み上げてある。 ツには野球はないし、大人が野球帽を被っていたら、頭の中天井にさがったモビールには色紙でつくったダビデの星がい

9. 新潮 2016年7月号

もっと他に何か書いた気がするけど忘れた。返事が来た。 できたっていわれたら腹立つけど。 元気です。ほめられてんねやすごいね。わたしは今、服屋さ 何で。ぼくに彼女ができると何で天の腹が立つ。天とはと んの工場で働いてるねん。飲み屋で知り合った人の紹介やね くに付き合っているというわけではなく、だいたい付き合う んけど、仕事がきつくて大変。でも働いてる人はおばちゃん ということの意味がぼくはよくわからず、でも腹が立っとい ばっかりですごく親切にしてくれる。手紙書こう書こうと思 うことはそういうことで、そういうことというのはぼくと天 ってたら葉書が来てうれしかった。今度はわたしから出すは付き合っていたと天が思っている、思っていた、というこ ね。彼女とかできた ? とで、だけど天とぼくはセックスとかもしていない。けいこ ともセックスとかしてない。だいたいぼくはセックスなんか けいこが彼女だとみんなは思っていた。確かによく二人で 二回しかしたことがない。一度はそういう店の人で、一度 話すし、それは年が同じだということが一番大きな理由で、 は、誰だっけ。誰かとしたことは確かだ。誰かと、確か、し もちろん話が合ったからよく話すようになったのだけど、で た。誰だっけ。 もそれはほんとうにたまにで、車の中で話したりできたけ またね。ばいばい ど、それもしよっちゅうだと変なので、変だといったのはミ 一フンダさんで、二人で車の中で話して空き家へ戻ったとき 「何あんたたち」 けいこが降りてきた。ぼくはサイロ棟の一階のリビングに いた。 とミランダさんはいい 「若い男女が夜遅くに車の中で二人っきりだなんてちょっと 食堂棟が出来て、風呂も【谷】で人れるようになって、サ あれじゃない ? 変じゃない ? 」 イロ棟も夏の少し前に出来た。サイロ棟は丸太ではなくツー といったからで、だからそんなことはほんとうにたまにし バイフォー建築という工法で建てられたから一期生にいわせ かなくて、なのにけいこは彼女だということになっていて、 るとものすごく早くできたそうだ。ツーヾ ノイフォーの意味は 仲が悪いわけでもなく、むしろ良かったし、だから強く否定よくわかっていない。とにかく板で。ハネルを作ってそれを組せ するのも変だし、否定する理由もとくになかったので、それ み立ててサイロ棟は作られた。作った。すべての棟梁はスタし はたぶんけいこも、だからそういうことになっていて ッフの和田さんだったから建築の仕事をしはじめてようやく

10. 新潮 2016年7月号

に転がり落すことができた。 「どないしたん ? 」 「石みたいに重いな」 シートに体を沈めながら梶が言った。 梶がぼやいた。 「しいっ ! 」 懐中電灯を小脇に挟んだトヨ子は、 先程のべンツがゆっくりと通り過ぎて行った。 「早う、こっち持って」 「もう着いたんか」 と促し、二人して峯野の足首の関節を掴んで、防潮堤へと トヨ子は答えず、べンツが後方の二つのカーヴを曲って見 えなくなるまで待つ。 : : : 何やのん、あのべンツ、まるで巡土の地面を引き摺って行く。地面には、シートを引き摺った 回中の。ハトカーみたいやないの、とつぶやいてエンジンを掛痕が残った。 防潮堤にたどり着くと、シートを解きにかかる。トヨ子 け、車を道路に出して発進する。三つ四つと岬を巡る急カー は、しきりに左右の道路の先に視線をやった。さっきのべン ヴを慎重に通過して、やがて灯台への上り階段から五十メー ツがまた回って来るような気がしたからだ。 トルほど離れた道の路肩に停止した。 シートから出した遺体を堤防の根方に置く。なぜか峯野の 「着いたわ」 左目が開いていた。トヨ子は指先でそれを閉じてやる。堤防 とトヨ子は言って、ハンドルに胸をもたせかけた。 の下から磯に打ち寄せる波音が高まった。 梶は、ポケットからタバコとジッポーを取り出した。 「海へ落さんでええんか。こんなとこへ置いといたら、すぐ 「タバコなんか吸うてる暇ないよ」 に見つかってまうで」 梶は慌ててタバコとジッポーをしまう。 「ええのんよ、ここで。シート、たたむの手伝って」 二人は車から降りた。停車位置から防潮堤までの距離は一一 彼女は一方の端を梶に持たせて、二度、三度、往ったり来 十メートルほどだ。防潮堤は粗いコンクリート製で、陸側に すそみち たりして、広げたシートを折り返す。シートから生きていた 付けられた二メートル幅の裾道も同じコンクリートで舗装さ 時の峯野の体臭が立ち昇った。 れているが、道路と裾道までの間は柔らかそうな土だから、 二人は、防潮堤から、後ろ向きになって足跡を消しながら 車を乗り人れることはできない。 トヨ子はトランクを開けた。プル 1 シートにくるんだ遺体車まで戻る。 トヨ子は、たたんだシートを用意のセメント袋に人れ、 の頭のほうを梶が、足のほうをトヨ子が持って、何とか地面 24 イ