しんせい - みる会図書館


検索対象: 旧約聖書物語
427件見つかりました。

1. 旧約聖書物語

461 です。「ヘブル人への手紙」もパウロが書いたという説がありますが、それはうたがわしいとされます。「ヤコブ ふくいんしょ の手紙」を書いた人はよくわかりません。それから、ペテロが書いたとされる「ペテロの手紙」、また、福音書を うらぎ おと第ノと 書いたヨハネか、かれにかんけいのある人かが書いたとされる「ヨハネの手紙」、キリストの弟ユダ ( 裏切りのユ ふめい った ダとは別人 ) が書いたと伝えられたりするが、ほんとうはだれが書いたか不明の「ユダの手紙」があります。また、 しんこうせいしん げんそう もくしろく ふくいんしょ 福音書のヨハネとはちがうヨハネが書いた、「ヨハネの黙示録」は、はけしい信仰の精神を、幻想のかたちで書い じんるい じゅうだいい しまさらいうまでもありません。 たものです。この新約聖書が、人類にとって重大な意味をもつものであるとは、、 旧約、新約について、わたしは、たいへんかんたんな解説をこころみましたが、もとより、このような偉大な せつめい テ・ラ・メア 書物は、わたしなどの筆でじゅうぶんに説明することができるようなものではありません。ただ、。 ものがたり こうき ものがたりやく ぶんがく の、文学の香気のたかい物語を訳したものとして、およばぬ力で、あとがきをつけたのにすぎません。この物語 を読まれた人びとの多くは、のちにじぶんでしつかり勉強されることがあるでしよう。 せいようぶんめい さい・こ やくそく 最後に、はじめ約東したことを思いだして、もうひとことを、つけくわえます。それは、西洋の文明をつくっ きゅうやくしんやくせいしん ーマの精神があるといったことについてでありま たふたつの柱として、この旧約・新約の精神と、ギリシア・ロ きゅうやくしんやくせいしん す。いまここで、もう一度ふりかえってみますと、この旧約・新約の精神とは、つづめていえば、はじめの楽園 にんげん ものがたり の物語にも見るように、人間というものは、あやまちをおかしやすい、つまり罪におちいりやすいものであって、 かみしん というこ解 それだからこそ、神を信じ、その愛にすがり、悔いあらためて、救いの道をもとめなければならない、 とでした。 せいしん こ これにたいして、ギリシア・ローマーーーとくにギリシア の精神といえば、これも思いきりつづめていえ熱 はったっ かんん にんげん ば、人間は、うまれてきたこの地上の生活を、ゆたかで完全なものとして発達させるということです。そのギリ しよもっ きゅうやくしんやく べつじん はしら しんやくせいしょ ふで せいかっ せつ ペんきよう かいせつ すく せいしん つみ だい らくえん

2. 旧約聖書物語

313 しん の神聖なところの幕のまえには、六つの枝がついたあかり立てがたっていたが、その七つのともしびの心をつん せいしょまく で油をみたすしごとは、サムエルにまかされていたのだった。聖所の幕のまえには、そなえもののパンをのせる だい だい 台と、香をたく台もおいてあった。サムエルは、ともしびが夜のあいだずっと消える恐れなしにもえつづけるよ うに、守っていた。 せいじよ 聖所の幕には、つばさのある天使のすがたが、むらさきとこい赤の糸でぬいとりされていて、その幕のむこう かみやくそく を、ちょう には「神の約束の箱」があった。これは、祭司が守っているものの中でも、いちばん神聖でいちばん貴重なもの てんし はこりようがわ だった。その上のほうには、金でできた天使が、箱の両側にひとりずつひざますき、つばさをひろけて、箱の上 がた にアーチ型をつくっていた。その顔は、聖所のやすらかさとしすかさの中で、たえずおたがいに見つめあってい しかし、いまでは、神殿に神をおがみにくるものは、ほとんどいなかった。この神殿の祭司たちさえ、ここを さいしちょう きん 見すてていた。それでもまだ、祭司長のエリは、むすこたちがおっとめをすることをまったく禁じたり、祭司の やくそく っとめから追うと人びとに約束したりすることは、さしひかえていた。かれはむすこたちを愛していて、心が弱 よげん かったからであった。かれは、いのったりいけにえをささげたりすることで、むすこたちを預言されたような恐 すく しん ろしいことや死から救えるものと信じていたが、かれらと顔をあわせなかった。かれらが後悔しておこないをあ らためるかもしれないという希望をもちながら、じぶんの心をだましていた。 だい せいじよ ある夜、サムエルは、あかり立ての金のともしびの台の手入れをして油をみたしてから、聖所の中のかれにあ = てられた小さな部屋で、眠るためによこになった。まだ若かったので、すぐ眠りにおちて、ゆめもみなかった。 くらじこ ~ 、 しかし、夜のいちばん暗い時刻に目がさめ、しずかなはっきりした声がじぶんの名をよふのを聞いた。 こ 0 あぶら しんせい こう へや まく ひと しんでんかみ ねむ きう てんし かお せいじよ わか かお あぶら ねむ しんでんさいし しんせい よわ

3. 旧約聖書物語

250 やくせいしょ かみしようげんはこ 「契約の箱」ともいわれる。日本訳の聖書では「あかしの箱」っまり神の証言の箱ということになっている。 そこに戒めをきざんだ石がはいることになっていたわけだった。 あぶら こだい こうゆ しんびてき しん よげんしゃ ( 4 ) 油をそそぐーー古代のこの地方の人は、オリープそのほかの香油には、神秘的な力があると信じていて、預言者とされる人や あたまあぶら しんせい 司とされる人には、その頭に油をそそいだ。それは、その人をとくべつに神聖なものとするという意味であった。そのことを「聖別」 するといっこ。 しゆっ くる ( 5 ) 岩から水が・ 「出エジプト記」にある。イスラエル人が、砂ばくでのどがかわいて苦しみ、そのためモーセに不平をいっ かみつ てさからったとき、モーセは神に告げられて、岩を打った。すると水が出た。 き しゆっ たべもの かみつ ( 6 ) マナーー・・これも「出エジプト記」に出ている。イスラエル人が、食物がなくなって不平をいったとき、モーセは、神に告げられ て、天からパンがふってくることを、みなにったえた。それを人びとは、マナとよぶことになった。 はんとう せいき ( 7 ) メッカとダマスコ どちらも、いまも有名なところ。メッカは、アラビア半島の中にあって、回教が七世紀におこってからは、 しんせい こくしゅふ そのもっとも神聖な地とされた。ダマスコは、ふつうダマスカスといわれる。小アジアにあって、、 しまのシリア国の首府。 しかい しおずうみ ( 8 ) 塩の湖ーー - ・死海のこと。 ( 9 ) オアシスーー・砂ばくの中で、水が出て木がしげるところ。隊商が休むところになる。 ものがたりさいご ( 間 ) 王ーーこの物語の最後にあらわれるダビデのことである。 ( 3 ) 「約東の箱」 し さ けいやくはこ たいしよう 力い強 - よ ,

4. 旧約聖書物語

これで旧約聖書についてのかんたんな解説をおわります。 ニ新約聖書 かんけい ちよくせつ きゅうやくせいしよものがたり 新約は、この『旧約聖書物語』に直接には関係がありませんから、解説はかんたんなものにします。 きげんん れぎし 前に書きましたイスラ = ル人の歴史は、紀元前六三年にローマによって征服されたというところでおわってい じゅなんじだい りようど くつじゅうじだ、 ました。そしてローマの領土になり、イスラエル人は屈従の時代、受難の時代にはいったのでした。かれらは、 くる すく そのような苦しみの底から、救いをもとめないではいられませんでした。 ばあい すく 救いといえば、この場合には、ふたつのことが考えられると思います。ひとつは、ローマの力をはらいのけて じゅうたみ どくりつ 独立した自由の民となるということです。もちろんイスラエル人の多くのものが、それをはげしくのそみました。 すく 神がわれわれを救われるというのはそのことなのだと考えるのでした。 かみ しかしもうひとつの考えが出てきました。それはこうです。ーーー神がしめした救いの道というのは、それだけ にんげん どくりつ つるぎ だろうか。たとえば剣のカでローマとあらそって独立して、権力をうちたてたとして、それで人間はほんとうに しあわ 幸せで平和に生きることができるだろうか。おなじような争いをつぎからつぎへとくりかえすばかりではないか。 神の教えは、もっと深いものであるということをしめすものが、このときあらわれました。それは、そのころ 大きな勢力になっていた = ダヤ教の祭司たちの中から出たのではありません。思いもかけぬようなところから出 きょ せんれい しゅぎよう ました。まず、バ。フテスマのヨハネでした。気プテスマとは水で清める洗礼のこと ) 。かれは荒野で修業をし、 こ つみく かみすく 人びとにむかって、これからほんとうに神の救いがくるのだから、みな罪を悔いあらためよと告げました。あの したっとよげんしゃ 菊きゅうやくじだ、 旧約の時代の尊い預言者のおもかげがありました。このヨハネが、まもなくじぶんよりはるかにすぐれたかたが かみ しんやく かみおし しんやくせいしょ きゅうやくせいしょ そこ ふか きようさいし かいせつ けんりよく あらそ かいせつ すく あれの

5. 旧約聖書物語

453 ぜん よげんしょ つぎに、第二の群れ「預言書」というものがあります。これは、さらにふたつにわけられます。ひとつは「前 ししき れつおうき れきししょ よげんしょ 預言書」といわれたり「歴史書」といわれたりします。「ヨシ = ア記」「士師記」「サムエル記上・下」「列王記 上・下」などです。この本のヨシュアからサムソン、サムエル、サウル、ダビデまでのことが、そこにふくまれ んよげんしょ れきし でんせつ ここには、伝説をまじえた歴史が書かれているのですが、それを「前預言書」 ています。それでも見るように、 もん てん よげんしゃ といったりするわけは、これが預言者たちの手で書かれたものだと思われていたからだそうです。その点には問 よげんしゃ 題があるとして、サムエルのような偉大な預言者のことも、ここには書かれているのです。 しょ しょ こうよげんしょ 「後預言書」というのは、「イザャ書」「エレミャ書」「エゼキエル書」のような重大なものをはじめ、もっと しょ しょ しょ しょ しょ よげんしょ 小さな十二の預言書、「ホセア書」「ヨエル書」「アモス書」「オバデア書」「ヨナ書」「ミカ書」「ナホム書」「ハ よげんしゃ しょ しょ しょ しょ しょ クク書」「ゼパニヤ書」「 ( ガイ書」「ゼカリヤ書」「マラキ書」があります。たびたびいったことですが、預言者 かみしん かん かみれい たちは、神の霊のささやきを心に感じて、それを人びとに伝えました。どこまでも神を信じ、神との契約として せいかっ ただ 正しいおこないをし、神の愛をふかく理解し、じぶんたちも愛にみちた生活をすることをもとめました。そして、 罪を悔いてあらためなければ、イスラエルの民は、たとえ神にえらばれたものであるといっても、苦しい試練を かみしんかみあい おもばつう あたえられ、重い罰を受けるであろうといましめました。しかし、もし、神を信じ神の愛によって生きるならば、 すく 最後には救われるであろう、とはげましました。そのようにして、やがてキリストがあらわれる道を切りひらい よげんしゃのち ものがたり この本の物語を、こういう預言者が後に出てくることを心にとめながら読んでいただき解 ていったのでした。 たいと思います。 第三の「諸書」について書きます。これは諸書といわれるとおり、前のふたつのなかまのほかのもので、さま しん聖 れきだいし せいしつ ざまな性質のものがあります。「歴代志上・下」「エズラ記」「ネ〈ミャ記」「 = ステル記」「ヨプ記」「詩篇」「箴 つみく だい しよしょ かみあい しょ しょ たみ しよしょ かみ った じゅうだい かみ くる けいやく しょ しへん しれん

6. 旧約聖書物語

458 それについては、ふたつのことをいっておぎましよう。そのひとつは、キリストの教えになると、もはやイス ラエル人だけが神がえらばれたものではなく、ほかのどんな民族のものであっても、ほんとうの神の心をおこな すく うものであるならば、救われるのだということになったのです。敵はどんなむごい目にあってもいいなどという きようつうあい 考えかたではないのです。これでキリストの教えは、イスラ = ル人だけのものでなく、世界人類を共通に愛でつ なぐものになったわけであります。 いまひとつは、神との契約の意味、または、おきての意味が大きくかわってきたということです。キリストの くる かたち まっ 心にしたがうならば、さかんな祭りをしたり、また、かた苦しい形だけととのったようなおきてをまもることに かみおし どんな ういうことで、神の教えにあうように生きることはできません。すべて、 は、意味はありません。そ にんげん ぎようぐうにんげん みんぞく じぶんの心を正しくすることが根本なのです。神を 民族のどんな境遇の人間でも、罪をおかした人間でも、 信じ、神の愛を信じ、そしてじぶんも、ひとすじに愛の心にみちて人びとの中で生きていくこと、それが神の心 えいえんかみせかい にかなうことであって、そのことによ 0 て、生死をこえた、永遠の神の世界に生きることができるのです。つま あたら やくそくきゅうやく しんやく り、神と人間の契約の意味がかわったのです。「新約」というのは、そのことです。古い約東 ( 旧約 ) が、新しい よげんしゃ 約束 ( 新約 ) になったのです。 ( もちろん、預言者についてはなしましたように、旧約の中にそうした芽ばえはあ って、それがキリストによってはっきりとしてきたのです。 ) また、キリストの生活についての話にもどりましよう。さきほどは、その教えに多くの人びとがしたがい、 しん んとうの神の子はあらわれたと信じるようにな 0 たといいましたが、そうすると、そのキリストをにくむものが しゅうきようじようけんりよく 出てきました。それは、この 0 ーの領土であるイスラ = ~ の地で、宗教上で権力をも 0 ていた = ダヤ教の 司の人びとでした。キリストをじぶんたちの敵であるとして、殺したく思うようになりました。キリストの教え けいやく つみ りよろ′ど せいし てぎ みんぞく ころ てき ただ きゅうやく せかいじんるい こんぽん かみ かみ

7. 旧約聖書物語

テを見つめて、胸をはけしくときめかしながら、ゴリアテがにくにくしげなおごりたかぶったことばをはくのを なが じっと聞いた。ゴリアテのものすごい声がびびきわたると、イスラエル軍のうち、流れのそばで水がめに水をみ たしていたものや、陣のはしこ 冫いたものは、腰をぬかすほどおそれて、走ってにげかえった。。 タビデは、それを 見てまゆをひそめた。そして、近くに立っていた人びとをふりむいてたずねた。 「あのにくにくしいペリシテ人は何ものですか。そして、どういうわけで、あの男は、まことの神工ホバにつ ぐんい かえる軍勢をあざけりながら、戦いをいどむのですか。どんな人があのものとたたかうためにえらばれているの ですか。あのものをたおして、イスラエルにくわえられたこのはすかしめとあざけりをそそぐ人は、どのように あっかわれるのでしようか。」 そばに立っていた兵士たちは、ダビデにつげていった。 「まだだれもあの大きな男とたたかうためにえらばれてはいないし、すすんでかれと戦いに出ていくものもい ちょうせん たたか ないだが、かれの挑戦にこたえて一対一で戦い、かれを殺したものがあったら、大金をいただけるばかりでな かぞく しに、王女をもらうことができるだろう。そしてその日からのちは、そのものの父がだれであっても、その家族 はみな、イスラエルの自由な民ということにされるだろう。」 ダビデは、かれらがいうことを聞きながら、考えこんだ。 としうえあに しかし、かれのいちばん年上の兄エリアプは、かれが兵士たちとはなしていることを聞くと、はらをたてて、 よげんしゃ はけしくかれをふりかえった。エリアプは、偉大な預言者サムエルがべツレヘムの村をおとすれた日のことをお わか おとうとよげんしやしゆくふく ・ほえていた。あのとき、エリアプはのけものにされて、このごく若いいちばん下の弟が預言者に祝福され、神聖 あぶらきょ きゅうでん な油で清められたのだった。また、エリアプは、ダビデが王から宮殿によばれたことを聞いたときにも、ねたま むね じん じゅうたみ ちか たたか たい こし ころ ぐん たいきん たたか かみ しんせい

8. 旧約聖書物語

192 しようがっ かれらの正月にすることにきめたのであった。 しったい、イスラエル人のならわしでは、春の月が空に雪のようにかがやく日を神聖なものとしていて、貧し かみ い生活の中ではあったけれど、神をたたえて、できるだけたのしい祝いをすることになっていた。そして、イス しゅうかん しゅうかん しんげつ ほんの二週間だけが、あるわけだ ラエルの新年の夜にの。ほった新月が、まんまるくなるまでには、二週間が まっ った。そのときを祝うおごそかな祭りは、いままでにないほど、さかんなものにすることになった。それは神が、 まっ ねん ねん きねん イスラエル人のすべてが記念するようにと命じられた祭りなのだから、念には念をいれて、じゅんびしなければ ならない。 なが 時は、ゆったりと流れていった。いく夜もいく夜もすぎた。太陽は、まい日まい日、風もないしずかな空に、 ぐら しんげつ きまった道すじをとおってのぼり、そしてしずんだ。日がくれてほの暗くなると、さきのとがった新月がのぼっ たいよう て、太陽からかりた光を、しだいにあかるくしていった。エジプトの空は、あの恐ろしいあらし、つむじ風、や けん みなどのあとで、まったくしずかだったので、エジプト王と、王の意見にさんせいしたものたちとは、もう、に あんしん くらしいへブライ人どもになやまされることはなくなったらしいと、安心しはじめるのだった。 きゅうでん 話をすこし前にもどせば、エジプト王は、あの、モーセが最後に宮殿にあらわれた日の夜には、心をおちつけ て眠ることがどうしてもできなかった。モーセがじぶんにむかって、おびやかすようにいったことばは、そのの ひょうめんへいぎ ちも鐘の音のように耳になりひびきつづけ、王は表面は平気なようすを見せながらも、心はかきみだされてしま しんらい こうたいし っていた。とうとう、もっとも信頼する臣下に、しぶんのいちばん上の子である皇太子を、しじゅうよく護衛す るようにと命令をくだしたのだった。 こうたいし しかし、くる日もくる日も、夜があけてみれば、皇太子はぶじですこやかな顔をしていたし、その部屋の内や せいかっ ねむ かね しんねん しんか たいよう しんせい ごえい うち まず かみ

9. 旧約聖書物語

249 普んぐん だまも消えると、イスラエルの全軍は、大きくものすごいときの声をあげた。 じようへぎ リコの城壁がくだけて、地面にくず そのラッパのひびきと大きなときの声とが消えると、あやしいことに、エ れおちてしまい、城門はひらりとあけはなたれ、そしてイスラ = ル軍は、ひとりのこらず、そのまま、まっすぐ に町へはいってきた。こうしてかれらは、町を攻めおとし、火をつけ、すべてをうちこわした。ただラ ( プとい う女と、その父母そのほかの家族は、ふたりのスパイがちかったとおり、ぶじに救われた。 ぐん ヨシ = アがひきいたイスラエルの軍は、征服から征服へと、すすんでいった。エリコがおちてから数年のあい だに、ヨシ = アは、多くの王たちやかしらたちとたたかった。そのうちには、ただじぶんだけのカで町を守ろう としたものもあり、またじぶんたちより強いものの下にあつまって同盟をむすんでたたかったものもあったが、 ヨシュアは、その三十一を征服した。 しかし、カナンの地にあった国々がみな平らげられるまでには、これからまだ何百年もかかったのだった。ま かす た、ヨシ = アは、多くの部族の領地を、その力と数とにあうように、それそれきめてやったのだが、かれらは、 なかま きようどうてきあいて 共同の敵を相手にたたかうだけでなく、じぶんたちの仲間どうしでもたたかった。 イスラエルが、ひとりの偉大でかがやかしい王のカのもとでひとつの王国として、かたく立つまでには、これ からまだ長い日々がたたなければならなかった。その王の座は、神の神殿のあるエルサレムであった。 かみ ( 1 ) めをきざんだ石ーー・神はホレ・フの山の上でえらばれた民としてのイスラエル人がまもらなければならぬ戒めをきざんだ石をモ かいせつ ーセにあたえた。解説を見てください。 どう にはんやくせいしょ かみまくや このことばを、日本訳の聖書とおなじに、ここで使うことにした。これは移動する神殿と見ていし ( 2 ) 「神の幕屋」 じようもん ふそく せいふく かぞく りようち せいふく せいふく たみ かみしんでん ぐん どうめい すく しんでん すうねん じめん 5 荒野

10. 旧約聖書物語

352 めしつか こを生んだとき、そこで苦しんで死んだのだったが、その墓の近くで、サウルと召使いはふたりの人に出あった。 そのふたりは、サウルに、かれの父のロバがとっくに見つかったことをつけていった。 「いそいでいきなさい。あなたの父上は、あなたのことで心をいためて、あなたのぶじだけをねがっておられ ます。」 よげん サウルと召使いとが、タポルの野に一本だけで立っている神聖なカシの木のそばにきたとき、また預言のとお たびびとあ りに、三人の旅人に会った。かれらは、神へのささげものとして、ブドウ酒とパンと子ャギをもって、ペテルの 町の神殿にいけにえをささげにいくところだった。かれらはサウルたちとあいさつをかわしたが、わかれるとき、 たべもの ンをもっていた男が、サウルと召使いに食物がのこっていないのを見て、二個のパンをあたえた。ふたりは、 っしょに歩きながら、パンを割ってたべた。 ふたりは、その人たちとは、ほとんどことばをかわさなかった。サウルのらは、もの思いでいつばいになって なが ほ。 ) こ ~ ノ いたからだった。一日のうちに、かれのからだの中の生命の流れが、方向をかえたように思われた。それはまる ぐら ひるにつこう なが で、うす暗くさびしい森のひかけを流れていた川の水が、ま昼の日光の中へほとばしり出たようだった。 おんがく そしてさいごに、ふたりがゲバにある神殿の丘のふもとまできて、家に近づいたとき、高いところから音楽の しらべがひびいてくるのが耳にはいっこ。 よげんしゃ 見ると、預言者たちの一団が神殿からくだってくるところで、そばには、楽士たちがっきそって、たて琴、手 うつく よげんしゃ おんがく ふえこと つづみ、笛、琴などをかなでていた。音楽ははけしく美しい音で空にひびき、預言者たちは歩きながらとびあが よげん せいか ったりおどったりし、かん高い声で聖歌をうたい、預言をとなえるのだった。 かれらが近づいてくると、サウルはその場に立ちどまり、身うごきもせず、心をうばわれ、目をタカのようにす しんでん めしつか ちか くる だんしんでん めしつか かみ しんでんおか はカちカ しんせい しゅ ちか がくし こ ごと