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検索対象: 旧約聖書物語
188件見つかりました。

1. 旧約聖書物語

462 しょげいじゅっ シアから全ヨーロッパにったえられた、すばらしい諸芸術も、この地上をゆたかにするものでした。さらに、科 がくぎじゅっせいしん せいかつはったっ 学・技術の精神というものがあって、それではじめて、いまわたしたちが生きているような文明の生活が発達し たのでした。 きゅうやくしんやくせいしん しょげいじゅっ 旧約・新約の精神だけでは、そのように諸芸術の花がひらき、生活がゆたかになることはなかったかもしれま にんげん せん。つまり何かものたりなかったのでしよう。しかし人間は、生活が華やかにゆたかになるだけで、じゅうぶ かがくぎじゅっはったっ つみ んでありましようか。そこにみがおこり、罪がはびこりはしないでしようか。たとえば、科学、技術の発達の ちょうてん げんざい にんげんかくぶんれつ ひとつの頂点としてーーー現在のところーー・・人間は核を分裂させる力をさえもつようになったのですが、それが恐 ごろ せんそうぶき ろしい戦争の武器となって人をみな殺しにするということならば、わたしたちは、もうひとつ、ほかのことも、 考えなければなりません。それは、あやまちゃ罪から救いをもとめて立ちあがるということです。このような議 はしら ろん 論は、これくらいでやめますが、とにかく、こうしてみると、「ふたつの柱」ということは、いまの世の中でも、 そんざい こんばんもんだい 根本の問題として存在しているのです。 ぶんがくさくひん この本は、すぐれた文学の作品としてたのしくあじわっていただければよろしいのですが、その奥のほうに、 もんだい いろいろな問題があると思ったものですから、以上のように書きました。 きゅうやくよ とみ げんしょ なお原書には、「旧約は世のどんな富にもまさるもの」ということばからはじまるデ・ラ・メアの序文がつい んやく ないよう えいごやくきゅうやくぶんしようひかくけんぎゅう ていますが、その内容の大部分が、多くの英語訳の旧約の文章の比較研究なので、この本に翻訳することは、は しよう力い くしん ものがたり けんきゅう ぶきました。ただ、。 テ・ラ・メアが、そのように苦心して研究してこの物語を書いたのだということを紹介して こう きゅうやく おきます。それからもうひとつ、デ・ラ・メアは、じぶんが少年のころに旧約を読んだときに心にあらわれた光 しよう力し 景を思い出しながら書いたといっていることも、紹介しておきます。 ん だいふぶん つみ いじよう せいかっ せいかつはな ぶんめい おく じよぶん

2. 旧約聖書物語

439 よう 一旧約聖書 聖書は、世界でいちばんよく知られ、いちばんよく読まれている本であるといわれます。そして長いあいだに わたって、西洋の人びとの精神をつくる根本の力になってきたものであります。ここに書きとどめられてあるこ しそう げいじゅっ せいようぶんか しゅう洋 - ようおし とが、宗教の教えであるのはいうまでもありませんが、そればかりでなく、西洋の文化、思想、芸術、そして生 せいしょ 活のありかたはー・ー・つまり西洋の文明の全体は、この聖書があってこそ、あのようになったのです。それだけで じゅう せいしょ はなく、聖書は、わたしたち東洋の人びとをこめて、人類のすべてのものにとって、はかり知れぬほど大きな重 要な意味をもっているのです せいようぶんめい もっとも、もう少しくわしくいえば、西洋の文明には、もうひとつのみなもとがあります。それはギリシア・ せいようふんめい はしら せいしん ローマの精神であって、それと、この旧約・新約の精神とが、いわばふたつの柱になって西洋の文明をつくりあ もんだい げているわけです。この間題については、あとでまた書くことにしましよう。とにかく聖書は、わたしたちが西 じゅうだい じんるい 洋を知り、そして世界を知り人類を知るのに、また、どう生きるかという重大なことを考えるのに、どうしても、解 なくてはならないものなのであります。 ぎゅうやく きゅうやくせいしよしんやくせいしょ その聖書は、旧約聖書と新約聖書にわかれています。旧約のほうは三十九篇から、新約のほうは二十七篇から、 ぎゅうやく ぎゅうやくせいしよものがたり 成りたっています。ところで、いまここに訳した『旧約聖書物語』は、そのうちの旧約の、しかもそのいちばん ぎゅうやくせいしょ せいしん せいしょ 聖書についての解説 せいし人 せいようふんめい とよノよう かいせつ きゅうやくしんやく んたい こんん やく じんるい 〈ん しんやく せいしょ 阿部知一一 とも へん こ

3. 旧約聖書物語

192 しようがっ かれらの正月にすることにきめたのであった。 しったい、イスラエル人のならわしでは、春の月が空に雪のようにかがやく日を神聖なものとしていて、貧し かみ い生活の中ではあったけれど、神をたたえて、できるだけたのしい祝いをすることになっていた。そして、イス しゅうかん しゅうかん しんげつ ほんの二週間だけが、あるわけだ ラエルの新年の夜にの。ほった新月が、まんまるくなるまでには、二週間が まっ った。そのときを祝うおごそかな祭りは、いままでにないほど、さかんなものにすることになった。それは神が、 まっ ねん ねん きねん イスラエル人のすべてが記念するようにと命じられた祭りなのだから、念には念をいれて、じゅんびしなければ ならない。 なが 時は、ゆったりと流れていった。いく夜もいく夜もすぎた。太陽は、まい日まい日、風もないしずかな空に、 ぐら しんげつ きまった道すじをとおってのぼり、そしてしずんだ。日がくれてほの暗くなると、さきのとがった新月がのぼっ たいよう て、太陽からかりた光を、しだいにあかるくしていった。エジプトの空は、あの恐ろしいあらし、つむじ風、や けん みなどのあとで、まったくしずかだったので、エジプト王と、王の意見にさんせいしたものたちとは、もう、に あんしん くらしいへブライ人どもになやまされることはなくなったらしいと、安心しはじめるのだった。 きゅうでん 話をすこし前にもどせば、エジプト王は、あの、モーセが最後に宮殿にあらわれた日の夜には、心をおちつけ て眠ることがどうしてもできなかった。モーセがじぶんにむかって、おびやかすようにいったことばは、そのの ひょうめんへいぎ ちも鐘の音のように耳になりひびきつづけ、王は表面は平気なようすを見せながらも、心はかきみだされてしま しんらい こうたいし っていた。とうとう、もっとも信頼する臣下に、しぶんのいちばん上の子である皇太子を、しじゅうよく護衛す るようにと命令をくだしたのだった。 こうたいし しかし、くる日もくる日も、夜があけてみれば、皇太子はぶじですこやかな顔をしていたし、その部屋の内や せいかっ ねむ かね しんねん しんか たいよう しんせい ごえい うち まず かみ

4. 旧約聖書物語

くら くて元気がなく、顔は心に重荷があることをしめしながら、暗い色をしていた。もちろん、ヨセフが世話をして しゅうじん いた囚人たちは、みなみじめで心、ほそい思いをしていたのだ。だからョセフは、できるだけかれらを元気づけよ うとしていた。というのは、ヨセフはしんせつな性質だったうえに、じぶんもみなとおなじような気もちだった からだった。 そこでヨセフは、友情をこめてふたりを見つめながら、たずねた。 「どうしてあなたがたは、朝だというのに顔をうつむけて、がっかりしたようすをしているのですか。」 きゅうじちょう 給仕長がこたえた。 「夜があけるまえに、ふたりとも、ゆめをみたのです。どっちのゆめにも、似たようなところがあるのです。 わす ずっと気にかかっているのですが、どうしてもわけがわからず、そうかといって忘れてしまうこともできません。 じゅうみ もし自由の身だったら、ゆめを解くうらない師のところへいけば、ゆめのわけをはなしてくれて、すべてはっ きりするわけです。けれど、この牢の中では、ゆめを解く力のある人などを、さがしようもありません。」 ョセフはいっこ。 「ゆめを解くことは、神のお力でなければできません。じつは、わたしも、よくゆめをみるのです。あなたが かな たのを、はなしてみてくだされば、お手つだいできるかもしれません。あなたがたが悲しそうにしておられるの を見ると、わたしもつらくなります。」 きゅうじちょう それで給仕長が、じぶんのゆめをョセフにはなした。それは、こんなふうだった。 「ゆめの中で、わたしはブドウのつるを見ました。わたしが目がさめているときに見るものよりも、ずっとみ どりがさえていきいきとしていました。 かお ゅうじよう かみ おもに ろう かお せいしつ に 3 ョセフ

5. 旧約聖書物語

194 ゴセンの地方のプサトというエジプト人の町のものなどのように、ヘブライ人とゆききしてくらしていたれん つか じゅうは、おくり物をしたり、わいろを使ったりして、いっしようけんめいに、 ヘブライ人たちのきけんをとろ うとするのだった。 モーセはヘブライ人たちに、何でも思うようにエジプト人に要求すればよろしい、といいわたした。それでか ようきゅう れらは、いろいろ要求したが、エジプト人たちは、けっしてことわらなかった。ヘブライ人たちは、受けとりな とうんけんり くる がら、めぐんでもらったのだなどとは思わなかった。これは当然の権利ーーーっまり、あんなに長いあいだ苦しめ だいきん られ、何百年もこき使われたことへの、代金のようなものだと思った。 かんとく エジプト人の監督たちは、王から命じられたとおり、その下ではたらかせているヘブライ人たちを、いっそう にんげん むごたらしく追いっかい、苦しめるのだった。おしまいには、もう人間としてがまんできないほどになった。し くら かしそれでも、ヘブライ人たちょ、、 をしままでのように暗い気もちになってがつくりカをおとしたりしなかった。 くる きぼう 神から何となく希望をさずけられているような心がして、苦しみも何とも思わないのだった。もえあがる腹だち わす なども、すっかり忘れてしまったかのようだった。 うつく くちぐち 古くからカナンの地にったわった、はげしくて悲しくて美しい歌を、みなが口々にうたった。エジプト人には、 うたなが おそ それは何をいっているのかわからなかったけれど、聞いていると、その歌の流れの中に、何か恐ろしいことがち わる らちらとひびいているような気がした。きみが悪くなって、歌ごえに身ぶるいした。とうとうへブライ人のどれ いたちは、ものをいうことを、いっさい、さしとめられたが、それでも、かれらの顔はみなかがやいていたから、 うた おそ 心の中で歌をうたいつづけていたのにちがいなかった。そしてエジ。フトの国じゅうの、しずかさの中に、何か恐 かん ろしいことが、いまにもおこるのではないかという感じがあふれていた。 かみ もの つか くる うた ようぎゅう うた かお はら

6. 旧約聖書物語

かん めのほうの楽園のあたりの描写を読むだけでも、そのことをじゅうぶんに感じられるでしよう。そして訳者とし ふんしよううつく てのわたしは、そのデ・ラ・メアのすばらしい文章の美しさの、せめていくらかでもを日本語にうっそうとここ やく ぶんしよう ろみたのですが、それはひじように困難なことでした。詩のような文章は、なかなか訳しにくいものです。デ・ かん どくしゃ ラ・メアにたいしても読者のみなさんにたいしても、もうしわけなく感じております。 りくっ この中には、まったく理屈にあわぬ途方もないことや、目をおおいたく また、読まれればわかりますように、 きゅうやく ざんこく なるような残酷なことが、自由に書かれております。それは、もともと旧約そのものに、そういうところがある してきげんそうせかい からですが、デ・ラ・メアは、それを、ふしぎな詩的な幻想の世界のできごととして、えがきだそうとしている ぶんがくさくひん せんれん げいじゅってきこうど ようです。もう一度いいますが、これは芸術的に高度に洗練された、文学の作品なのです。 しゅうきようしよもっ ところで、こんな奇怪なことやむごいことが、宗教の書物の中にあるのはどういうことなのか、という問いが せつめい ここで出てくるでありましよう。それについては、これからあとで説明するつもりですが、いまここでは、その しゅうきようせいしん ような古い世界の中から、しだいに高い宗教の精神がうまれて成長してきて、ついには人類のもっとも偉大なみ あたま ちびきのひとつであるキリストの教えがあらわれてくることになったのだということを、頭にしつかり入れてお ~ 、ことにしましよ、つ。 しゅうきようせいしん これから、そのような高い宗教の精神がどのような道をたどってうまれてきたかを書こうと思うのですが、ま解 きゅうやくしんやくないよう ずはじめに、それを生みだしたイスラエル人の歴史をひとわたり見て、それから旧約や新約の内容について考え じゅんじよ るという順序にしましよう。 ものがたり それで、イスラエル人のことから書きますが、これは、この物語でもしじゅう自由にとりかえてよばれている らくん せかい き力い びよしゃ じゅう こんなん れきし みち せいちょう とほう じゅう じんるい にほんご やくしゃ しだ、

7. 旧約聖書物語

124 てきてはいたが、その心はすみきっていて、ものごとを見とおす目は、すこしも力がおとろえていなかったから である。 その話がおわると、ヤコプはいよいよさいごの別れをつげ、安らかに死のおとずれを待った。べッドの中で足 せんそ さきを上にむけて立て、そのたましいを、はじめにあたえられた神のもとへおかえしし、そして先祖たちのとこ ろへいそぐのだった。 いのちき なみだ ョセフは、父の命が消えていったのを見ると、そのなきがらのそばに身をよこたえて、くちづけをし、涙をそ かな そぎ、ほかのものがいってしまってからあとも、ひとり、亡くなった父のそばにのこって、なげき悲しんだ。 しゃ したい それからョセフは、父のなきがらを、じぶんが使っている医者たちの手にわたした。かれらは、死体をミイラ じゅっ きちょうやくひんこうりようぎよ にして保存する術にすぐれていて、ヤコ・フのなきがらを、貴重な薬品や香料で清めて、くさらないようにし、 ぬの ちばんいいアサ布でしつかりと巻きつけた。 かぞく きゅうてい ヤコブの死をとむらったのは、むすこたちとその家族だけでなかった。エジプト王そのひと、大臣たち、宮廷 につかえるものたち、いや、エジプトじゅうの人民ーーーっまり、高いものから低いものまですべてが、ヤコブの 死をいたんだのだった。エジプトが、この他国の人のために喪に服したのは、七十日のあいだだった。それとい そうりだいじん うのも、王の名高い総理大臣のヨセフが、長いあいだ死んだものと思われていた身だったのに、ふしぎなことが きようだい ものがたり おこって、父や兄弟とふたたびめぐり会うことができたという物語は、国じゅう、はしからはしまで、知れわた っていたからだった。 ョセフは王に、父のなぎがらはエジプトにはほうむらないとちかったということを知らせた。ここはヤコ・フに たこ・、 は他国なのだから、やはりうまれた国のカナンの地で、父のイサクと墓をいっしょにしたいというねがいを、か ほぞん たこく じんみん わか つか やす ふく かみ ひく だいじん

8. 旧約聖書物語

169 にんげん に、そしてかんだかくひびいた。血にうえていて、昼も夜も人間やけものをなやまして、それからのがれて気も ちをおちつかせることなどは、どうしてもできなかった。 じゅっ まほうつか エジプト王は、魔法使いたちをよびあつめて、そのふしぎな術のカで、ちりから生きものを出してみよ、と命 ばっ 令した。かれらは、王の怒りと罰をおそれて、そのときにはだまってこたえなかったが、心の中では、じぶんた じゅっ まほう ちの魔法ではどうすることもできないのを知っていた。そのようなふしぎなことは、かれらの術ではおよばない ちゅうこく ことだった。かれらはこまってしまって、とうとう王に忠告することにきめた。 わる 「王さまが、お気をおつけになるよう、おねがいいたします。あの悪いへ・フライ人どもは、わたしたちが知り こきゅう ませぬ神秘のわざをあらわすことを知っております。ただいま、われわれエジプト人が呼吸する空気をかきみだ して、おそってきていますものは、ただの魔法ではありません。もっと重大な、恐るべきことが根本にございま す。わたしたちは、そこに神の手がはたらいていることを見るのであります。」 ちゅうこく しかし、エジプト王の心のおごりとわがままさは、底知れぬほどだったから、かれらの忠告をきこうとはしな かみ かった。ヘブライ人たちを、怒りにもえてにくんで、その心はますますがんこになった。神の心を知っておそれ ているくせに、それにしたがうことがいやになって、意地になってさからうのだった。そういう王からは、天の にんげん めぐみで人間にあたえられているところの、あわれみの心などは消えてしまっていた。王は、もうこれからはヘ ブライ人どもにはムわぬといった。 とノ せんしゃ 王が、二頭の馬に引かせた戦車にのって、臣下をしたがえながらナイル川への道にむかっていたとき、モーセ なさけ は、道をさえぎって、王のまえに立った。そして、もし情ぶかくされないならば、かならす、もっと大きなわざモ かみがみ わいがふりかかってきます、といましめた。しかし王は、じぶんの神々の名をよんで、モーセをのろって、顔を しんび かみ まほう しんか びる そこ じゅうだい こんぽん かお

9. 旧約聖書物語

182 たひょうや、いなずまで受けたわざわいのあとで、やっとほっと一息ついていたところだったのに、こんどは、 きようさくう だい ほんのすこしのこっていたものも、すっかり台なしになってしまった。凶作と餓えが、もうそこまできているの しぜんさいが、 かみ だ。かれらは、これは自然の災害ではなくて、神の手がはたらいているのだということを知った。 ほのお ふかあなほり かれらは、死にものぐるいで、深い穴や堀を大いそぎで掘って、火をもやして、炎やけむりをたかく立てたが、 たいぐん あな 数しれずおり重なって死んだイナゴのために、火が消え、穴がふさがってしまった。そしてイナゴは、大群をつ しんぐん ちょうりゅう くってどしどし進軍してくるのだった。海の潮流をおしかえすことができないのとおなじだった。 しゅうちじ かんとく この恐ろしいわざわいの日の、時がたつにつれて、エジ。フトじゅうの州の知事や倉庫の監督たちのところから、 ほうこく きゅうつか 急の使いがきて、王に報告するのだった。馬にのったものは、馬のひづめにふみにじられた多くのイナゴのため にぬるぬるすべるので、あちこちに道をかえていかなければならなかった。 書 0 し力し きけん エジプト王も、この災害を早く取りのそかないと、恐ろしい危険におちこむにちがいないと、はっきり知った。 わす そうだん すっかりうろたえて、じぶんの誇りも忘れてしまった。大臣たちに相談することもしないで、いそいでモーセと アロンをよんで、じぶんがあやまちをおかしたのだといって、かぶとをぬいだ。そして、このまえの会見のとき しつれい に、じぶんがあわててしまって、臣下にかれらを追いださせるというような失礼なことをしたのは申しわけなか ったと、わびをいれた。そしてモーセにたのんだ。 「おりいっての願いである。どうか、いま一度だけ、わたしのためにエホバの神に話をつけて、このものすご いわざわいから、エジプトを救ってもらえないだろうか。もう、わたしには、しんぼうができないのだ。もし、 ねが そうしてもらえたら、わたしは、おまえたちの願いを、いちばんいいようにとりはからうことにする。」 ふたりはたち去っていった。王はなやみに心をいためながら、ひとりになって、これからどうなるだろうかと かず かさ ねが すく しんか だいじん ひといき かみ そうこ かいけん

10. 旧約聖書物語

129 その棺は、ゴセンに住む兄弟たちが守ることになった。そして、エジプト王ファラオとその宮廷の人びと、それ ーも し からエジプトの国じゅうのものが、ヨセフの死を悲しんで、何日も何日も喪に服した。それというのも、王の多 ちえ くの大臣たちのうちで、これほど見とおしがよくて、神秘をさぐることができ、カと知恵にめぐまれた偉大な人 はなかったからだった。 ものがたりちゅうしんじんぶつ ものがたり そうせいき ( 1 ) ヤコプーーーこれからの物語も、「創世記」の中のものである。ヤコプは、その物語の中心人物ョセフの父である。そして、この しんこう じんぶつ ヤコ・フの父のイサクの父がアプラハムであゑアプラハムは信仰のあつい大きな人物で、イスラエルの民 ( 解説を見てください ) の先 祖になったのである。 ヨルダン川の西の地方。いまの。ハレスチナの古代の名である。ここが、神によって、ア・フラハムとその子孫にあたえ ( 2 ) カナン られたのである。 ( 3 ) ラケルーヤコプには、ほかに三人も妻があって、たくさんの子がうまれたのであった。 しそん ( 4 ) イシマエル人ーーー北アラビアの地方の遊牧民をよぶ名である。ア・フラハムの子のイシマエルからの子孫とったえられていた。 しようこ しようこ ( 5 ) 証拠、ーヨセフは、にげるときにポテパルの妻に、きものを引きさかれて、そのきれはしが証拠ということになったわけだっ こ 0 ( 6 ) へ・フライ人ーー・・・聖書では、ア・フラハムが、まず、こうよばれている。イスラエル人、ユダヤ人、とおなじと見ていい。解説を見て ください。 つうよ ) 、つ。よんに通用しているよびかたで「ファラオ」とした。この「ファ ( 7 ) フ , ラオ 1 ー・日訳の聖書では「パロ」とな 0 ているが、しを ねん ラオ」というのは「エジプト王」のよび名なのだから、「エジプト王ファラオ」というのは、念が入りすぎておかしいわけだが、じフ せいしょ セ こういうふ一つに、 エジ。フト王パロとしるしたりしているのである。 つは聖書では、エジプト王の名であるかのように、 ョ ( 8 ) シリア、エチオ。ヒア、ヌビアーーーシリアは小アジアの地方。いまも、シリア国がある。エチオ。ヒアはアフリカ。いまもエチオビ じようりゅう ア国がある。ヌビアは、ナイル川の上流の地方。 だいじん せいしょ きようだい つま ゅうぼくん つま しんび こだい かみ ふく たみかいせつ きゅうてい しそん かいせつ をん