だけが褒められて自分は叱られたからだ。それが理由ではな 部屋に戻るとタチさんもカッさんも寝ていた。べッドに人 いかもしれない。それを理由とするぼくのそういう神経が触った。戸の隙間からリビングのあかりがもれていた。けいこ ったのかもしれない。 がトイレから出て来た。けいこはしばらくリビングにいるら サイロ棟が出来て、ようやくぼくたちは【谷】に住めるこ しく、あかりは消えない。目を閉じてしばらくすると寝息が とになった。サイロ棟ではタチさんとカッさんと三人部屋に聞こえてきた。カッさんかタチさんのかと思ったけど寝息は なった。一階の階段の下の部屋だった。一階にはもう一つ部とても近い。ぼくのだった。ぼくの寝息が聞こえていた。ぼ 屋があって、それは二人部屋で、マーコさんとミュキさんが くはぼくの寝息を聞いていた。 いて、リビングがあって、流しがあって、玄関の脇に汲み取 足元に誰かいた。けいこかもしれない。だけどけいこがそ り式の便所があり、リビングの真ん中には薪ストープがあっ んな風に男の部屋に人ってきたりはしない。誰だろう。見て た。二階には五部屋あり、一つはゲストルーム、一つはリビ やろうとするがからだが動かない。首も手も足もびくりとも ング、三つの二人部屋には、ミランダさんとまさこちゃん、 動かない。目だけは動かせたから目玉をなるだけ足の方へ向 ケイちゃんとけいこ、ジマさんとべンさんが人った。 けた。黒い服が見えた。男だった。顔はよく見えなかった。 「まだ起きてたんだ」 けいこがあかりを消して上へあがって行くのがわかった。男 けいこがいった。 はまだいた。ぼんやりと下から顔が見えたような気がした。 「手紙 ? 」 鼻の下の右に小さな傷が見えた。ぼくにもある。小さな昔の 天からの葉書が手にあった。 傷だ。男は何となくぼくの顔のあたりへ目を向けていた。な 「うん」 のに顔がよく見えない。男はぼくを、探していた。間違いな 「友だち ? 」 い。男はぼくを探している。しかし、男はここにはいなかっ 「うん」 た。そこにいるけど、ここにいない。男はここではないそこ 「地元に残してきた彼女とか ? 」 で、ここにいるぼくを探していた。そう思ったとたん男が消 けいこは笑っている。 えてぼくの意識が飛んだ。意識が飛んだから男が消えたのか 「いや」 もしれない。 「ふうん」 けいこはトイレヘ人って行った。何だ。今の「ふうんーは 馬が来た。やっと来た。白い大きな馬がまず最初に来た。 何だ。寝よう。 ソレイユという名前の馬だった。フランス語で 27 しんせかい
どういうことだろう。どうしてサイロ棟がないのだろう。 所にいたすべての人たちの全部が遠い。遠くて、薄い。いず れこの【谷】もそうなる。 せつかく建てたのにどうしてないのだろう。 スタンドを消した。からだの右に窓があり、カーテンを開 視界が下がった。草しか見えない。それは夏の草じゃな けると少し離れて馬小屋が見えた。月は出ていないが、雪の い、勢いのなくなった、しかしまだ緑色を保つ、雪が降る前 白でぼんやりとそれは見えた。カーテンを閉じて、布団を口 の草だ。ぼくはそれを見ている。 のあたりまで引っ張り上げる。今晩もとても冷えている。目 そうか を閉じる。寝息が聞こえて来た。自分のだ。 このあたりにぼくはいるのか あれがまた来た。前と同じだ。男だ。黒い服の、大きな男 だ。男は前と同じように、ぼくを探していた。ぼくがここに ぼくが寝ているあたりをぼくは見ているのか いることを男は知っている。ぼくがここにいることを知っ 男の目で、ぼくは、それを、見ているのか て、男は、そこに、いた。 馬小屋にはソレイユもノーザンもまこともいない。ノーザ 男が何かささやいた。 ンがいつもかじっている馬房の木の柵はそのままにあったけ どかじるノーザンはいない。馬小屋の前に立ち、食堂棟の方 しかし何といっているのか聞き取れない。自分の寝息が邪 へ目が向いた。知らない建物が二つ見えた。この角度なら見 魔をしている。 えるはずの馬場がない。あれだけ苦労して作った、馬場が、 ない。 ぼくの目の前に広がっていたのは山だった。それは【谷】 空は曇って、白い。からすが鳴いている。からすは同じ のサイロ棟の裏側に位置する、毎日見ている、ノーザンで人だ。 駐車場のほうへ歩いている、らしい。左に食堂棟が近づい って行った、見慣れた、山だった。しかしおかしい。この角 て来た。人の気配がない。誰もいない。煙突から煙も出てい 度からこの山は見えないはずだ。ぼくはぼくの寝ている部屋 のあたりにいる、らしいのだ。だとしたら山が見えるのはお ない。宿舎棟が見えた。稽古場が見えた。どこにも人がいな かしい。ここから山が見えてしまったら、サイロ棟がないと い。大の鳴き声も、しない。稽古場の前には山のように紙ゴ いうことになる。 ミが積まれていた。あのまだ真新しい、建てられてから一年 も経たない、大きな丸太で作られた稽古場はすすけて黒く、 サイロ棟がない。
は身体中の力が抜けるのを感じた。芸能人 の裏話を求められたことで、女の恋の望み 潮虚像論ー女子アナの口説き方 は完全に絶たれた。女はふうと深呼吸し、 ふんっと気合で身体中にオーラを発光さ せ、女子アナ久保田智子となって対応を始 めたのだった。そして、いまあなたは女子 久保田智子 アナの彼女をゲットするチャンスを完全に 逃したのよと、心の中で冷たくつぶやいた。 タイ国際航空 640 便はバンコクを離陸向井理似の子大のような目をした男だっ た。女は寝起きとは思えない俊敏さで表情アナウンサーになって年、これまで先 し定刻通りに東京への飛行を続けていた。 女は久しぶりの休日で遊び疲れたのか、飛を緩める。「気にしないでくださいい」猫輩、後輩から数多くの恋愛相談を受けてき 行機が空へと飛び立ち地上の重力から解放なで声で答えながら、偶発的な出会いは恋ました。私自身も、女子アナであるがため される感覚を体で味わいながら、心地よいに発展しやすいはずと、女の鼓動は高鳴っに恋愛に苦労した一人です。男性はなぜ女 夢の中へと落ちていった。ところが、急にた。「タイへはなぜ ? 」男の当たり障りの子アナの扱い方がこうも下手なのでしょ ない問いかけに、女は男が自分を知らないう。私なら、女子アナを 100 パーセント 女の耳元に「ああ」と悲痛の叫びが響く。 落とす自信があります。方程式にすると信 重い瞼を開けると、隣に座った男が、前からしいことを確認してまずは安堵した。 がみで女の足元に覆いかぶさっていた。「僕は仕事で」男が自己紹介を始めたのを頼 + 殺し文句Ⅱ失敗なしです。例えば、タ 「すみません」座席の前の小さなトレイの聞きながら、今度こそ理想の男性に出会っイプ①「アイドル女子アナ」の場合。好き 上では紙コップが倒れ、お茶が滴っていたのかもしれないと女の期待は膨らむ。とな女子アナや嫌いな女子アナランキングで る。冷たく濡れた足の感覚に、弛緩していころが次の瞬間「仕事は何をしているので上位に人る注目度の高い女子アナです。言 すか」との恐れていた質問に、女の顔は強い寄る男性が多いため、初めから押しては た女の全神経は一気にオンモードになり、 行き場のない怒りがふつふっとこみ上げて張った。「私は : : : アナウンサ 1 です」おダメ。お姫様扱いにはなれているので、む きた。女は相手を懲らしめようと必要以上そるおそる答えると、男の目がらんらんとしろけなすくらいの上から目線が効果あり に困った表情をつくって男を睨みつけた。輝きだした。「えー、本当ですか ! 女はます。ひどく気を悪くしますが、その後タ 焦る男。視線が重なり、 2 人は見つめあ祈るように次の言葉を待つ。「あの、みのイミングを図って褒めることで距離は縮ま 、仕事の相談など自分の弱い部分を見せ う。すると、女の鋭い眼光が捉えたのは、 もんたさんって本当に酒歛みですか ? 」女 784
赤みを帯びた肌色の背中から柔らかい曲線がゆるやかに流 れ、尻のところで急に直角に曲がる。鋭く落ちていく腰を下 から受け止めているのが、純白の光沢がある雪肌で、褐色が まさった男のからだの尖端が、薄桃色に色づく女の肉ひだの なかに沈んでいる。 女のふくよかな脚は大きく開き、男のふくらはぎにからみ ついて、足の指がすべて痙攣気味に内側に曲げられている。 腹部に残る赤い腰巻きが肌の色と鮮やかなコントラストをな し、まさに昇りつめてゆく瞬間なのか、女は両手を男の首と ◆連載第十五回 ペインレス 天童荒太 298
「カネ遣い込んだんも峯野を殺したんもあの男ゃないか。い浮かび出て、防波堤のほうへ漂流し始めている。 紙谷とトヨ子が、桟橋の上で激しい言葉の応酬を繰り広げ まさら生きててどうしようもないで」 、あの人ひとりゃない。殺したんは る間、梶は、昇ったばかりの陽光が降り注ぐ中、ポートの船 「峯野を殺したんは : 、わたしらよ」 底に寝転って、鼾をかいて眠っていた。 彼は、忘帰洞の湯に浸っている夢を見ていた。打ち寄せる 「何言うとんね。峯野を殺したんはあの男やろ」 「いいや、わたしらよ。わたしとあんたと梶さんが殺したん波が洞窟内にこだまし、天井から水滴がしたたり落ちるなか よ。わたしらなんよ」 で、彼は水平線をみつめている。誰かを待っているのだが、 その誰かはいつまでたっても現れない : 「寝呆けたこと言うなや。・ : ・ : 何や、おまえ、後悔しとんの ポートの舳先に一羽の背黒カモメが止まり、ひと声鋭く鳴 か。峯野は殺されて当然や。たとえおまえの言うとおり、わ いたところで梶は目を覚まし、起き上がってしばらく船内を たしらやとしても、それが一体どないしたゆうねん」 「後悔はしてへん。そやけど、あの男にも父親と母親がい見回した。 斜めから落ちて来る陽光と、海面に反射して散乱する光の て、ひょっとしたら男きようだい女きようだいもいて、生ま 洪水に包まれて、梶はまぶしそうに目を細めた。 れた土地があったやろ。わたしら、あの男が抱えてたもん、 「何や、ここがフダラクか : : : 」 丸ごと消してしもうたんや」 はてなし 梶は法悦に浸って、恍惚の表情を浮かべた。 「あいつの親爺、果無の炭焼き言うとったな」 「ナンマイダ、ナンマイダ」 そういえば、備長炭のかけらが峯野の上着のポケットに人 っていた : 思わず瞑目して、手を合わせる。 トヨ子の目の色が深くなった。 「おい、ポートが流されとるぞ ! 」 作中に登場する深見組、金指組は共に架空の存在です。 紙谷が大声を上げた。 日が昇ってから風が強まり、潮が引き始めていた。おまけ にトヨ子のもやい結びが甘かったせいで、ロープが解け、ポ ートは潮と風に運ばれて少しずつ桟橋から離れて行き、湾に »—•<< O 出 16 0 6 2 0 7 ー 6 01 ( 完 ) 254
天は別れ際に 「立川です」 「じゃあまあ元気で」 立川さんだった。 といい 「二十四歳、俳優志望です」 船が動き出した。いやまだ動いていない。 「手紙書くわ」 「返事ちょうだいよ」 次の日の朝、ひとつも揺れずに港に着いた。荷物をまとめ 「元気でね」 て川島さんが乗って来ていた車、川島さんは車で来ていた、 と握手をしてきた。天の目に涙が浮かんでいた。何だかと てもひどいことをしているような気がしてきた。 に乗って下船し港を出ると、あたりの何もかもが薄汚くて驚 いた。春とはいえまだ冬のように寒いから緑はまだ一切な 「ばいばい」 く、とけた雪は泥とまじり、走る車のどれもがその泥水をか 天が歩いて行くその先に駅がある。呼び止めるべきだ。呼 ぶっているから汚れて茶色い。 び止めてもうしばらく一緒にいるべきだ。だいたい天とはま 車の中ではほとんど寝ていた。船の中でもほとんど寝てい だ何もしていない。何もというのはセックスとかそういうこ た。川島さんは何度も車を停めて地図を見た。その都度ハザ とだ。それは、何というか、大変に、何というか、心残り ードの音で目がさめた。目がさめるたびに見ていた夢を思い だ。心残りな気が、する。歩いて行く天の向こうからへッド 出そうとするのだけど思い出せなかった。次こそはと思いな ホンをはめた黒人の男が歩いて来た。男はものすごく大き がらまた寝て夢を見て車が停まって目がさめて見ていた夢を い。赤いシャツに緑のズボンをはいてガムをかんでいた。リ 思い出そうとするが思い出せなかった。夢を見ていた感触だ ズムをとっているのかひらひらと動かしている手のひらがい やに白い。男と目があった。男が笑った。歯が真っ白だ。駅けが残った。 音楽が聞こえてきた。カーステレオから聞こえていた。か にもう天はいなかった。何度か電話をかけようとした。だけ どかけなかった。かけるべきだった。どうしてかけなかった らだを起こすと車は山の中を走っていた。対向車もうしろか のか。かけてもっとちゃんと話すべきだった。ちゃんと何ら来る車もいない。川島さんはこれまでと様子が違った。は しゃいでいるようにも見えるが肩のあたりが険しい。二人に を。話すことは話した。そうじゃない内容じゃない。なら 何かあったのかもしれない。車の走る先の上に青い看板が見せ 何。それがわからなくてかけなかった。 えた。耳でしか聞いたことのなかった土地の名前が書かれてし 「こんばんは」 いた。その土地に、目的地はある。目的地にはその土地の名 ぼくと川島さんの前に満面の笑みの若い男が立っていた。
ったものはぜんぶ置いていきます。トランク一つに身の回り 業者がおおっぴらに出人りしているのが、隣り近所の人たち のものを詰めれば、それでいつでも出られます。 の目についているはずだ。馮さんは財産の処分や登記の書き それにしても、あなたがいなくなるとこの家はどうなるん換えも始めている。馮篤生がついに動くーーそういう噂を ですかね、と他人事ながら心配になって芹沢は尋ねた。 聞けば、姪であるあなたも一緒に、という可能性は誰でも考 シャオ・ヤンビン さあねえ。蕭がこの家の管理を任せている不動産屋がいる えるでしよう。蕭炎彬のような男は、たとえ上海から遠く というのは、いつだか話したわね。その男が何とか考えるで離れていようと、この町に細かな情報網を張りめぐらせてい ないわけがないし : しようよ。まあ、どうでも良いんじゃない ? もうここには 実は、金目のものなんかほとんどないの。大仰に飾られてい さあ、どうなのかな、と美雨は首をかしげた。実のとこ る書画骨董のたぐいなんか、見掛け倒しの安物ばっかり。 ろ、蕭はもうこの公邸のことなんか眼中になくなっているん あなたがこの家を出るということは、その男にはもう伝え じゃないかしら。もちろん、あたしのことを含めて。 たのですか。 へえ : : : そうですかね。 ヤオ・リーシン まだ何も言っていません。何か言えばきっとすぐ蕭に伝わ あの男が愛麦虞限路に家をもう一軒構えて、姚儷杏を住ま シャオ る。すると、蕭がどう反応するかわからない。蕭に忠実な連わせているのはご存じでしよう。 中は、まだ上海にも沢山いるし。 知っています、と芹沢は感情の籠もらない平坦な声を出す そういう連中がここに乗りこんできて、カずくであなたを べく努めながら言った。姚儷杏は蕭炎彬の第四夫人である。 引き留めにかかりますか。 もし上海に戻るとしたら、今度はいっそもうそっちに住み さあ、どうでしよう : ともかく不動産屋にはぎりぎり 着く気持でいるんじゃないかしら。それとも、さらにもう一 まで何も言わないつもり。最後の最後にひとこと電報でも送軒、別に構えるつもりかも。だって今はまた別の、新しい女 っておいてやればいいわ。真っ青になるかもしれないわね。 と一緒にいるんだから。第一夫人、第二夫人に続いてあたし わたしがいなくなれば、この家に関するすべての責任が彼の まで蕭を見棄てて出てゆくというのは、彼にしてみれば実 肩にかかってくるわけだから。この町での蕭の影響力が衰え は、体の良い厄介払いかもしれないのよ。そりゃあ好都合な はじめているとはいえ、それでもまだあいつ、蕭のことが怖ことでしようよ、手切れ金を一元も払わずに別れられるんで いはずだし。 すもの。 シャオ もう蕭に何かが伝わっている可能性はないのですか。馮さ はあ : : : そういうものですか。 んの家の引っ越し作業は本格化しています。彼の家に複数の そういう男なのよ。 シャオ シャオ シャオ フェン シャオ フェン・ドウシェン ヤオ・リーシンシャオ・ヤンビン フェン メイユイ
「無理やん」 真面目な顔で天はそういった。 「プルースリーとか高倉健はプルースリーや高倉健や。みた いにはなれてもそのものにはなられへんやん。山下くん」 「うん」 「しつかりして 船のエンジンが調子を変えた。目をあけると赤い鉢巻をし た男がいた。男は笑っていた。鉢巻は・ハンダナだった。 「かわじまです二十八です俳優志望ですー 男はいった。 「かわしま、じゃなくて、かわじま。二十八。老けてるけ あわててからだを起こしてあいさつをした。 「やました」 「はい」 「すみとくん」 「はい」 川島さんは頭と、右の二の腕のところと、左のふとももに ハンダナを巻いていた。腕は青、ふとももはピンクだった。 人が増えていた。 「みんなトラックの運転手」 月島さんがいった。 「わしも転がしとったんよ長い間 「だからこんなに顔が老けてしもて」 「そんな顔で俳優なんかできるかよおてみんなにいわれた。 ど」 でも受けたら受かった」 「受かった理由はわかっちよる。おっきいトラック転がせる から」 「ほら、当分は家建てたり、そのためにもの運んだりが主で しよ、あっちは」 試験を受け、合格しましたとの知らせが届き、その時一緒 に送られて来たプリントにもそう書かれていた。これから向 かう場所は、俳優や脚本家になりたい人間の集まる場ではあ るのだけど、教室でただ座ってものを教わるというのではな く、一一年間共同生活をしながら自分たちで自分たちの住む場 所を作ったり、雪のない時期は農家に出て働いたり、馬の世 話をしたりしながら俳優なり脚本家なりの勉強をするとい う、大きなトラックが動かせるのはいい、助かる、便利だ、 といわれてもおかしくはない、行ってみなければどんなとこ ろなのかまったくわからないそんな場所だった。 「何してた。学生 ? 」 「や。倉庫で」 「そうこで」 「荷物運び」 「あ、倉庫ね」 「はい」 「運動やってた ? 」 「はい空手ー 「なら体力はある」 川島さんは笑った。
屋に全員集まってちょっとした飲み会が行われた。その中で から女の人が二人出て来た。ぼくたちより少し前に着いてい たらしい。 誰かがそれぞれを何て呼ぼうかといい出し、それはそうだと なり、突然それぞれお互い何と呼び合うかの会議となった。 「千葉です十九です俳優志望です」 「そんなものだいたい自然に決まって来るものじゃないのか」 「原口です二十四です脚本家志望です」 というもっともな意見はもちろん出た。真田さんだった。だ 二人は作業服のようなものを着て出る準備をしていたよう けどそれももう始まってしまった会議の中のひとつの意見と で、ぼくたちも持ってきていた真新しい作業服に着替えて、 して取り人れられてしまった。誰かに決められたわけでもな 再び【谷】へ戻り作業へ加わった。 く自発的にノートを取り出して書記を始めた原口さんが上手 させられたのは、建てられている最中のここで最も大きな な字でそれを書くのが見えた。 丸太小屋、それは食堂棟と呼ばれていた、の足元に積み重な って層となった、冬の間雪に押し固められて凍った丸太や材 そんなものだいたい自然に決まって来るものじゃないのか・ の削り屑をツルハシで叩き割り崩してスコップですくい青や 緑や黄色の肥料袋に詰めて一輪車で一箇所に集めるというも真田 ので、そこには今日から加わったぼくたち五人の他にここで 最終的にこうなった。 同期生となる人が四人いた。男が二人、女が二人。男が真田 川島さんはジマさん。俳優志望。自分でそうしてくれとい さんと遠藤さん。女が佐々本さんと相田さん。 った。これでいちいち「か、わ、じ、ま」と訂正しなくて済 からすが鳴いた。顔を上げると緑のまだない山に残る雪の む。 間の木のあちこちにたくさんのからすがいた。だけど見えて 立川さんはタチ。昔からずっとそうだったらしくそれに。 いるからすは鳴いているようには見えない。鳴いていない。 俳優志望。 それでもからすの鳴くのは耳に届いた。 真田さんは、下の名前をカッジといったので「カツは ? 」 と誰かがいった。真田さんは嫌だといったけど結局、カツ。 次の日女の人が二人来た。前田さんと熊本さんだ。これで 俳優志望。 ここに住むことになる全員がそろった。男が川島さん、立川 遠藤さんは下の名前の勉の音読みでべン。脚本家志望。 さん、真田さん、遠藤さん、ぼく。女が千葉さん、原口さ 千葉さんは下の名前そのままでけいこ。ぼくと同じ年で俳 ん、佐々本さん、相田さん、前田さん、熊本さん。夜、男が 雑魚寝することになっているこの空き家でいちばん大きな部優志望。
ものかもしれない、にかかる小さな橋を渡るとひらけた谷底儀をした。 に出た。着いた。ここだ。【谷】だ。【谷】に着いた。川島さ んがエンジンを止めた。 稽古場と呼ばれる大きな丸太小屋の中にぼくたちはいた。 男の人は藤田さんといい、俳優志望でここのリーダーだっ 大の鳴き声が何箇所かから聞こえていた。それはあきらか た。とても良い声をしていた。稽古場には大きな薪ストープ に激しくこちらに向かって吠えているのが大の姿は見えない があって火がついていた。一階と二階があって、一階は広々 のにわかった。建物が四つ見えた。手前には野球のホームペ としていて、真ん中あたりに小さな段差があった。壁には大 ースを逆さにしたような屋根の、壁のすべてが板張りで茶色きな鏡が何枚も貼られていた。二階には二つ部屋があって、 い、窓枠の白い建物、管理棟と呼ばれているのだと後に知 一階の奥にも小部屋があり、小さな流しがついていて、テー る、と、そこから離れたところに三つの、建てられつらある プルと背もたれのない椅子が三つ置かれていた。ビデオテー ものも含めて三つの、丸太小屋が見えた。地面はどこもかし プの並んだ棚もあった。そこで藤田さんに出されたクリーム こもひどくぬかるんでいて人間の姿はなかった。ここにはこ シチューとご飯を食べた。その日の【谷】の昼ごはんの残り こで一年間暮らしている一期生がいるはずだった。しばらく だ。クリームシチューには人参しか人っていなかった。 三人で車の中にいた。川島さんがたばこに火をつけた。【谷】 「食べ終わったらまずは宿舎に行きます」 には相変わらず吠え続ける大の鳴き声だけが響いていた。 と藤田さんがいった。 人があらわれた。男の人だった。男の人は泥だらけの赤い この【谷】にはまだぼくたち新人り、二期生、の住む場所 ャッケを着ていた。サングラスをかけているから顔はわから がないことは来る前に聞いていた。しばらくは農家の空き家 ない。ひげをはやしているのはわかった。手に何か大きな棒に住むことは聞いていた。空き家は、車に乗って小学校の前 のようなものを持っていた。ただの棒じゃなかった。先が鉤まで戻り、来たのとは逆へ二分ほど走った、右へカープする 爪のようになっている。武器かもしれない。男の人はゆっく 道の左の脇にあった。玄関を上がると六人ほどは座れそうな りと車へ近づいて来ようとしたけど下が泥だらけだからなか テープルの置かれた台所があり、右に二つの部屋が見えた。 なか車の近くまで来れない。それでも一歩ずつ泥に足を突っ玄関の左の脇に小さな部屋がもう一つあった。便所は汲み取 込み、泥から足を抜いてを繰り返し、手の届く、棒はじゅう り式で外だ。電話も風呂もない。電話は【谷】にはある。風せ ぶんに届く、距離に来て、そして、棒の先についた鉤爪で車呂は【谷】にもないから【谷】の理事が経営する木材工場のし の窓を叩き割る、のではなく気をつけをしてぼくたちにお辞従業員用の風呂を三日に一度みんなで借りに行く。奥の部屋